2013年08月27日
旧型客車 名古屋市へ譲渡?
河村たかし市長が、JR東海が保有する旧客をSL運行に使いたいから引き取りたいとの意向らしい。
今朝の新聞の一面に載っている。
JR東海の旧型客車は、私が記憶する限りでは、2000年頃、美濃太田に留置されているのを確認している。
今はどこにあるのだろうか。美濃太田に置いたままなのか。
最近、新幹線の車窓から浜松に置いてあるのを見たような気もするが、幻か。
河村が保存に熱心になってくれる心意気は、ありがたいことだ。
JR東海が今年、解体予定だったなんて、知らなかった。
解体なんて絶対しないで、活用策を考えてほしい。
JR東海は、今はSLを運行する能力は持っていないだろう。旧客を保存する気もないのだろうか。
別にSL関連でなくて良いのだから、旧客は保存してほしい。
JR東は熱心に各地でSL運転をしているし、JR西も梅小路を持っているし、山口線や北陸本線でもSL運転をしているので、この2社はSLの運行能力を保持し続けているのだ。
しかし、名古屋市が受け取るには、ちょっと無理があると思う。名古屋市が仮に譲渡を受けても将来性がない気がする。
河村のSL構想は、あまりにも素人レベルであるし、名古屋市が本気で取り組んでいるようにも見えない。
仮にあおなみ線にSL列車を定期的に運行しても、集客レベルが保てるか疑問がある。
あおなみ線はほとんど高架区間で、おもしろみに欠けるし、試験運行の終点だった貨物ターミナル止まりでは距離も短すぎる。
金城ふ頭まで運行して、リニア鉄道館と直結させたら価値もあるが。
この旧客を引き渡すには、アスベストの問題とか、車体も台車も朽ち果てているので、補修に1億円かかるとか。
私がJR東海のこの客車に最後に乗ったのは、飯田線のレトロ列車とかいう企画でEF58牽引で名古屋から中部天竜まで走ったときだと記憶する。
たしか、平成3、4年頃で、豊橋駅も旧駅舎だった。
現代で運行するには、垂れ流しのトイレとか手動ドアとか、どう改修するのかも難しいだろう。
新造よりも歴史的価値を認めて補修したいという考えには賛同する。
ちなみに新聞に、「冷暖房のパイプ部分に云々」と書いてあったが、もちろん旧客に冷房はなかった。
暖房用の蒸気管のことだ。昔の客車は、機関車のSGから供給される蒸気で車内を暖房していた。
パイプの断熱材にアスベストを使用していたのだろう。
あの暖房は電気に比べて、体に優しいものだった。
今でいうオイルヒーターみたいなもので、足下からじんわりと暖まり、心地よかった。
冬の朝一番の旧客に乗ると、機関車から蒸気が供給され始めると、「カキーン、コーン」と蒸気管が膨張して発する独特の音がして、少しずつ車内が暖かくなったものだ。
SGが必要なのは電気、ディーゼル機関車で、蒸気機関車は当然、動力用の蒸気の一部を供給していた。
旧客でも、近代化改造で蒸気暖房に電気暖房を併設する車両もたくさんあった。電暖対応車両は車体番号が1000番台になった。
電暖対応は、それに電気を供給する側、機関車も電暖対応である必要があった。東日本、北陸、東北が電暖化が進んだ気がする。
山陰、九州が最後まで蒸気暖房だった気がする。
蒸気暖房客車を牽引する機関車は、当然、SG搭載車に限られていた。DD51やEF58など、SG搭載が前提だった。
EF58の車体長が長くなったのも、SG搭載のためだ。
旧客から20系以降の新造客車は、電源車を備える固定編成化が一般的となり、機関車から暖房の電気や蒸気の供給を受ける必要性はなくなった。
12系、14系、24系と、電源分散か集中かの違いはあれど、客車自体で冷暖房の電気を賄うようになった。
JR東海も金城ふ頭に作ったリニア鉄道館には力を入れているが、新幹線ばかりに力を入れないで、ここでこそ、この旧型客車を保存すれば良いではないか。
本来は、JR東海の手で整備して、さまざまな企画列車として運行することが、旧客の未来にとって最善だと思う。
せっかく今まで保存してきた旧客を解体するなんて、なんてもったいないことだろうか。日本の鉄道文化遺産だと思う。
解体されるよりも、名古屋市が引き取ってくれるのもマシではあると思うが、長期的に見て名古屋市に未来永劫、旧客の運行、動態保存を期待するのは無理があると思う。
頼む、JR東海さん、自身の力で、旧客の動態保存をしてくれ。そして、企画列車として定期運行してくれ。
飯田線の秘境駅ツアーなんかに使ったら最高でしょう。
今朝の新聞の一面に載っている。
JR東海の旧型客車は、私が記憶する限りでは、2000年頃、美濃太田に留置されているのを確認している。
今はどこにあるのだろうか。美濃太田に置いたままなのか。
最近、新幹線の車窓から浜松に置いてあるのを見たような気もするが、幻か。
河村が保存に熱心になってくれる心意気は、ありがたいことだ。
JR東海が今年、解体予定だったなんて、知らなかった。
解体なんて絶対しないで、活用策を考えてほしい。
JR東海は、今はSLを運行する能力は持っていないだろう。旧客を保存する気もないのだろうか。
別にSL関連でなくて良いのだから、旧客は保存してほしい。
JR東は熱心に各地でSL運転をしているし、JR西も梅小路を持っているし、山口線や北陸本線でもSL運転をしているので、この2社はSLの運行能力を保持し続けているのだ。
しかし、名古屋市が受け取るには、ちょっと無理があると思う。名古屋市が仮に譲渡を受けても将来性がない気がする。
河村のSL構想は、あまりにも素人レベルであるし、名古屋市が本気で取り組んでいるようにも見えない。
仮にあおなみ線にSL列車を定期的に運行しても、集客レベルが保てるか疑問がある。
あおなみ線はほとんど高架区間で、おもしろみに欠けるし、試験運行の終点だった貨物ターミナル止まりでは距離も短すぎる。
金城ふ頭まで運行して、リニア鉄道館と直結させたら価値もあるが。
この旧客を引き渡すには、アスベストの問題とか、車体も台車も朽ち果てているので、補修に1億円かかるとか。
私がJR東海のこの客車に最後に乗ったのは、飯田線のレトロ列車とかいう企画でEF58牽引で名古屋から中部天竜まで走ったときだと記憶する。
たしか、平成3、4年頃で、豊橋駅も旧駅舎だった。
現代で運行するには、垂れ流しのトイレとか手動ドアとか、どう改修するのかも難しいだろう。
新造よりも歴史的価値を認めて補修したいという考えには賛同する。
ちなみに新聞に、「冷暖房のパイプ部分に云々」と書いてあったが、もちろん旧客に冷房はなかった。
暖房用の蒸気管のことだ。昔の客車は、機関車のSGから供給される蒸気で車内を暖房していた。
パイプの断熱材にアスベストを使用していたのだろう。
あの暖房は電気に比べて、体に優しいものだった。
今でいうオイルヒーターみたいなもので、足下からじんわりと暖まり、心地よかった。
冬の朝一番の旧客に乗ると、機関車から蒸気が供給され始めると、「カキーン、コーン」と蒸気管が膨張して発する独特の音がして、少しずつ車内が暖かくなったものだ。
SGが必要なのは電気、ディーゼル機関車で、蒸気機関車は当然、動力用の蒸気の一部を供給していた。
旧客でも、近代化改造で蒸気暖房に電気暖房を併設する車両もたくさんあった。電暖対応車両は車体番号が1000番台になった。
電暖対応は、それに電気を供給する側、機関車も電暖対応である必要があった。東日本、北陸、東北が電暖化が進んだ気がする。
山陰、九州が最後まで蒸気暖房だった気がする。
蒸気暖房客車を牽引する機関車は、当然、SG搭載車に限られていた。DD51やEF58など、SG搭載が前提だった。
EF58の車体長が長くなったのも、SG搭載のためだ。
旧客から20系以降の新造客車は、電源車を備える固定編成化が一般的となり、機関車から暖房の電気や蒸気の供給を受ける必要性はなくなった。
12系、14系、24系と、電源分散か集中かの違いはあれど、客車自体で冷暖房の電気を賄うようになった。
JR東海も金城ふ頭に作ったリニア鉄道館には力を入れているが、新幹線ばかりに力を入れないで、ここでこそ、この旧型客車を保存すれば良いではないか。
本来は、JR東海の手で整備して、さまざまな企画列車として運行することが、旧客の未来にとって最善だと思う。
せっかく今まで保存してきた旧客を解体するなんて、なんてもったいないことだろうか。日本の鉄道文化遺産だと思う。
解体されるよりも、名古屋市が引き取ってくれるのもマシではあると思うが、長期的に見て名古屋市に未来永劫、旧客の運行、動態保存を期待するのは無理があると思う。
頼む、JR東海さん、自身の力で、旧客の動態保存をしてくれ。そして、企画列車として定期運行してくれ。
飯田線の秘境駅ツアーなんかに使ったら最高でしょう。
2013年08月25日
桜通線 延伸区間 野並-徳重
恥ずかしながら、つい最近初めて、桜通線延伸区間の野並-徳重間に乗りました。
開通から1年半くらい経っていますね。
さて、乗ってみた感想です。
ホーム幅がせまい。異常に狭い。最初からホームドア前提の構造なんだろうけれど、狭い。ホームドアなしではあり得ないです。軌間1067ミリの日本の在来線フル規格の鉄道、地下鉄としては、異常な狭さです。東京ならあり得ない。
でもって、ホームドアがあるからさらに圧迫感があります。
階段は1カ所、エスカレータが上り下り両方ある点は評価できるが、あれではエスカレーターかエレベーターの位置に乗降客が集中しそうだ。
エスカレーターも上りは降車客が一度に集中することを配慮して2列規格だが、下りは分散するとの前提で1列規格だ。小規模な商業施設以外で、在来線フル規格鉄道のホームで1列規格のエスカレーターを見た記憶はない気がする。
素人が見ても、もうすべてがコスト削減を第一に、建設費を抑えることしか頭にない設計だ。
なんだか情けなくなってきた。
桜通線の延伸区間はもう、「この先の延伸も、乗客増も絶対にありません」と断言しているような構造だ。将来性ゼロ。
大丈夫か、名古屋市営地下鉄の将来はと、心配になってきます。
とにかく掘削幅を極限まで狭くして、工事費を1円でも安くすることしか頭になかったのだろう。
あんなみみっちい構造で延伸するくらいなら、そんなに金がもったいなら、最初から延伸なんかするなって言いたくなりました。
あれで名古屋市が、「当初の予定からコスト縮減で建設費をいくら抑えました」なんて自慢していたらバカだ。あんなセコイ構造なら、そりゃさぞかし安上がりで出来たでしょうと皮肉りたくなります。
あんなのはフル規格の日本の地下鉄ではない。軽便鉄道の地下鉄版みたいな安っぽい簡易ホームを備えた鉄道だ。
ホームだけは、大井川鉄道の千頭-井川間みたいだ。
徳重から名古屋方面に戻り、野並を過ぎてから、平成一桁の時代の設計の今池-野並までの区間に戻ると、本当にゆとりがあって、ほっとする駅空間に頼もしく感じました。
開通から1年半くらい経っていますね。
さて、乗ってみた感想です。
ホーム幅がせまい。異常に狭い。最初からホームドア前提の構造なんだろうけれど、狭い。ホームドアなしではあり得ないです。軌間1067ミリの日本の在来線フル規格の鉄道、地下鉄としては、異常な狭さです。東京ならあり得ない。
でもって、ホームドアがあるからさらに圧迫感があります。
階段は1カ所、エスカレータが上り下り両方ある点は評価できるが、あれではエスカレーターかエレベーターの位置に乗降客が集中しそうだ。
