2015年04月13日

お気に入りの写真 鉄道の風景

鉄道の景色です。列車は映っていなくても鉄道写真です。



山陰本線の大田市から益田にかけての区間は、海沿いの風光明媚か区間を走ります。
旧客の鈍行に揺られて何時間も過ごすのは、最高のときでした。がらがらの車内、夏ならば窓を全開にして外の空気とDD51の排気ガスを浴びながら、季節と土地の匂いを感じました。駅に止まると先頭からかすかに聞こえるDD51のアイドリングの音以外、外からは何も聞こえません。車内は天井の扇風機がカラカラと回転している音だけがします。そして、汽笛がポッっと鳴り列車がゴトリと音もなく動きます。旧客のボックスシートを独り占めしてこんな景色を眺めながらの旅は二度とできません。





豊肥本線の立野のスイッチバックを通っているときの写真です。





肥薩線の大畑駅。現在は「いさぶろう」「しんぺい」号などの観光列車が走り、観光地化して脚光を浴びていますが、当時は鉄道ファンがたまに乗り降りするくらいでした。
貨物と旧客の混合列車が走っていました。そんなガラガラの車内からの一枚です。





地上時代の札幌駅改札口にて。北海道の駅はほとんどの駅が列車別改札、本数が少ないので列車が到着するまではホームへ入れてもらえませんでした。しかし、さすがに札幌駅は常に改札口が開いていました。そんなことを思い出します。

  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 昭和50年代 雪国

雪景色は特別です。雪に埋もれた線路を列車が通過すると、2条の鉄の道が現れて、そしてすぐに雪に埋もれていきます。







  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 昭和50年代後半

白黒写真しか撮らなかった学生時代。自分で現像、引き伸ばしするためでした。



基本、三脚は使わない主義ですので、手持ち撮影です。1/15くらいのスローシャッターだったと思うけれど、多少ブレています。今のデジカメみたいに手ブレ補正なんてない時代、くそ重いF-1とズームレンズはどっしりしていて良かったです。





右の50系、益田発出雲市行きに乗車しています。待避交換待ちで何度も長時間停車しました。そんな駅のひとつ、三保三隅駅も良い駅です。特急「おき」の通過待ち、気動車の普通との交換で20分近く停車しました。





北陸トンネルの今庄方の出口です。北陸トンネルを出た直後に短いトンネルがあります。雑誌などにもよく掲載された、撮影場所です。「白鳥」が懐かしいです。





鳥栖発西鹿児島行きの旧客鈍行に乗ったときのもの。「はやぶさ」との交換待ちで撮りました。あまり記憶がないのだけど、乗ったからこういう写真があるのでしょう。




田原坂かな?あまり記憶ありません。真夏の日差しがよくわかります。ボンネットの481系が疾走していました。781系の今の九州は進化しました。


懲りずに、続きます。







  

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2015年04月12日

お気に入りの写真 昭和50年代 東海道本線

今は亡き、東海道本線のブルトレ。
主に高校時代に撮ったものです。

すべて手持ち撮影。
ネガそのものの写真、トリミングも補正も一切していません。
昔はこれくらい、手巻きのF-1で、一発勝負で撮れたんだけどなあ。





東海道本線 三島-函南は超有名撮影地でした。早朝東京へ向かうブルトレ群を撮るために、高校生の時は三島に宿泊などという贅沢は出来ません。唯一東京を朝一番の始発普通電車に乗れる日、それは都内と近郊で終夜運転が行われる大晦日から元旦にかけて。元旦の早朝(深夜?)に家を出て、終夜運転の電車で品川駅へ向かい、4時代の始発で三島へ向かいました。駿豆線と徒歩で現地入りし、超有名地で撮ることが出来たのです。















この24系25型のシルエット写真、結構気に入っています。
霧が出て撮影をあきらめていたとき、横を通過しているとき偶然撮影したもの。



もうひとつの有名撮影地、根府川鉄橋と早川-根府川間。こちらは度々通いました。












雨の中を疾走する「踊り子」号。わざと粒子を荒くして引き伸ばしました。こういう雰囲気の写真はデジカメでは出せない気がします。



今度は、大船-藤沢間のカーブ。藤沢駅から徒歩15分くらいの場所です。




ここでも富士山をバックに撮れました。







藤沢は、気軽に行ける場所でした。

また続けます。

  