エスカレーターも上りは降車客が一度に集中することを配慮して2列規格だが、下りは分散するとの前提で1列規格だ。小規模な商業施設以外で、在来線フル規格鉄道のホームで1列規格のエスカレーターを見た記憶はない気がする。
素人が見ても、もうすべてがコスト削減を第一に、建設費を抑えることしか頭にない設計だ。
なんだか情けなくなってきた。
桜通線の延伸区間はもう、「この先の延伸も、乗客増も絶対にありません」と断言しているような構造だ。将来性ゼロ。
大丈夫か、名古屋市営地下鉄の将来はと、心配になってきます。
とにかく掘削幅を極限まで狭くして、工事費を1円でも安くすることしか頭になかったのだろう。
あんなみみっちい構造で延伸するくらいなら、そんなに金がもったいなら、最初から延伸なんかするなって言いたくなりました。
あれで名古屋市が、「当初の予定からコスト縮減で建設費をいくら抑えました」なんて自慢していたらバカだ。あんなセコイ構造なら、そりゃさぞかし安上がりで出来たでしょうと皮肉りたくなります。
あんなのはフル規格の日本の地下鉄ではない。軽便鉄道の地下鉄版みたいな安っぽい簡易ホームを備えた鉄道だ。
ホームだけは、大井川鉄道の千頭-井川間みたいだ。
徳重から名古屋方面に戻り、野並を過ぎてから、平成一桁の時代の設計の今池-野並までの区間に戻ると、本当にゆとりがあって、ほっとする駅空間に頼もしく感じました。
2013年08月21日
夏に感じる懐かしい 好きだけど変なにおい
私にとって、夏になると懐かしく感じる、変なにおいというものがあります。
○ アスファルト舗装工事のにおい
あのアスファルトを道路に敷く工事中の、新しいアスファルトの独特のにおい。
私が小学生の頃、東京の街中も古い舗装から新しい舗装にする工事が近所のあちこちで頻繁に行われていました。
夏は特ににおいがきつく感じました。
だから、今でもアスファルト舗装工事で漂ってくるにおいを嗅ぐと、なんだか懐かしく感じます。
○ カルキ臭の水道水
私が生まれ育った東京、昭和40年代は水道のカルキ臭が強かったと思います。
真夏の公園なんかの水飲み場で飲む、生暖かい水道水なんかは特に強く感じました。
最近は浄水技術も進化し、水道水の味にもうるさくなっているのであまりカルキ臭を感じません。
だけど、今でもたまにカルキ臭が強い水、特に夏など常温で飲む水道水のカルキ臭が強いと、なんだか懐かしくなってしまいます。
私にとっては、銘水よりもカルキ臭が強い水道水が、故郷の香りなんです。
○ シンナー臭
別に昔、シンナーを吸って喜んでいた訳ではありません。
昔、夏休みの図工の宿題なんかの工作物を作っていて、塗装作業なんかもしていた訳です。
そんなときの塗料のにおいが、特に今頃、暑い夏なんかに塗装工事から塗料のにおいが漂ってくると、懐かしくなってしまいます。
夏休みの朝、ラジオ体操のあと、そんな工作の宿題を早朝にやっていたものだから、今でもラジオ体操の曲とシンナー臭は、セットとなって思い出され懐かしくなります。
○ マルキューの釣りえさ
ヘラブナ釣り用の粉末のエサで、「赤へら」と「青へら」という商品がありました。
あのエサは独特の甘いような香りがあって、私は好きでした。食べたくなってしまうような。(食べたことはありません)
今でもそれに似た香りがすると、釣りエサを思い出して、懐かしくなります。
私は中学生の頃、釣りに熱中していました。
(ネットで見たら今でも「赤へら」はありました。甘い香りはバニラとありました)
○ ディーゼルエンジンの排気ガス
高校、大学生の頃、各地のローカル線の気動車に乗りまくっていました。
当時は、鈍行列車の気動車は、非冷房車ばかりでした。
夏はすべての窓が開け放たれて、山のにおい、田んぼのにおいが車内に流れてきました。
それに併せて、ディーゼルエンジンの排気ガスも容赦なく車内に入ってきます。
ディーゼル機関車が牽く客車列車などは、先頭車はエンジンの排熱と排気で車内は灼熱地獄になったものです。
そんなことで今でも、気動車の排ガスを嗅ぐと、懐かしく感じてしまいます。
非冷房車がなくなり、窓が開かない、開けられない列車ばかりの今となっては、過去の思い出の中の世界です。
○ 枕木の臭い
木製枕木は腐らないように、強烈な臭いの特殊な油が染みこませてあります。
今はコンクリートPC枕木ばかりだからあまり感じませんが、ポイント部分や鉄橋部分などは今でも木製枕木は現役です。
あの枕木の、特に新品の枕木の臭いは強烈でした。
また、線路脇の柵としても使い古しの枕木がよく使われていたりもしました。
昔は街中でも枕木を流用した柵とかいっぱいありました。
だから街中でも枕木の独特な臭いが身近にありました。
そんな枕木の臭いも懐かしいです。
○ アスファルト舗装工事のにおい
あのアスファルトを道路に敷く工事中の、新しいアスファルトの独特のにおい。
私が小学生の頃、東京の街中も古い舗装から新しい舗装にする工事が近所のあちこちで頻繁に行われていました。
夏は特ににおいがきつく感じました。
だから、今でもアスファルト舗装工事で漂ってくるにおいを嗅ぐと、なんだか懐かしく感じます。
○ カルキ臭の水道水
私が生まれ育った東京、昭和40年代は水道のカルキ臭が強かったと思います。
真夏の公園なんかの水飲み場で飲む、生暖かい水道水なんかは特に強く感じました。
最近は浄水技術も進化し、水道水の味にもうるさくなっているのであまりカルキ臭を感じません。
だけど、今でもたまにカルキ臭が強い水、特に夏など常温で飲む水道水のカルキ臭が強いと、なんだか懐かしくなってしまいます。
私にとっては、銘水よりもカルキ臭が強い水道水が、故郷の香りなんです。
○ シンナー臭
別に昔、シンナーを吸って喜んでいた訳ではありません。
昔、夏休みの図工の宿題なんかの工作物を作っていて、塗装作業なんかもしていた訳です。
そんなときの塗料のにおいが、特に今頃、暑い夏なんかに塗装工事から塗料のにおいが漂ってくると、懐かしくなってしまいます。
夏休みの朝、ラジオ体操のあと、そんな工作の宿題を早朝にやっていたものだから、今でもラジオ体操の曲とシンナー臭は、セットとなって思い出され懐かしくなります。
○ マルキューの釣りえさ
ヘラブナ釣り用の粉末のエサで、「赤へら」と「青へら」という商品がありました。
あのエサは独特の甘いような香りがあって、私は好きでした。食べたくなってしまうような。(食べたことはありません)
今でもそれに似た香りがすると、釣りエサを思い出して、懐かしくなります。
私は中学生の頃、釣りに熱中していました。
(ネットで見たら今でも「赤へら」はありました。甘い香りはバニラとありました)
○ ディーゼルエンジンの排気ガス
高校、大学生の頃、各地のローカル線の気動車に乗りまくっていました。
当時は、鈍行列車の気動車は、非冷房車ばかりでした。
夏はすべての窓が開け放たれて、山のにおい、田んぼのにおいが車内に流れてきました。
それに併せて、ディーゼルエンジンの排気ガスも容赦なく車内に入ってきます。
ディーゼル機関車が牽く客車列車などは、先頭車はエンジンの排熱と排気で車内は灼熱地獄になったものです。
そんなことで今でも、気動車の排ガスを嗅ぐと、懐かしく感じてしまいます。
非冷房車がなくなり、窓が開かない、開けられない列車ばかりの今となっては、過去の思い出の中の世界です。
○ 枕木の臭い
木製枕木は腐らないように、強烈な臭いの特殊な油が染みこませてあります。
今はコンクリートPC枕木ばかりだからあまり感じませんが、ポイント部分や鉄橋部分などは今でも木製枕木は現役です。
あの枕木の、特に新品の枕木の臭いは強烈でした。
また、線路脇の柵としても使い古しの枕木がよく使われていたりもしました。
昔は街中でも枕木を流用した柵とかいっぱいありました。
だから街中でも枕木の独特な臭いが身近にありました。
そんな枕木の臭いも懐かしいです。
2013年08月21日
半自動扱い 電車の冷房
暑さ対策、冷房効果保持のために東海道線東京口でも、始発駅でのドアの半自動扱いを始めたと、ニュースでやっています。
上野口の東北、高崎線ではずうーと昔からやっています。
電車のドアの半自動扱いとは、通勤型電車で車内温度保持のためなどに、車掌が全車両のドアを一斉に操作して開閉するのではなく、乗客が個々のドアを手動またはボタン操作で開閉できる状態にすること。
その目的は、主に冬の寒さ対策、暖房効果を保つのが目的でした。
115系はドアの横に「上野から宇都宮・高崎間以外の区間では、12月から3月まではドアは手で開けてください」とかいう表示がありました。
このように115系には半自動扱いとなる区間を明示していました。乗降客が少なくなるその区間の停車駅では乗客がドアを手で開けました。
211系以降は、ドア開閉ボタンが設置されて、そのボタンで乗客がドアを開け閉めするようになりました。
始発駅、待避駅など長時間ドアが開きっぱなしとなるところでは、上野口の列車に限らず地方では当たり前の扱いでした。
東海道線東京口では寒さ対策は不要というのが昔からの基本姿勢だったから、東海道線では半自動扱いはしませんでした。
113系はそもそも、半自動扱いができたのかどうかも知りません。見たことないから。
もともと、温暖地向けが113系で、寒冷地向けが115系でした。
だから115系は半自動扱いができたのです。
115系の半自動区間で駅に停車すると、プシューっとドアエンジンの空気が抜けて、ドアに隙間ができたものです。
あの隙間だけでも、冬は隙間風が容赦なく入ってきて、寒かった。
ドアを手で開けるにも、ドア自体が相当重くて大変でした。老人や子供は相当大変だったでしょう。今なら苦情もののような気が・・・
今は半自動扱いといっても、ドアボタンで開閉するので、手で開閉する訳でもないから「半自動扱い」という言葉が正しいかもわかりません。
私は、今の東海道線を走っている最新車両(E何系だか知りません)に、ドアボタンが付いていたなんて知りませんでした。
ドアボタンが付いていたから、今回の冷房保持のための半自動扱いができたのです。
最近は、東海道本線に限らずどこでも車掌の裁量で長時間停車中は半自動扱いとする場合も多いですし。
東海道本線の東京口の客には、東京駅でのドアの半自動扱いやボタン操作は初めてのことだろうから、最初はとまどうでしょうね。
ついでにいうと、グリーン車はどうしているのでしょうか。テレビ映像は普通車しか映していなかったので。
グリーン車はデッキで仕切られているから、半自動扱いはしていないのでしょうね。ドアボタンがあるのかどうかも・・・
JR西では、米原駅などでは夏期と冬期は半自動扱いです。
昔は問題にならなかった、夏季の冷房保持のための半自動扱いが東京駅で始まるなんて、いよいよ温暖化が進んできた証拠でしょう。
半自動扱いの必要性が、上野口の暖房保持から、東京口の冷房保持に移るなんて、世の中変わったなと感じます。
鉄道の冷房といえば、最新車両の屋根上のクーラーの室外機というか本体から出る音も、昔に比べて小さくなったと思います。
昔は冷房車が来ると、独特のボオーンというクーラーの作動音が大きく、「あっ冷房車が来た」と喜んだものです。
103系なんかの屋根上クーラーは、製造メーカーによって記号が付けられていました。
Mが三菱製、Sが東芝製、Hが日立製でした。この三社だったと思います。103系などのクーラーは冷房能力が1両1基搭載の集中型で42,000キロカロリーでした。
ちなみに東武東上線の8000系は1両4基分散型で、1基10,500キロカロリーで1両併せて103系と同じ冷房能力なんだと、納得していました。
こんなくだらない知識も、若い頃はどんどん吸収していました。
鉄道ファンとか鉄道ビクトリアルには、細かい車両諸元なんかが載っていて、昔は細かい数字とかどんどん覚えたけれど、今はもうダメです。右から左へ抜けていきます。
最近は混雑率も下がっているし、1両全体の冷房能力が最新車両はいくらなのか知りません。
性能は高くなり消費電力は少なくなっているのでしょうね。
真夏の満員の通勤時間など、昔の103系なんか、クーラーから出る除湿された大量の水が屋根からだぼだぼと溢れ出ている様子も見られました。
屋根の樋に集まった水が、発車するときは後方の、停車するときには前方の排出口から水がジャーっと落ちていました。
ダイナミックなそんな光景も、今のクーラーは能力の微調整もできるし除湿も制御されているので、クーラーから水が大量に流れ出ている光景も見なくなりました。
昔のクーラーは、送風、弱、強しか調整できませんでした。
181系や485系、583系など旧式特急用の分散型クーラーには、車内にも冷房の強弱切り替えボタンがついていました。
天井のクーラー本体にボタンがあったから、背が低いと届きませんでしたし、乗客があれをさわっている光景は見たことがありません。
そういえば昔は、各線区別の冷房化率とかいうのが毎年発表されてニュースになっていたような。
山手線か中央線が常にトップで、京浜東北線が続いてたかな。上野口の東北、高崎、常磐線なんかがやっぱり冷房化率は遅れていました。
いつの間にかすべての車両、線区で冷房化率は100%となり、今となっては窓が開かない通勤型の新製車両も当たり前の時代です。
冷房化率なんてニュースがあったこと自体、はるか記憶のかなたとなりました。
非冷房車の超満員の通勤電車でも、当時の人たちは耐えて乗っていました。窓を全開にして走っていました。
乗客が熱中症で倒れたなんてことも聞きませんでした。気分が悪くなる人は結構いたのでしょうが、それがニュースになんかはならない時代でした。
非冷房車は特に雨の日は窓も開けられず(それでも少しは開けてましたが)、湿気と熱気が充満して、本当に地獄でした。
また、冷房化進行中は、103系でも113系でも、ひと編成中に冷房車と非冷房車が混結されていて、自分が待っている位置に冷房車が止まるかどうか、賭でした。
東武東上線8000系も、そんな状態でした。前4両が非冷房車、後2両が冷房車なんてことも。当時は6両編成も結構ありました。今は全部10両編成です。
原発に反対し、本気で節電を考えるなら、車内灯を間引くよりクーラーを消した方がよっぽど効果は大きいですよ。
でも、今の暑さは、昔の非冷房車が走っていた頃の暑さとは間違いなく違いますよね。
暑さもひどくなっているし、現代人はひ弱にもなっているから、夏の通勤電車でクーラーをつけず窓を開けるだけとなったら、熱中症でバタバタと倒れる人が続出しそうです。
いい加減、車内灯を間引くのはやめてほしい。あんな節電効果なんてないに等しいのに、車内が暗くて不快です。本や新聞を読むにも不便です。
最近は電車内では、携帯やスマホをいじっている人ばかりだから、気にならないのかな。
上野口の東北、高崎線ではずうーと昔からやっています。
電車のドアの半自動扱いとは、通勤型電車で車内温度保持のためなどに、車掌が全車両のドアを一斉に操作して開閉するのではなく、乗客が個々のドアを手動またはボタン操作で開閉できる状態にすること。
その目的は、主に冬の寒さ対策、暖房効果を保つのが目的でした。
115系はドアの横に「上野から宇都宮・高崎間以外の区間では、12月から3月まではドアは手で開けてください」とかいう表示がありました。
このように115系には半自動扱いとなる区間を明示していました。乗降客が少なくなるその区間の停車駅では乗客がドアを手で開けました。
211系以降は、ドア開閉ボタンが設置されて、そのボタンで乗客がドアを開け閉めするようになりました。
始発駅、待避駅など長時間ドアが開きっぱなしとなるところでは、上野口の列車に限らず地方では当たり前の扱いでした。
東海道線東京口では寒さ対策は不要というのが昔からの基本姿勢だったから、東海道線では半自動扱いはしませんでした。
113系はそもそも、半自動扱いができたのかどうかも知りません。見たことないから。
もともと、温暖地向けが113系で、寒冷地向けが115系でした。
だから115系は半自動扱いができたのです。
115系の半自動区間で駅に停車すると、プシューっとドアエンジンの空気が抜けて、ドアに隙間ができたものです。
あの隙間だけでも、冬は隙間風が容赦なく入ってきて、寒かった。
ドアを手で開けるにも、ドア自体が相当重くて大変でした。老人や子供は相当大変だったでしょう。今なら苦情もののような気が・・・
今は半自動扱いといっても、ドアボタンで開閉するので、手で開閉する訳でもないから「半自動扱い」という言葉が正しいかもわかりません。
私は、今の東海道線を走っている最新車両(E何系だか知りません)に、ドアボタンが付いていたなんて知りませんでした。
ドアボタンが付いていたから、今回の冷房保持のための半自動扱いができたのです。
最近は、東海道本線に限らずどこでも車掌の裁量で長時間停車中は半自動扱いとする場合も多いですし。
東海道本線の東京口の客には、東京駅でのドアの半自動扱いやボタン操作は初めてのことだろうから、最初はとまどうでしょうね。
ついでにいうと、グリーン車はどうしているのでしょうか。テレビ映像は普通車しか映していなかったので。
グリーン車はデッキで仕切られているから、半自動扱いはしていないのでしょうね。ドアボタンがあるのかどうかも・・・
JR西では、米原駅などでは夏期と冬期は半自動扱いです。
昔は問題にならなかった、夏季の冷房保持のための半自動扱いが東京駅で始まるなんて、いよいよ温暖化が進んできた証拠でしょう。
半自動扱いの必要性が、上野口の暖房保持から、東京口の冷房保持に移るなんて、世の中変わったなと感じます。
鉄道の冷房といえば、最新車両の屋根上のクーラーの室外機というか本体から出る音も、昔に比べて小さくなったと思います。
昔は冷房車が来ると、独特のボオーンというクーラーの作動音が大きく、「あっ冷房車が来た」と喜んだものです。
103系なんかの屋根上クーラーは、製造メーカーによって記号が付けられていました。
Mが三菱製、Sが東芝製、Hが日立製でした。この三社だったと思います。103系などのクーラーは冷房能力が1両1基搭載の集中型で42,000キロカロリーでした。
ちなみに東武東上線の8000系は1両4基分散型で、1基10,500キロカロリーで1両併せて103系と同じ冷房能力なんだと、納得していました。
こんなくだらない知識も、若い頃はどんどん吸収していました。
鉄道ファンとか鉄道ビクトリアルには、細かい車両諸元なんかが載っていて、昔は細かい数字とかどんどん覚えたけれど、今はもうダメです。右から左へ抜けていきます。
最近は混雑率も下がっているし、1両全体の冷房能力が最新車両はいくらなのか知りません。
性能は高くなり消費電力は少なくなっているのでしょうね。
真夏の満員の通勤時間など、昔の103系なんか、クーラーから出る除湿された大量の水が屋根からだぼだぼと溢れ出ている様子も見られました。
屋根の樋に集まった水が、発車するときは後方の、停車するときには前方の排出口から水がジャーっと落ちていました。
ダイナミックなそんな光景も、今のクーラーは能力の微調整もできるし除湿も制御されているので、クーラーから水が大量に流れ出ている光景も見なくなりました。
昔のクーラーは、送風、弱、強しか調整できませんでした。
181系や485系、583系など旧式特急用の分散型クーラーには、車内にも冷房の強弱切り替えボタンがついていました。
天井のクーラー本体にボタンがあったから、背が低いと届きませんでしたし、乗客があれをさわっている光景は見たことがありません。
そういえば昔は、各線区別の冷房化率とかいうのが毎年発表されてニュースになっていたような。
山手線か中央線が常にトップで、京浜東北線が続いてたかな。上野口の東北、高崎、常磐線なんかがやっぱり冷房化率は遅れていました。
いつの間にかすべての車両、線区で冷房化率は100%となり、今となっては窓が開かない通勤型の新製車両も当たり前の時代です。
冷房化率なんてニュースがあったこと自体、はるか記憶のかなたとなりました。
非冷房車の超満員の通勤電車でも、当時の人たちは耐えて乗っていました。窓を全開にして走っていました。
乗客が熱中症で倒れたなんてことも聞きませんでした。気分が悪くなる人は結構いたのでしょうが、それがニュースになんかはならない時代でした。
非冷房車は特に雨の日は窓も開けられず(それでも少しは開けてましたが)、湿気と熱気が充満して、本当に地獄でした。
また、冷房化進行中は、103系でも113系でも、ひと編成中に冷房車と非冷房車が混結されていて、自分が待っている位置に冷房車が止まるかどうか、賭でした。
東武東上線8000系も、そんな状態でした。前4両が非冷房車、後2両が冷房車なんてことも。当時は6両編成も結構ありました。今は全部10両編成です。
原発に反対し、本気で節電を考えるなら、車内灯を間引くよりクーラーを消した方がよっぽど効果は大きいですよ。
でも、今の暑さは、昔の非冷房車が走っていた頃の暑さとは間違いなく違いますよね。
暑さもひどくなっているし、現代人はひ弱にもなっているから、夏の通勤電車でクーラーをつけず窓を開けるだけとなったら、熱中症でバタバタと倒れる人が続出しそうです。
いい加減、車内灯を間引くのはやめてほしい。あんな節電効果なんてないに等しいのに、車内が暗くて不快です。本や新聞を読むにも不便です。
最近は電車内では、携帯やスマホをいじっている人ばかりだから、気にならないのかな。
2013年08月20日
内部告発 警察の不祥事
知多警察署長がゴルフ中の昼間、ビールを飲んだ不祥事で更迭とか。
たしかに、悪いことです。飲酒運転を取り締まる強権力を持った警察官が、まして署長が。
でも、なんか別の意味でイヤ~な気がします。
発端は内部告発だとか。一緒にプレーした同僚から注意もされていたとか。
昼間の少量のビール、夕方の運転なら間違いなく酒気帯び基準以下でしょう。
この署長、現場の署長で60歳、今年定年退職だったのでしょう。
経歴を見ると、現場のたたきあげという感じです。
内部告発した警察関係者はどういう人なんでしょうか。
正義感にあふれ、決して不正を許さない、でも杓子定規で融通も利かず、きっと人間味もないのでは、そういうふうに想像してしまいます。
悩んだ末に内部告発したのかもしれません。でも、友達にはなりたくないような。
もしかしたら、まだ若い、国家公務員1種試験に合格して採用されたエリートで、すぐに署長クラスなど追い越して出世していくような人なのでは・・
翻って、この署長の方が、たぶん、人としてつきあうならば、きっとこの人の方がいいのでは・・・
勝手極まりない想像ですが、そう思ってしまいます。
決して、飲酒運転を擁護する気は毛頭ありません。まして警察官がなど、絶対に許せません。