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2015年04月12日

お気に入りの写真 昭和60年前後

昭和50年代後半から60年頃に撮った、お気に入りの写真です。
四つ切りの白黒写真をスキャンしました。
すべて、キャノンF-1、FD35~105ミリF3.5で撮影しています。
フィルムはトライX、自分で現像、引き伸ばししたものです。




山陰本線 仁万駅です。
益田発出雲市行き、DD51牽引の50系です。
この列車は夜行の上りながさき号から門司で乗り換えて、昼間の山陰本線を乗り継いで、出雲市で夜行山陰号京都行きに繫ぐことが出来る列車で、青春18きっぷでよく乗った列車です。
下校の高校生で賑わっています。この頃の地方のローカル列車は通学の高校生で賑わっていたものです。乗り合わせると混むしうるさいわで迷惑だったけれど、高校生が利用しなければ地方の鉄道は保たないでしょう。





山陰本線 餘部鉄橋です。
旧客を牽くDD51の編成です。初冬の陰鬱とした山陰特有の天気でした。
餘部は本当に何度も通いました。





同じく餘部鉄橋。この年の12月ダイヤ改正で、山陰本線から旧客は姿を消しました。その直前の写真です。
この写真を撮った約1ヶ月後、昭和61年の暮れも迫った頃、強風によりお座敷列車の落下事故が起こりました。DD51だけが鉄橋上に残り、後ろの客車がすべて落下して下のカニ加工工場を直撃、列車乗務員と工場従業員に多数の死傷者を出した悲劇でした。餘部鉄橋本体への補強工事のため橋の構造バランスが崩れたため、強風で橋自体がよじれたのも原因との説もあります。橋直下には慰霊碑があります。
その後、風速規制が厳格になり、冬期の餘部での運転抑止のため山陰本線のダイヤが乱れることが多くなりました。客車転落事故を契機に、現在のコンクリート橋への付け替えにつながりました。
いつぞやか、私が乗ったキハ58の普通列車が餘部を通過するまさにその時、橋上で強い横風を受けて、列車がドンと横に揺れたのを経験したこともあります。その時は、規制はかかっていなかったけれど、ちょうど橋上で強風の直撃を受けて、橋通過後に餘部駅へ停車して後部運転席越しに後ろを見ると、橋の手前にある強風規制の警告灯(丸く配置された5つの赤色灯がぐるぐる回り点滅するもの)が点灯していました。車掌も気づいて、ちょうど通過中に風が吹いて点いたんだなと話ました。





音威子府駅に停車中の、稚内行き急行「天北」です。雪の中を俯き歩く下車客とキハ56、好きな写真です。BGMには北の演歌ですね。
旭川発稚内行きの旧客鈍行に乗ったとき撮った写真です。待避交換待ちで長時間停車しました。音威子府駅ホームのそばは有名でした。今は駅構内で営業しているそうです。




札幌駅で発車を待つ、上り函館行き急行「ニセコ」です。
まだ地上駅だった頃の札幌駅です。
14系客車のニセコは、特急に比べて空いていて、好きな列車でした。ワイド周遊券で特急に乗れるようになっても、私はこちらを愛用していました。





金沢駅を発車した上野行き特急「白山」です。
こちらもまだ地上駅の頃の金沢駅です。
流し撮りとズーミングを同時にやって、バッチリ決まった写真なので、気に入っています。なかなかこうはうまくいきません。マニュアルでのピント合わせ、流し、ズーミング。今の方が私、写真が下手になったみたいです。
駅員さんも絶妙な位置とポーズです。


また、写真を探して、続くかも。


  

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2015年04月05日

渥美線跡巡りバスツアー

田原市博物館主催の、渥美線跡を巡るバスツアーという、なんともマニアックな催しに参加しました。
当日は、老若男女、20数名が集まりました。いかにも鉄道マニアという方よりも、一般の方が多い感じです。年齢層は平均して高かったです。もっとも人間、年取るとマニア臭を消して一般人になりすます傾向があるので、わかりません。参加者の中で地元のおばちゃんもいますが、マニアではなく、皆さん鉄道よりも歴史に興味があるのかなという雰囲気です。