昼間とはいえ車で来ている以上、たとえ少量でも酒を飲むなんて言語道断な浅はかな行為で、処分されて当たり前なんだけど。
でも、内部告発で発覚するという、なんかそういう組織の雰囲気みたいのには、吐き気がします。
古い考えですが、同じ釜の飯を食った仲間という安心感もあったのではないかと。
その仲間に裏切られる、そういう時代なのでしょうか。
殺人でも傷害でも公金の横領とかそういう大罪ではない、この程度のことで・・・
告発者が正義です、飲酒後の運転は悪です、でも、なんか嫌な感じです。
たしかに、悪いことです。飲酒運転を取り締まる強権力を持った警察官が、まして署長が。
でも、なんか別の意味でイヤ~な気がします。
発端は内部告発だとか。一緒にプレーした同僚から注意もされていたとか。
昼間の少量のビール、夕方の運転なら間違いなく酒気帯び基準以下でしょう。
この署長、現場の署長で60歳、今年定年退職だったのでしょう。
経歴を見ると、現場のたたきあげという感じです。
内部告発した警察関係者はどういう人なんでしょうか。
正義感にあふれ、決して不正を許さない、でも杓子定規で融通も利かず、きっと人間味もないのでは、そういうふうに想像してしまいます。
悩んだ末に内部告発したのかもしれません。でも、友達にはなりたくないような。
もしかしたら、まだ若い、国家公務員1種試験に合格して採用されたエリートで、すぐに署長クラスなど追い越して出世していくような人なのでは・・
翻って、この署長の方が、たぶん、人としてつきあうならば、きっとこの人の方がいいのでは・・・
勝手極まりない想像ですが、そう思ってしまいます。
決して、飲酒運転を擁護する気は毛頭ありません。まして警察官がなど、絶対に許せません。
昼間とはいえ車で来ている以上、たとえ少量でも酒を飲むなんて言語道断な浅はかな行為で、処分されて当たり前なんだけど。
でも、内部告発で発覚するという、なんかそういう組織の雰囲気みたいのには、吐き気がします。
古い考えですが、同じ釜の飯を食った仲間という安心感もあったのではないかと。
その仲間に裏切られる、そういう時代なのでしょうか。
殺人でも傷害でも公金の横領とかそういう大罪ではない、この程度のことで・・・
告発者が正義です、飲酒後の運転は悪です、でも、なんか嫌な感じです。
2013年08月20日
議員とは 減税日本の不祥事で考える
愛知県では、政務調査費の不正請求が騒がれています。
市議会議員と県議会議員、どちらも減税日本。
減税を謳って公金の不正使用。
「脱税日本」に看板を変えた方が良いのでは。
河村たかしの党首としての指導力のなさも目に余るものがあります。
議員という、肩書きと名誉と権力と地位と金が欲しいだけの素人を集めて、低次元な素人人気だけで当選したような集団。
中には本当にまじめに取り組んでいる人もいるかもしれないけれど。
名古屋市議会議員は議員報酬も河村のかけ声で、年収800万円です。
それでまともな議員活動ができるのでしょうか。
河村は社会一般人の報酬で当たり前と言います。
しかし、議員にはそれなりの責任と能力が問われるはずです。
その職務と地位に相応した報酬があってしかりです。
市長が一般市民と同じ報酬であるべきなら、民間の大企業の社長だって同じでは。
社長に特別な職責があってそれに見合う報酬が必要なら、首長にも特別な職責とそれに見合った報酬があって当たり前でしょう。
市長自ら年収は市民一般の800万円で正しいというのは、市長なんて仕事は一般人と同じレベルの職責しかないと言っているようなもの。
議員や首長は、それなりの名誉と責任があり激務であるはずでしょう。それなりの報酬も必要でしょう。
それなりの報酬があってこそ、それなりの責任を自覚し、職務に専念できるはずです。
政務調査費の不正受給に至った遠因は、名古屋市議の議員報酬が低いからではないかと。
議員活動には現実として、どうしても金がかかってしまうから、そういうところにもあるのではないでしょうか。
もちろん不正受給を擁護するつもりは1ミリもありません。
河村たかしは自らの市長給与を800万円にして、議員の家業化はいかんだの、議員はボランティアでやるべきなど、勝手なことを言っています。
でも、河村たかしは家業の会社経営で、家庭には安定した収入源があるから、そんなことを言えるのでは。
河村たかしは大金持ちです。本人は形式上会社経営に関わっていませんが、河村家は会社経営で収入を得ています。
河村たかしは庶民面していますが、決して庶民なんかではありません。
議員だって副業、別の家業がなければ、議員報酬だけで家計を賄い自分と家族が生活していかなければなりません。
議員が無報酬のボランティアになったら、きっと大金持ちしか議員にはなれません。
議員は国民の代表であり重責をになうべきです。それに見合った報酬を得ることは当たり前では。
そういう部分を河村は壊していると、だから不正行為につながっていくのではないでしょうか。
だからといって不正行為が許されることではありませんが。
今回の政務調査費の不正受給を見て、そんなふうに考えてしまいました。
しかし、やったのが減税日本だけとは。
議員や公務員の給与にケチをつけるだけで、選挙民の支持が得られるという低レベルな世の中だから、河村たかしのようなの者が人気を得てしまう。
河村たかしの指導力、統率力に問題があるとしか考えられません。
減税日本から立候補して議員になったあの、あて逃げポルシェ男の首に綱をつけることもできず、減税から追い出しただけなんて、党首として責任放棄、市長としても責任感ゼロということです。
市議会議員と県議会議員、どちらも減税日本。
減税を謳って公金の不正使用。
「脱税日本」に看板を変えた方が良いのでは。
河村たかしの党首としての指導力のなさも目に余るものがあります。
議員という、肩書きと名誉と権力と地位と金が欲しいだけの素人を集めて、低次元な素人人気だけで当選したような集団。
中には本当にまじめに取り組んでいる人もいるかもしれないけれど。
名古屋市議会議員は議員報酬も河村のかけ声で、年収800万円です。
それでまともな議員活動ができるのでしょうか。
河村は社会一般人の報酬で当たり前と言います。
しかし、議員にはそれなりの責任と能力が問われるはずです。
その職務と地位に相応した報酬があってしかりです。
市長が一般市民と同じ報酬であるべきなら、民間の大企業の社長だって同じでは。
社長に特別な職責があってそれに見合う報酬が必要なら、首長にも特別な職責とそれに見合った報酬があって当たり前でしょう。
市長自ら年収は市民一般の800万円で正しいというのは、市長なんて仕事は一般人と同じレベルの職責しかないと言っているようなもの。
議員や首長は、それなりの名誉と責任があり激務であるはずでしょう。それなりの報酬も必要でしょう。
それなりの報酬があってこそ、それなりの責任を自覚し、職務に専念できるはずです。
政務調査費の不正受給に至った遠因は、名古屋市議の議員報酬が低いからではないかと。
議員活動には現実として、どうしても金がかかってしまうから、そういうところにもあるのではないでしょうか。
もちろん不正受給を擁護するつもりは1ミリもありません。
河村たかしは自らの市長給与を800万円にして、議員の家業化はいかんだの、議員はボランティアでやるべきなど、勝手なことを言っています。
でも、河村たかしは家業の会社経営で、家庭には安定した収入源があるから、そんなことを言えるのでは。
河村たかしは大金持ちです。本人は形式上会社経営に関わっていませんが、河村家は会社経営で収入を得ています。
河村たかしは庶民面していますが、決して庶民なんかではありません。
議員だって副業、別の家業がなければ、議員報酬だけで家計を賄い自分と家族が生活していかなければなりません。
議員が無報酬のボランティアになったら、きっと大金持ちしか議員にはなれません。
議員は国民の代表であり重責をになうべきです。それに見合った報酬を得ることは当たり前では。
そういう部分を河村は壊していると、だから不正行為につながっていくのではないでしょうか。
だからといって不正行為が許されることではありませんが。
今回の政務調査費の不正受給を見て、そんなふうに考えてしまいました。
しかし、やったのが減税日本だけとは。
議員や公務員の給与にケチをつけるだけで、選挙民の支持が得られるという低レベルな世の中だから、河村たかしのようなの者が人気を得てしまう。
河村たかしの指導力、統率力に問題があるとしか考えられません。
減税日本から立候補して議員になったあの、あて逃げポルシェ男の首に綱をつけることもできず、減税から追い出しただけなんて、党首として責任放棄、市長としても責任感ゼロということです。
2013年08月15日
昭和55年夏 九州鉄道の旅
私が初めて本格的な鉄道旅行したのが、昭和55年の夏休みに行った九州旅行でした。高校2年生のときです。
九州ワイド周遊券をフルに使った20日間の旅でした。目的は、九州島内の国鉄線の乗りつぶしです。
この頃、国鉄は、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」に影響されたローカル線ブームもあり「チャレンジ2万キロ」というキャンペーンをやっていて、ローカル線の乗車がブームでした。また、ブルトレブームの華やかな頃でもありました。東京駅には夕方、「さくら」をはじめとする寝台特急を撮影するマニアがたくさんいました。
私も「時刻表2万キロ」に感化されて、このような旅を始めました。しかし、「チャレンジ2万キロ」はやりませんでした。ローカル線の起点駅と終点駅で必ず自分の顔と駅名標を入れた写真を撮るというルールが嫌だったから。あくまできままに旅を楽しみたかったし、押しつけの義務を負うことは嫌でした。
その九州旅行の思い出、記憶の断面を書いていきます。
夏休みに入ってすぐ、7月22日から有効の途中下車印だらけのワイド周遊券が手元にあります。有効期限は8月10日までです。基本、車中泊、寝台ではなく座席の夜行に泊まり続けました。
今は亡き、ローカル線の駅名印もいくつかあります。
この頃は、九州島内に、鹿児島本線の門司港-西鹿児島間の「かいもん」、日豊本線経由の門司港-西鹿児島間の「日南」と2本の夜行急行が、門司港-長崎・佐世保間の普通夜行「ながさき」の3系統の島内完結の夜行列車がありました。ワイド周遊券でこれらの列車の自由席は乗り放題です。
急行を中心に「ながさき」を補完的に利用して、夜行列車連泊の、今考えたら超ハードかつバカな旅でした。
当然、宿泊代の節約が主目的であり、夜行列車の旅を楽しむなんて気はなく、ただただ睡眠を取るために乗っていました。貧乏旅行の極地であり、日々の支出は2000円以内に抑えるというものでもありました。だから駅弁を食べるなんて言語道断で、ローカル線から夜行急行に乗り継ぐときなど夕食にもありつけず、ビタミンレモンとビスコだけの夕食なんてことも数回ありました。食事は駅ホームの立ち食いうどんがメインでした。旅先でおいしいものを楽しむなんて高尚な趣味はまったくありませんでした。本当、今では信じられません。
もちろんすべて夜行連泊とも行かず、20日間のうちビジネスホテルにも2泊か3泊と、「かいもん」の寝台車も1泊利用しました。今考えると、よくできたな~と思います。いろいろな意味で・・・
さて、旅のスタートは寝台特急「富士」で東京駅を出発しました。この年の秋のダイヤ改正で、日本最長距離&最長時間の列車であった、東京-西鹿児島(日豊本線経由)の「富士」号は、宮崎止まりとなり、24時間を超えて走る列車がなくなることになっていたので、「富士」に乗ることもこの旅の大目標のひとつでした。この時の「富士」は東京駅を18時00分に発車して、西鹿児島への到着は、翌日の夕方、18時04分(だったかな?)でした。この日本でまる1日以上走る唯一の列車でした。
特急・寝台券です。
列車内には夏休みでもあって、そんな目的の鉄道マニアも多く乗っていました。B寝台の同じ区画、4人ボックスに一人は小学生、もう一人は私より年上の若いお兄さんがいて、同じ目的でした。お兄さんとは(今はもうアラ還だろうけれど)今でも毎年、年賀状を交換しています。終着の西鹿児島で3人で撮った記念写真は今も残っています。
「富士」の車内でどのようにして過ごしたのかはほとんど覚えていません。食堂車へは行っていないと思います。当時は食堂車は特別な存在ではなかったから。
名古屋での5分間停車、お決まりの下関駅と門司駅での機関車交換では、先頭の機関車の写真を撮りに行きました。
終着の西鹿児島で2人と別れたあとから、完全な一人旅が始まりました。
西鹿児島で適当に時間をつぶし、その日は「かいもん」門司港行きの座席に収まりました。今日の宿です。車両は12系で快適です。ただ夏休み中でもあるので、ワンボックス1人で占領することは無理で、だいたいワンボックス2人乗車くらいでした。座席車で寝るには、私は頭を通路側にしてバックと空気まくらを置いてまくらにして、足は窓側であぐらをかく形で寝ていました。これがベスト形でした。頭を置いたバックの中に財布などの貴重品を入れて、防犯対策もしていました。
翌日は博多で降りて、筑豊ローカル線を攻めていきました。まずは香椎線の走破でした。早朝の鹿児島線で香椎まで移動して、西戸崎行きに乗り、ローカル線の旅は始まりました。西戸崎ですぐに折り返し香椎に戻り、たしか宇美行きに乗り換えたと記憶します。
終着の宇美から勝田線へ乗り換えです。香椎線の宇美駅と勝田線宇美駅とは離れていると時刻表に記載がありました。その通りで駅前から勝田線の宇美駅まで5分くらい歩きました。勝田線の宇美駅からひと駅乗って、勝田線の終着、筑前勝田駅へ着きました。
筑前勝田は大都市博多の近郊でありながら、鄙びたローカル駅でした。本数は1日に7往復しかなく、博多への移動手段としてはまったく機能してなく、国鉄にも地元にも見捨てられたローカル線でした。元々九州はバス路線網が充実していたし。今、勝田線が生き残っていたら、現在ではさらに宅地開発も進んだし、渋滞はまったくない鉄道の長所を生かして、1時間に3~4本も走らしたら、立派な都市近郊鉄道として機能していたかもしれません。
あとの記憶はあいまいです。一日中筑豊ローカル線に乗り周り、門司港発の「日南」に乗ったのかもしれません。
「かいもん」か「日南」で西鹿児島に到着したあと、一日かけて佐多岬へ行きました。たまには観光も取り入れていました。大隅線に乗って鹿屋まで行き、バスを乗り継いで本当に一日かけて佐多岬へ往復しました。バスの乗り換えがあった大根占の町では昼食に入った食堂でラーメンを食べました。本当の九州豚骨ラーメンでとてもおいしかったことをよく覚えています。
その帰り道、大隅線から夜遅くの志布志線に乗ったときは、2両か3両の気動車の乗客は自分以外乗っていませんでした。当時は普通列車に冷房車は基本的にありませんでした。すべての窓が全開になっていましたが、夜なので駅に停車中など虫が大量に車内に入ってきました。私は誰もいない車内をまわり窓を閉めていきました。車掌がやってきて、「ありがとう」とお礼を言われてたこともありました。
「かいもん」に乗って博多で多くの客を降ろした後、門司港へ向かっていたとき北九州地方が集中豪雨に遭いました。今で言うゲリラ豪雨みたいです。列車も遅れましたが、雷がつんざく中列車は進んでいきました。その時の豪雨のため、どこから入ってくるのか、12系の床は水浸しになったことがありました。
高千穂線に乗ったときは、延岡に午前3時か4時頃到着する「日南」を降りて乗り換えました。待合室での始発までの待ち時間はとても苦痛でした。夜行でも待合室でもろくに寝られず、始発の高千穂線に乗っても、先頭の運転席の隣の前面展望できる特等席に座ったにもかかわらず、ほとんど爆睡してしまったこともよく覚えています。早朝の1番列車だったので「時刻表2万キロ」に書いてあったように、有名な鉄橋の上で観光停車することもありませんでした。終着の高千穂に着いたのちに高千穂を観光しましたが、寝不足と疲れで気分悪くなったのも覚えています。そのあとはバスに乗って高森線の高森へ移動しました。
指宿枕崎線に乗った時は、終着の枕崎駅に鹿児島交通の小さめな気動車が止まっていました。ワイド周遊券で乗れない私鉄には目もくれませんでしたが、今考えるとなんてもったいないことをしたと後悔しています。金のない高校生の当時は、運賃の高いローカル私鉄線に別途乗ることは、選択肢にありませんでした。
九州をほぼ18日間くらい回りましたが、国鉄全線に乗ることはできませんでした。九州国鉄全線完乗は大学生になってから達成しました。
九州からの帰りは、長崎発の夜行急行「雲仙」新大阪行きに乗ったと記憶します。特急用14系客車で得した感じの急行でした。そして、姫路で途中下車して、一日中、関西の鉄道を乗りまくってから、大垣発の普通夜行東京行き、列車番号344Mのグリーン車で東京へ帰りました。東京へ着いたときは周遊券の有効期限を一日超えていました。乗車券類は途中下車しない限り、期限が切れても目的地まで乗車できます。このルールは今でも生きています。活用する機会はまずありませんが。
九州ワイド周遊券をフルに使った20日間の旅でした。目的は、九州島内の国鉄線の乗りつぶしです。
この頃、国鉄は、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」に影響されたローカル線ブームもあり「チャレンジ2万キロ」というキャンペーンをやっていて、ローカル線の乗車がブームでした。また、ブルトレブームの華やかな頃でもありました。東京駅には夕方、「さくら」をはじめとする寝台特急を撮影するマニアがたくさんいました。
私も「時刻表2万キロ」に感化されて、このような旅を始めました。しかし、「チャレンジ2万キロ」はやりませんでした。ローカル線の起点駅と終点駅で必ず自分の顔と駅名標を入れた写真を撮るというルールが嫌だったから。あくまできままに旅を楽しみたかったし、押しつけの義務を負うことは嫌でした。
その九州旅行の思い出、記憶の断面を書いていきます。
夏休みに入ってすぐ、7月22日から有効の途中下車印だらけのワイド周遊券が手元にあります。有効期限は8月10日までです。基本、車中泊、寝台ではなく座席の夜行に泊まり続けました。
今は亡き、ローカル線の駅名印もいくつかあります。
この頃は、九州島内に、鹿児島本線の門司港-西鹿児島間の「かいもん」、日豊本線経由の門司港-西鹿児島間の「日南」と2本の夜行急行が、門司港-長崎・佐世保間の普通夜行「ながさき」の3系統の島内完結の夜行列車がありました。ワイド周遊券でこれらの列車の自由席は乗り放題です。
急行を中心に「ながさき」を補完的に利用して、夜行列車連泊の、今考えたら超ハードかつバカな旅でした。
当然、宿泊代の節約が主目的であり、夜行列車の旅を楽しむなんて気はなく、ただただ睡眠を取るために乗っていました。貧乏旅行の極地であり、日々の支出は2000円以内に抑えるというものでもありました。だから駅弁を食べるなんて言語道断で、ローカル線から夜行急行に乗り継ぐときなど夕食にもありつけず、ビタミンレモンとビスコだけの夕食なんてことも数回ありました。食事は駅ホームの立ち食いうどんがメインでした。旅先でおいしいものを楽しむなんて高尚な趣味はまったくありませんでした。本当、今では信じられません。
もちろんすべて夜行連泊とも行かず、20日間のうちビジネスホテルにも2泊か3泊と、「かいもん」の寝台車も1泊利用しました。今考えると、よくできたな~と思います。いろいろな意味で・・・
さて、旅のスタートは寝台特急「富士」で東京駅を出発しました。この年の秋のダイヤ改正で、日本最長距離&最長時間の列車であった、東京-西鹿児島(日豊本線経由)の「富士」号は、宮崎止まりとなり、24時間を超えて走る列車がなくなることになっていたので、「富士」に乗ることもこの旅の大目標のひとつでした。この時の「富士」は東京駅を18時00分に発車して、西鹿児島への到着は、翌日の夕方、18時04分(だったかな?)でした。この日本でまる1日以上走る唯一の列車でした。
特急・寝台券です。
列車内には夏休みでもあって、そんな目的の鉄道マニアも多く乗っていました。B寝台の同じ区画、4人ボックスに一人は小学生、もう一人は私より年上の若いお兄さんがいて、同じ目的でした。お兄さんとは(今はもうアラ還だろうけれど)今でも毎年、年賀状を交換しています。終着の西鹿児島で3人で撮った記念写真は今も残っています。
「富士」の車内でどのようにして過ごしたのかはほとんど覚えていません。食堂車へは行っていないと思います。当時は食堂車は特別な存在ではなかったから。
名古屋での5分間停車、お決まりの下関駅と門司駅での機関車交換では、先頭の機関車の写真を撮りに行きました。
終着の西鹿児島で2人と別れたあとから、完全な一人旅が始まりました。
西鹿児島で適当に時間をつぶし、その日は「かいもん」門司港行きの座席に収まりました。今日の宿です。車両は12系で快適です。ただ夏休み中でもあるので、ワンボックス1人で占領することは無理で、だいたいワンボックス2人乗車くらいでした。座席車で寝るには、私は頭を通路側にしてバックと空気まくらを置いてまくらにして、足は窓側であぐらをかく形で寝ていました。これがベスト形でした。頭を置いたバックの中に財布などの貴重品を入れて、防犯対策もしていました。
翌日は博多で降りて、筑豊ローカル線を攻めていきました。まずは香椎線の走破でした。早朝の鹿児島線で香椎まで移動して、西戸崎行きに乗り、ローカル線の旅は始まりました。西戸崎ですぐに折り返し香椎に戻り、たしか宇美行きに乗り換えたと記憶します。
終着の宇美から勝田線へ乗り換えです。香椎線の宇美駅と勝田線宇美駅とは離れていると時刻表に記載がありました。その通りで駅前から勝田線の宇美駅まで5分くらい歩きました。勝田線の宇美駅からひと駅乗って、勝田線の終着、筑前勝田駅へ着きました。
筑前勝田は大都市博多の近郊でありながら、鄙びたローカル駅でした。本数は1日に7往復しかなく、博多への移動手段としてはまったく機能してなく、国鉄にも地元にも見捨てられたローカル線でした。元々九州はバス路線網が充実していたし。今、勝田線が生き残っていたら、現在ではさらに宅地開発も進んだし、渋滞はまったくない鉄道の長所を生かして、1時間に3~4本も走らしたら、立派な都市近郊鉄道として機能していたかもしれません。
あとの記憶はあいまいです。一日中筑豊ローカル線に乗り周り、門司港発の「日南」に乗ったのかもしれません。
「かいもん」か「日南」で西鹿児島に到着したあと、一日かけて佐多岬へ行きました。たまには観光も取り入れていました。大隅線に乗って鹿屋まで行き、バスを乗り継いで本当に一日かけて佐多岬へ往復しました。バスの乗り換えがあった大根占の町では昼食に入った食堂でラーメンを食べました。本当の九州豚骨ラーメンでとてもおいしかったことをよく覚えています。
その帰り道、大隅線から夜遅くの志布志線に乗ったときは、2両か3両の気動車の乗客は自分以外乗っていませんでした。当時は普通列車に冷房車は基本的にありませんでした。すべての窓が全開になっていましたが、夜なので駅に停車中など虫が大量に車内に入ってきました。私は誰もいない車内をまわり窓を閉めていきました。車掌がやってきて、「ありがとう」とお礼を言われてたこともありました。
「かいもん」に乗って博多で多くの客を降ろした後、門司港へ向かっていたとき北九州地方が集中豪雨に遭いました。今で言うゲリラ豪雨みたいです。列車も遅れましたが、雷がつんざく中列車は進んでいきました。その時の豪雨のため、どこから入ってくるのか、12系の床は水浸しになったことがありました。
高千穂線に乗ったときは、延岡に午前3時か4時頃到着する「日南」を降りて乗り換えました。待合室での始発までの待ち時間はとても苦痛でした。夜行でも待合室でもろくに寝られず、始発の高千穂線に乗っても、先頭の運転席の隣の前面展望できる特等席に座ったにもかかわらず、ほとんど爆睡してしまったこともよく覚えています。早朝の1番列車だったので「時刻表2万キロ」に書いてあったように、有名な鉄橋の上で観光停車することもありませんでした。終着の高千穂に着いたのちに高千穂を観光しましたが、寝不足と疲れで気分悪くなったのも覚えています。そのあとはバスに乗って高森線の高森へ移動しました。
指宿枕崎線に乗った時は、終着の枕崎駅に鹿児島交通の小さめな気動車が止まっていました。ワイド周遊券で乗れない私鉄には目もくれませんでしたが、今考えるとなんてもったいないことをしたと後悔しています。金のない高校生の当時は、運賃の高いローカル私鉄線に別途乗ることは、選択肢にありませんでした。
九州をほぼ18日間くらい回りましたが、国鉄全線に乗ることはできませんでした。九州国鉄全線完乗は大学生になってから達成しました。
九州からの帰りは、長崎発の夜行急行「雲仙」新大阪行きに乗ったと記憶します。特急用14系客車で得した感じの急行でした。そして、姫路で途中下車して、一日中、関西の鉄道を乗りまくってから、大垣発の普通夜行東京行き、列車番号344Mのグリーン車で東京へ帰りました。東京へ着いたときは周遊券の有効期限を一日超えていました。乗車券類は途中下車しない限り、期限が切れても目的地まで乗車できます。このルールは今でも生きています。活用する機会はまずありませんが。
2013年08月15日
新幹線食堂車の思い出続き 帝国ホテル列車食堂
新幹線食堂車の思い出 ←前回のです。
帝国ホテル列車食堂でバイトしたのは、昭和59年の夏休みの2ヶ月間だけでした。
最初はお盆休み対応で採用され、8月はひかり組での乗務でした。当時は埼玉に住んでいましたので、東京の会社まで通勤、出勤して制服に着替えてから、黒革靴だけは自前で、東京駅までバスで移動しました。
東京駅発が早朝の場合など、本社には宿泊施設もあって前泊していたような記憶もありますが、何時頃に出勤していたのかまったく覚えていません。
東京駅のどこから入場したのか、さっぱり覚えていません。
仕事は主に土産物と弁当の販売でした。
当時はまだペットボトルというものは存在しませんでした。弁当といっしょに、ビニール袋に包まれたプラスチック容器のお茶も販売しました。保温ケースに入っているお茶も持てるだけ持って車内を歩きました。基本は弁当とお茶をセットで売りたいのだけど、お茶だけ買う客もいました。だから弁当を買う客にお茶を求められて売り切れでは申し訳ないので、お茶は多めに持っていたのです。それでもお茶だけ売れゆきが良いときもあり、残り少なくなってくると、「頼む、茶だけ買わないで~」って心の底では叫んでいました。
おみやげは、東京駅積み込みの基本は、東京の雷おこしに草加煎餅(埼玉だけど・・)、静岡の安倍川餅にわさび漬け、名古屋のういろう、大阪の塩こんぶ、広島のもみじまんじゅう、博多の辛子明太子などが定番でした。新大阪行きの列車内でも、広島や博多みやげも売っていたような気がします。だから「その駅は通らないだろう」と客から突っ込まれたこともあったような・・・
おみやげは途中駅積み込みのものもあって、岡山駅でマスカットや白桃を積み込んでいました。結構高くて、たしか1500円くらいだったと記憶しています。そんなに数は売れませんでしたが、それでも積み込んだ分はたいてい売れました。そんな時代でした。
帝国ホテル独自サービスだったのかどうかは知りませんが、バーワゴンサービスというものもありました。お酒類専門のワゴンで、午後から列車限定だったかな。ウイスキーの水割からなんでも揃っていました。新幹線の中で本格的に酒が飲めたあの時代がうらやましいです。
車内販売ではたいしておつり用の現金も持っていませんでした。おつりがないときに高額紙幣を出された場合は、お客さんの降車駅を確認して、号車と席番をメモして、のちの販売巡回のときに渡したりもしていました。手持ちしていない弁当のオーダーがあったときも、あとから席番をメモしてあとで持っていったりもしました。私は冷水器用の紙コップにメモしていました。あれは重宝しました。
0系、100系、300系までは洗面所に必ず冷水器がありました。700系以降はなくなって、300系も700系に合わせて冷水器は撤去されてしまいました。車内で水がタダで飲めなくするというのは明らかにサービスダウンだと思いますが、JRに対する苦情的な声は聞こえませんでした。マスコミはそういうことには興味がないからでしょうね。その頃からペットボトル飲料が全盛期となっていきます。
車内で水が飲みたければ、自動販売機でお金を出さなければならない現在よりも、昔の方が良いと思いませんか。
車販のバイトは8月いっぱいの予定でした。8月いっぱいで円満退社して、毎年9月の初めには鉄道研究会の合宿があり、それに合わせて個人的鉄道大旅行を組み合わせて、1週間くらい全国の国鉄を乗りまくっていました。
帰宅後に帝国ホテルから連絡があり、9月も働いてくれないかと依頼がありました。特に問題はなかったので、大学が始まる10月まで、9月いっぱい再びバイトとなりました。
9月の乗務はこだま組でした。たしか12組だったかな?
こだま組は人数も少なく、基本新大阪までなので楽でした。それにお盆休み、夏休みのピークも終わり、新幹線自由席も立ち客がほとんどいなくなります。ひかり組で立ち客をかき分けての販売は本当に辛かったです。
私もそれなりに慣れてきているし、こだま号の乗務の方が、のびのび楽しんで仕事ができました。
そんなこだま号から、今は車販すらなくなって、寂しい限りです。
そんなこだま号でも、4年前の新幹線通勤のときは、帰りはたまに車販からビールを買ったりしました。今日は禁酒しようと新大阪ホームではビールを買わずに乗り込んでも、車販の誘惑にいつも負けていました。
ひかり号では、新大阪から乗り込んで京都で降りるビールしか売っていない車販の人もいました。あれはすぐに回ってくるので重宝(禁酒が破られるので迷惑?)な存在でした。
追記2015.02.15
旅行収集品の箱の中から出てきました。
「サービス読本」実習生用 帝国ホテル列車食堂株式会社
バイト用の車販マニュアルです
必要部分だけなのか、ページ数は飛んでいます。
mg src="http://www.mediacat-blog.jp/usr/kumatetsu/%E8%BB%8A%E8%B2%A9%EF%BC%91%EF%BC%94.jpg" alt="" >
帝国ホテル列車食堂でバイトしたのは、昭和59年の夏休みの2ヶ月間だけでした。
最初はお盆休み対応で採用され、8月はひかり組での乗務でした。当時は埼玉に住んでいましたので、東京の会社まで通勤、出勤して制服に着替えてから、黒革靴だけは自前で、東京駅までバスで移動しました。
東京駅発が早朝の場合など、本社には宿泊施設もあって前泊していたような記憶もありますが、何時頃に出勤していたのかまったく覚えていません。
東京駅のどこから入場したのか、さっぱり覚えていません。
仕事は主に土産物と弁当の販売でした。
当時はまだペットボトルというものは存在しませんでした。弁当といっしょに、ビニール袋に包まれたプラスチック容器のお茶も販売しました。保温ケースに入っているお茶も持てるだけ持って車内を歩きました。基本は弁当とお茶をセットで売りたいのだけど、お茶だけ買う客もいました。だから弁当を買う客にお茶を求められて売り切れでは申し訳ないので、お茶は多めに持っていたのです。それでもお茶だけ売れゆきが良いときもあり、残り少なくなってくると、「頼む、茶だけ買わないで~」って心の底では叫んでいました。
おみやげは、東京駅積み込みの基本は、東京の雷おこしに草加煎餅(埼玉だけど・・)、静岡の安倍川餅にわさび漬け、名古屋のういろう、大阪の塩こんぶ、広島のもみじまんじゅう、博多の辛子明太子などが定番でした。新大阪行きの列車内でも、広島や博多みやげも売っていたような気がします。だから「その駅は通らないだろう」と客から突っ込まれたこともあったような・・・
おみやげは途中駅積み込みのものもあって、岡山駅でマスカットや白桃を積み込んでいました。結構高くて、たしか1500円くらいだったと記憶しています。そんなに数は売れませんでしたが、それでも積み込んだ分はたいてい売れました。そんな時代でした。
帝国ホテル独自サービスだったのかどうかは知りませんが、バーワゴンサービスというものもありました。お酒類専門のワゴンで、午後から列車限定だったかな。ウイスキーの水割からなんでも揃っていました。新幹線の中で本格的に酒が飲めたあの時代がうらやましいです。
車内販売ではたいしておつり用の現金も持っていませんでした。おつりがないときに高額紙幣を出された場合は、お客さんの降車駅を確認して、号車と席番をメモして、のちの販売巡回のときに渡したりもしていました。手持ちしていない弁当のオーダーがあったときも、あとから席番をメモしてあとで持っていったりもしました。私は冷水器用の紙コップにメモしていました。あれは重宝しました。
0系、100系、300系までは洗面所に必ず冷水器がありました。700系以降はなくなって、300系も700系に合わせて冷水器は撤去されてしまいました。車内で水がタダで飲めなくするというのは明らかにサービスダウンだと思いますが、JRに対する苦情的な声は聞こえませんでした。マスコミはそういうことには興味がないからでしょうね。その頃からペットボトル飲料が全盛期となっていきます。
車内で水が飲みたければ、自動販売機でお金を出さなければならない現在よりも、昔の方が良いと思いませんか。
車販のバイトは8月いっぱいの予定でした。8月いっぱいで円満退社して、毎年9月の初めには鉄道研究会の合宿があり、それに合わせて個人的鉄道大旅行を組み合わせて、1週間くらい全国の国鉄を乗りまくっていました。
帰宅後に帝国ホテルから連絡があり、9月も働いてくれないかと依頼がありました。特に問題はなかったので、大学が始まる10月まで、9月いっぱい再びバイトとなりました。
9月の乗務はこだま組でした。たしか12組だったかな?
こだま組は人数も少なく、基本新大阪までなので楽でした。それにお盆休み、夏休みのピークも終わり、新幹線自由席も立ち客がほとんどいなくなります。ひかり組で立ち客をかき分けての販売は本当に辛かったです。
私もそれなりに慣れてきているし、こだま号の乗務の方が、のびのび楽しんで仕事ができました。
そんなこだま号から、今は車販すらなくなって、寂しい限りです。
そんなこだま号でも、4年前の新幹線通勤のときは、帰りはたまに車販からビールを買ったりしました。今日は禁酒しようと新大阪ホームではビールを買わずに乗り込んでも、車販の誘惑にいつも負けていました。
ひかり号では、新大阪から乗り込んで京都で降りるビールしか売っていない車販の人もいました。あれはすぐに回ってくるので重宝(禁酒が破られるので迷惑?)な存在でした。
追記2015.02.15
旅行収集品の箱の中から出てきました。
「サービス読本」実習生用 帝国ホテル列車食堂株式会社
バイト用の車販マニュアルです
必要部分だけなのか、ページ数は飛んでいます。
mg src="http://www.mediacat-blog.jp/usr/kumatetsu/%E8%BB%8A%E8%B2%A9%EF%BC%91%EF%BC%94.jpg" alt="" >
2013年08月14日
名古屋駅周辺の鉄道の変遷
近所の図書館で国土地理院の名古屋の古地図を見つけました。
鉄道路線の変遷がよくわかり、とても興味深く、コピーしました。
測量、発行年月をメモし忘れましたが、だいたいわかります。
まず一番古い地図です。
まだ中央本線はなく、東海道本線と関西本線だけが記載されている。名古屋駅は現在よりも南側の笹島付近にあり、関西本線が分岐した地点に「あいち」という名の駅がある。現在のあおなみ線笹島ライブ駅付近だ。名古屋駅の北側から市中心部への引込線の記載もある。
東海道本線が栄を中心とする市街地を避けて、市街地の周辺に沿って建設されたことがよくわかる。市街地を避けて鉄道を建設した典型である。こういう路線選定手法が、のちの誤った鉄道忌避伝説につながっている。
次に古い地図
中央本線が現れている。千種駅しかない。
中央本線も名古屋市街地を避けて、外周部の何もないところへ建設したことがよくわかる。
次の地図
関西本線のあいち駅は消えている。
名古屋港への貨物線、白鳥方面(貯木場)や現中央卸売市場への引込線貨物線も現れている。
東海道本線の熱田方から中央本線へ直通できる短絡線も現れている。
名古屋駅前から市電も拡がっている。
次は
全体的に市街化が進んでいる。笹島貨物駅も現れている。
次は
この地図から名古屋駅が北側に移転しているため消えていて、さらに線路が西側に路線が付け替えられていることにも注目。昔の東海道本線は現在の名古屋駅よりも東側、ちょうど現在の桜通口の駅前広場を通っていたのだ。
関西本線に「こめの」駅の表示が現れている。
次は
名鉄の駅表示が現れている。旧国鉄名古屋駅付近「しんなごや」、そして「さんのう」と「かなやまばし」の表示もある。
この地図から、東海道本線と中央本線への短絡線が消えている。この短絡線跡は現在では痕跡はないが、熱田方の現在の熱田イオンの北側あたりから北東へ斜めにある小道が、なんとなく昔の短絡線のなごりをとどめているようにも見える。
中央本線に「つるまい」駅も現れている。
次は
市街地に市電の路線が縦横に敷かれている。
中央本線金山駅はまだない。
次は
昭和の末期。
中央本線に金山駅の表示がやっと出てきた。ちなみに国鉄中央線金山駅は1962年開業。
このあと、平成になってから、東海道本線に金山駅ができて、名鉄金山橋駅が移転、統合して金山総合駅と現在の姿となった。
白鳥や中央市場への貨物線の廃止も昭和の末期で、平成元年にデザイン博の会場となった現在の国際会議場、白鳥センチュリーホールの一帯は、国鉄貨物駅と貯木場だった土地だ。白鳥への貨物線跡は現在でもその線路跡がそのまま道路となっていて、地図上ではっきりわかる。
鉄道路線の変遷がよくわかり、とても興味深く、コピーしました。
測量、発行年月をメモし忘れましたが、だいたいわかります。
まず一番古い地図です。
まだ中央本線はなく、東海道本線と関西本線だけが記載されている。名古屋駅は現在よりも南側の笹島付近にあり、関西本線が分岐した地点に「あいち」という名の駅がある。現在のあおなみ線笹島ライブ駅付近だ。名古屋駅の北側から市中心部への引込線の記載もある。
東海道本線が栄を中心とする市街地を避けて、市街地の周辺に沿って建設されたことがよくわかる。市街地を避けて鉄道を建設した典型である。こういう路線選定手法が、のちの誤った鉄道忌避伝説につながっている。
次に古い地図
中央本線が現れている。千種駅しかない。
中央本線も名古屋市街地を避けて、外周部の何もないところへ建設したことがよくわかる。
次の地図
関西本線のあいち駅は消えている。
名古屋港への貨物線、白鳥方面(貯木場)や現中央卸売市場への引込線貨物線も現れている。
東海道本線の熱田方から中央本線へ直通できる短絡線も現れている。
名古屋駅前から市電も拡がっている。
次は
全体的に市街化が進んでいる。笹島貨物駅も現れている。
次は
この地図から名古屋駅が北側に移転しているため消えていて、さらに線路が西側に路線が付け替えられていることにも注目。昔の東海道本線は現在の名古屋駅よりも東側、ちょうど現在の桜通口の駅前広場を通っていたのだ。
関西本線に「こめの」駅の表示が現れている。
次は
名鉄の駅表示が現れている。旧国鉄名古屋駅付近「しんなごや」、そして「さんのう」と「かなやまばし」の表示もある。
この地図から、東海道本線と中央本線への短絡線が消えている。この短絡線跡は現在では痕跡はないが、熱田方の現在の熱田イオンの北側あたりから北東へ斜めにある小道が、なんとなく昔の短絡線のなごりをとどめているようにも見える。
中央本線に「つるまい」駅も現れている。
次は
市街地に市電の路線が縦横に敷かれている。
中央本線金山駅はまだない。
次は
昭和の末期。
中央本線に金山駅の表示がやっと出てきた。ちなみに国鉄中央線金山駅は1962年開業。
このあと、平成になってから、東海道本線に金山駅ができて、名鉄金山橋駅が移転、統合して金山総合駅と現在の姿となった。
白鳥や中央市場への貨物線の廃止も昭和の末期で、平成元年にデザイン博の会場となった現在の国際会議場、白鳥センチュリーホールの一帯は、国鉄貨物駅と貯木場だった土地だ。白鳥への貨物線跡は現在でもその線路跡がそのまま道路となっていて、地図上ではっきりわかる。
2013年08月11日
米原駅の売店
米原駅、私の好きな駅です。
現在の米原駅に比べて、昔の米原駅ホームの売店は賑やかでした。
今の在来線ホームは売店も寂しい限りですが、昔は賑やかでした。
平成一桁の頃までは、在来線ホームで生ビールも飲めたものでした。
昔、友人と朝の米原発姫路か網干行の新快速に乗りました。席を確保したのち、友人は缶コーヒーを買いにいきました。しかし、友人は嬉々として、両手に紙コップ入りの生ビールを持って来ました。「缶コーヒーよりこっちがいいでしょ」と言う友人にあきれながら、しっかり新快速車内で朝から生ビールを飲みました。
ちょっと前までは、米原駅在来線ホームでも生ビールを売っていました。今では痕跡もありません。
現在の米原駅ホーム、売店は下りホームにはあります。北陸線ホーム5番6番ホームには売店はありません。東海道上り7番8番ホームには、キオスクとそばうどん駅弁売店があります。そば売店は結構いつも繁盛しています。
翻って、新幹線下りホームのキオスクは、私の新幹線通勤が終わった4年前に消えました。上りホームには現在も弁当売店と弁当と立ち食いそば店、それにキオスクも営業しています。
ホームに洗面台があった頃の米原駅は、もう記憶のはるかかなたになってしまいました。
現在の米原駅に比べて、昔の米原駅ホームの売店は賑やかでした。
今の在来線ホームは売店も寂しい限りですが、昔は賑やかでした。
平成一桁の頃までは、在来線ホームで生ビールも飲めたものでした。
昔、友人と朝の米原発姫路か網干行の新快速に乗りました。席を確保したのち、友人は缶コーヒーを買いにいきました。しかし、友人は嬉々として、両手に紙コップ入りの生ビールを持って来ました。「缶コーヒーよりこっちがいいでしょ」と言う友人にあきれながら、しっかり新快速車内で朝から生ビールを飲みました。
ちょっと前までは、米原駅在来線ホームでも生ビールを売っていました。今では痕跡もありません。
現在の米原駅ホーム、売店は下りホームにはあります。北陸線ホーム5番6番ホームには売店はありません。東海道上り7番8番ホームには、キオスクとそばうどん駅弁売店があります。そば売店は結構いつも繁盛しています。
翻って、新幹線下りホームのキオスクは、私の新幹線通勤が終わった4年前に消えました。上りホームには現在も弁当売店と弁当と立ち食いそば店、それにキオスクも営業しています。
ホームに洗面台があった頃の米原駅は、もう記憶のはるかかなたになってしまいました。
2013年08月11日
列車名考
盆休みになって帰省の新幹線も混雑しています。
いまさら言うのもなんだろうけれど、新幹線の列車名、愛称を聞いていると、やっぱり違和感があります。
東海道本線の名門、九州行寝台特急「はやぶさ」の名が、いつのまにか東北、青森行の東北新幹線に取られてしまいました。別に差別する気はないけれど、昔の国鉄時代から東海道本線の特急は超一流というイメージで、北へ向かう列車には地味というか暗いというか華がないというか二流というか、そんなイメージでした。今や日本日本中どこへ行っても区別がないけれど、昔の東北はなんか貧しいというイメージでした。
「はやぶさ」は東京発の九州行寝台特急として、「さくら」、「富士」、「あさかぜ」などと並ぶ、名門の列車名です。
そんな昔のイメージがあるから、「はやぶさ」が東北新幹線というのは私的には納得いきません。現在の「はやぶさ」はグランクラスを備えた最速のもっとも華やかな新幹線車両かもしれませんが。でも、私ならそういう東北一華がある列車ならば、やっぱり「はつかり」、「みちのく」が一番似合うと思うのだけど。
ジャイアンツの永久欠番の3番みたいな扱いで、永らく使用されなかった超名門列車名の「つばめ」も、鹿児島本線の特急で復活しちゃって、それからなんとなくローカルな九州新幹線に引き継がれました。しかも、新八代ー鹿児島中央間という中途半端な部分開業で。これもなんだかな~という感じです。「つばめ」は 「のぞみ」の上を行く列車名だと思うのだけど。
そういえば「ひかり」も元は東北のローカル急行の列車名でした。
同じく九州新幹線博多ー鹿児島全通を機にできた、「みずほ」、「さくら」も、この列車名が復活したのはうれしかったけれど、なんで最速が「みずほ」で、「さくら」が2番目なのって、これも疑問です。
天下の東海道本線で長らく「1列車」、誉れ高い列車番号1を冠していた「さくら」号が、同じく東海道本線の九州ブルトレではあったけれど、なんとなく地味なイメージであった「みずほ」の下なんて、これは違うぞと声をあげたくなります。「さくら」は何度か映画の舞台にもなったし、人気もあって、指定券も「みずほ」よりも「さくら」がより早く売り切れていました。
昔、今のテレ朝、NETで放送していた「みどりの窓口」でも、「さくら」は真っ先に売り切れていました、私が小学生の頃は。
「みどりの窓口」という番組、たぶん関東地方限定番組だったのだろうけれど、私が中学生の頃までは放送していたと思います。内容は東京、新宿、上野発着の特急列車の指定券の発売状況を案内していた、極めて地味な番組でしたが、私は大好きでした。まだ指定券が1週間前発売開始の時代で、この番組を見ながらはるか遠い九州や東北へ向かう特急列車に乗ることを夢みていた頃でした。BGMに流れていたアール・クルーの「瞳のマジック」もこの番組で知って、とても好きな曲となりました。
そして、この番組でも、東京駅発九州方面の寝台特急がトップで放送されて、「さくら」がまさにナンバーワンでした。
「はやぶさ」が東北へ左遷され、「みずほ」が出世して「さくら」が抜かれてしまった現在の列車名、過去の栄光を覚えている人も減っていくのでしょうか。
今は使われていない「富士」、富士山ブームの今、安易に復活はさせないで欲しい。今のJRに「富士」を冠せるような列車はないし、もう永遠に走らせることはできないでしょう。
いまさら言うのもなんだろうけれど、新幹線の列車名、愛称を聞いていると、やっぱり違和感があります。
東海道本線の名門、九州行寝台特急「はやぶさ」の名が、いつのまにか東北、青森行の東北新幹線に取られてしまいました。別に差別する気はないけれど、昔の国鉄時代から東海道本線の特急は超一流というイメージで、北へ向かう列車には地味というか暗いというか華がないというか二流というか、そんなイメージでした。今や日本日本中どこへ行っても区別がないけれど、昔の東北はなんか貧しいというイメージでした。
「はやぶさ」は東京発の九州行寝台特急として、「さくら」、「富士」、「あさかぜ」などと並ぶ、名門の列車名です。
そんな昔のイメージがあるから、「はやぶさ」が東北新幹線というのは私的には納得いきません。現在の「はやぶさ」はグランクラスを備えた最速のもっとも華やかな新幹線車両かもしれませんが。でも、私ならそういう東北一華がある列車ならば、やっぱり「はつかり」、「みちのく」が一番似合うと思うのだけど。
ジャイアンツの永久欠番の3番みたいな扱いで、永らく使用されなかった超名門列車名の「つばめ」も、鹿児島本線の特急で復活しちゃって、それからなんとなくローカルな九州新幹線に引き継がれました。しかも、新八代ー鹿児島中央間という中途半端な部分開業で。これもなんだかな~という感じです。「つばめ」は 「のぞみ」の上を行く列車名だと思うのだけど。
そういえば「ひかり」も元は東北のローカル急行の列車名でした。
同じく九州新幹線博多ー鹿児島全通を機にできた、「みずほ」、「さくら」も、この列車名が復活したのはうれしかったけれど、なんで最速が「みずほ」で、「さくら」が2番目なのって、これも疑問です。
天下の東海道本線で長らく「1列車」、誉れ高い列車番号1を冠していた「さくら」号が、同じく東海道本線の九州ブルトレではあったけれど、なんとなく地味なイメージであった「みずほ」の下なんて、これは違うぞと声をあげたくなります。「さくら」は何度か映画の舞台にもなったし、人気もあって、指定券も「みずほ」よりも「さくら」がより早く売り切れていました。
昔、今のテレ朝、NETで放送していた「みどりの窓口」でも、「さくら」は真っ先に売り切れていました、私が小学生の頃は。
「みどりの窓口」という番組、たぶん関東地方限定番組だったのだろうけれど、私が中学生の頃までは放送していたと思います。内容は東京、新宿、上野発着の特急列車の指定券の発売状況を案内していた、極めて地味な番組でしたが、私は大好きでした。まだ指定券が1週間前発売開始の時代で、この番組を見ながらはるか遠い九州や東北へ向かう特急列車に乗ることを夢みていた頃でした。BGMに流れていたアール・クルーの「瞳のマジック」もこの番組で知って、とても好きな曲となりました。
そして、この番組でも、東京駅発九州方面の寝台特急がトップで放送されて、「さくら」がまさにナンバーワンでした。
「はやぶさ」が東北へ左遷され、「みずほ」が出世して「さくら」が抜かれてしまった現在の列車名、過去の栄光を覚えている人も減っていくのでしょうか。
今は使われていない「富士」、富士山ブームの今、安易に復活はさせないで欲しい。今のJRに「富士」を冠せるような列車はないし、もう永遠に走らせることはできないでしょう。
2013年08月10日
サッポロ一番
私が一番好きなインスタントラーメンは、サッポロ一番のしょうゆ味です。
現在の商品のパッケージには書いていないのだけど、昔は「かき玉ラーメン」の作り方が書いてありました。
作り方は、麺を入れて2分たったらスープを入れてから溶き卵を入れて煮込むというものでした。
私はこの食べ方が大好きで、今でもそうして作って食べています。
インスタントラーメンの作り方の常識は、火を止めてからスープを入れるというものがほとんどです。
なんで、こん美味しい食べ方のレシピを袋に記載しなくなったのでしょうね。
それと私は、ネギをたっぷり入れて食べています。細めのネギなら1本全部入れてしまうくらいです。
鍋にネギを入れたときの独特の香りの変化も大好きなんです。
サッポロ一番しょうゆ味、物心ついた頃から食べていると思います。
中高生の頃、早朝から釣りに行ったり、写真を撮りに行くため始発電車に乗るときなど、一人早起きしてサッポロ一番でかき玉ラーメンを作り、朝食としていました。午前4時頃起きてすぐに食べても、スルッと食べることができました。
今でも、これを朝食とすることがよくあります。今朝も食べたので、昔を思い出して書いています。
最近は「朝ラー」とかいって、朝食にラーメンを食べるのがブームだけど、私は40年近く前からやっています。
最近はとてもおいしいインスタントラーメンが新発売されています。
マルちゃん正麺とかサッポロ一番麺の力とか、インスタントラーメンを超えた、生麺に近い食感と味というのも納得いくし、とても美味しいけれど、私にとってはサッポロ一番しょうゆ味は、永遠にインスタントラーメンのナンバーワンであり、一番食べたいラーメンです。
サッポロ一番しょうゆ味は、おいしいお店のラーメンとは別物の、最高の一品です。
ちなみに、私は一般の味噌ラーメンは苦手なんですが、サッポロ一番の味噌味は、たまに食べたくなる不思議においしい味噌ラーメンです。
塩味もおいしいですね。
西日本かな?九州だけか?現在は地域限定発売となっている、サッポロ一番ごま味ラーメンというのもありました。昔は関東地方でも売っていたので、結構食べました。あれもおいしいです。
結論、サンヨー食品のインスタントラーメンはみんなうまい、ということですね。
最近あまり見ないけれど、明星食品のチャルメラも独特の味で好きです。
あと、日清の出前一丁も別添のゴマ油を垂らして香ばしいもので、おいしいです。
そういえば「ちびろく」とかいう、ミニ麺が6個入ってひとパックのインスタントラーメンもありました。今は売っていません。懐かしいです。
いろいろなインスタントラーメンを食べたいけれど、インスタントラーメンばかり食べる訳にもいかないので、結局、いつもサッポロ一番しょうゆ味ばかり食べることになってしまいます。
現在の商品のパッケージには書いていないのだけど、昔は「かき玉ラーメン」の作り方が書いてありました。
作り方は、麺を入れて2分たったらスープを入れてから溶き卵を入れて煮込むというものでした。
私はこの食べ方が大好きで、今でもそうして作って食べています。
インスタントラーメンの作り方の常識は、火を止めてからスープを入れるというものがほとんどです。
なんで、こん美味しい食べ方のレシピを袋に記載しなくなったのでしょうね。
それと私は、ネギをたっぷり入れて食べています。細めのネギなら1本全部入れてしまうくらいです。
鍋にネギを入れたときの独特の香りの変化も大好きなんです。
サッポロ一番しょうゆ味、物心ついた頃から食べていると思います。
中高生の頃、早朝から釣りに行ったり、写真を撮りに行くため始発電車に乗るときなど、一人早起きしてサッポロ一番でかき玉ラーメンを作り、朝食としていました。午前4時頃起きてすぐに食べても、スルッと食べることができました。
今でも、これを朝食とすることがよくあります。今朝も食べたので、昔を思い出して書いています。
最近は「朝ラー」とかいって、朝食にラーメンを食べるのがブームだけど、私は40年近く前からやっています。
最近はとてもおいしいインスタントラーメンが新発売されています。
マルちゃん正麺とかサッポロ一番麺の力とか、インスタントラーメンを超えた、生麺に近い食感と味というのも納得いくし、とても美味しいけれど、私にとってはサッポロ一番しょうゆ味は、永遠にインスタントラーメンのナンバーワンであり、一番食べたいラーメンです。
サッポロ一番しょうゆ味は、おいしいお店のラーメンとは別物の、最高の一品です。
ちなみに、私は一般の味噌ラーメンは苦手なんですが、サッポロ一番の味噌味は、たまに食べたくなる不思議においしい味噌ラーメンです。
塩味もおいしいですね。
西日本かな?九州だけか?現在は地域限定発売となっている、サッポロ一番ごま味ラーメンというのもありました。昔は関東地方でも売っていたので、結構食べました。あれもおいしいです。
結論、サンヨー食品のインスタントラーメンはみんなうまい、ということですね。
最近あまり見ないけれど、明星食品のチャルメラも独特の味で好きです。
あと、日清の出前一丁も別添のゴマ油を垂らして香ばしいもので、おいしいです。
そういえば「ちびろく」とかいう、ミニ麺が6個入ってひとパックのインスタントラーメンもありました。今は売っていません。懐かしいです。
いろいろなインスタントラーメンを食べたいけれど、インスタントラーメンばかり食べる訳にもいかないので、結局、いつもサッポロ一番しょうゆ味ばかり食べることになってしまいます。
2013年08月01日
鉄道のブレーキは踏みません
あ~あ、テレビではしつこく、ブレーキを踏んだって言っているよ。
鉄道のブレーキは、踏みません。かけるものです。足ではなくて、手で操作しています。
こんな当たり前のことが、マスコミはわかっていません。著名な人たちも、アナウンサーもみんな、ブレーキを踏んだの踏まなかったのと言っています。
クルマはブレーキを踏みます、足で操作します。クルマと鉄道は違いますよ。
スペインの列車事故、最初に映像を見たときは、もうCGを作ったのかって思いました。監視カメラの実像でした。
映像を見ると、確かに2両目か3両目の電源車らしき車両が最初にひっくり返って、つられて先頭がひっくり返っていきます。
日本の新幹線なら、ATCで制御されているから、スピードがオーバーしたら自動的にブレーキがかかります。極端な話し、運転士がむりやり加速する操作をしても、運転士が居眠りをしようといなくなっても、勝手にブレーキがかかります。
運転士が故意にATCを切ったら、やっぱりブレーキがかかります。
スペインの列車はどういう制御システムなのか、報道からはまったくわかりません。なんせ、マスコミは、ブレーキを「踏む」と言っているような、極めて程度が低いものなので。
スペインの事故、あらゆる手段でブレーキをかけたって。なんなのその表現は・・・
ブレーキを非常位置にするだけで最大限のブレーキがかかります。電気ブレーキと空気ブレーキが最大にかかります。あらゆる手段のブレーキって意味がわかりません。なんか暴走する列車を止めるみたいな映画の観すぎでは。
鉄道車両の基本がまったくわかっていない人がニュースでしゃべらないでほしい。鉄道会社の人はきっと、笑っていますよ。
鉄道のブレーキは、踏みません。かけるものです。足ではなくて、手で操作しています。
こんな当たり前のことが、マスコミはわかっていません。著名な人たちも、アナウンサーもみんな、ブレーキを踏んだの踏まなかったのと言っています。
クルマはブレーキを踏みます、足で操作します。クルマと鉄道は違いますよ。
スペインの列車事故、最初に映像を見たときは、もうCGを作ったのかって思いました。監視カメラの実像でした。
映像を見ると、確かに2両目か3両目の電源車らしき車両が最初にひっくり返って、つられて先頭がひっくり返っていきます。
日本の新幹線なら、ATCで制御されているから、スピードがオーバーしたら自動的にブレーキがかかります。極端な話し、運転士がむりやり加速する操作をしても、運転士が居眠りをしようといなくなっても、勝手にブレーキがかかります。
運転士が故意にATCを切ったら、やっぱりブレーキがかかります。
スペインの列車はどういう制御システムなのか、報道からはまったくわかりません。なんせ、マスコミは、ブレーキを「踏む」と言っているような、極めて程度が低いものなので。
スペインの事故、あらゆる手段でブレーキをかけたって。なんなのその表現は・・・
ブレーキを非常位置にするだけで最大限のブレーキがかかります。電気ブレーキと空気ブレーキが最大にかかります。あらゆる手段のブレーキって意味がわかりません。なんか暴走する列車を止めるみたいな映画の観すぎでは。
鉄道車両の基本がまったくわかっていない人がニュースでしゃべらないでほしい。鉄道会社の人はきっと、笑っていますよ。