バスに乗り込み、最初に向かった場所は加治駅跡付近。こんなバスに乗って巡ります。



この区間は戦前まで営業していた、三河田原と黒河原駅の間。残っているコン柱には渥美電鉄の社標の表示。この区間は「工杭」ではありません。








バスは黒河原駅跡地付近の大久保南交差点を右折してバイパスから旧道へ入ります。
黒河原駅は何も痕跡はないけれど、資料には詳細があります。





今の大久保南交差点、鉄道が延伸する方向は立体交差となっています。戦前のこの時代、こんな田舎で交通は人や馬車くらいだろうから、なんで立体交差にしたのか理解できません。踏切で十分だと思うけれど、戦後しばらく放置されていただろう路盤跡と駅跡がわかる昭和46年撮影の航空写真でも、立体交差が残っています。これは本当に初めて見たし、知りました。


次は野田町集落に入った地点に残る彦田橋跡。これは前回約2年前、私が一人で歩いたときには発見できなかったものです。
野田町内は圃場整備で痕跡は消失していると思っていたけれど、水路部分だけ圃場整備の地区外だったようです。





水路内には工杭がころがっています。


次は野田保育園周辺。ここが三河野田駅予定地。



敷地周辺に工杭がいくつかありました。


保育園を道を挟んだ隣の田んぼ。

保育園敷地の裏にも工杭が放置されています。



次はバスを野田市民館に止めて、野田小学校と野田中学校の中間にある小道を歩きます。この小道が路盤跡で、工杭が多数残っています。前回一人で歩いたときは工事中で通り抜けられなかったところです。




引照点の杭


こんなところです。



次は馬草と宇津江間。コンクリート擁壁とか工杭が残っています。




この写真は三河田原方向。この先に路盤が延びていたのでしょう。


足下には工杭が転がっています。


反対の宇津江方向に移動すると、工杭がいくつかあります。



次は泉市民館前をでバスを降りて徒歩移動。
宇津江から三河泉間の路盤は、以前書いたブログに書いています。今回の案内では触れられませんでした。


泉市民間は、三河泉駅跡地にあります。江比間駅という名称だと思っていたけれど、予定は「三河泉」でした。用地図でもそうあります。(博物館の展示で確認した)

ここから紺屋川へ進む道が路盤跡。工杭もあります。



紺屋川には橋台が残っています。


ここを渡っていました。



伊川津駅跡地です。前回はそうとは認識しませんでした。


前回は荒れ地だったけれど、現在なんらかの整地工事中です。もしかしたら痕跡がなくなる可能性も。


この先で大川を渡ります。そこに道路橋があります。前回は気がつかなかったけれど、説明を受けて道路橋の橋台をよく見ると古い構造物の上に新しい道路用の橋台を作っているのがわかります。ここも鉄道橋跡です。







川の中には工杭が転がっています。



次は石神交差点前後に残る築堤の路盤跡です。現在でも痕跡として残る鉄道用築堤です。

架道橋も2ヶ所残っています。


築堤の上。



築堤の横のうっそうとした林の中にも川を渡る橋跡と人道橋が残っています。この人道橋は、路盤を作ったために分断された道の付替道路としての機能があったのでしょう。今は林の中に埋もれていまっていますが。








さて、次は路盤まで完成して放置された三河福江駅予定地から先です。
ここからは路盤は建設されず、用地買収までやってストップした区間で、土木構造物はありませんが、工杭は散見しています。

三河福江駅予定地の消防署には何も痕跡はありませんが、そのすぐ先には工杭がありました。






次はバスは保美貝塚遺跡に向かいます。
ここは工杭の宝庫です。こんなにあるなんて、まったく知りませんでした。









貝塚の敷地に、墓標のように工杭が立ち並んでいる風景は、異様です。
もし鉄道が出来ていたら、この貝塚は消滅していたのでしょうか。
資料では、昭和16年の太平洋戦争直前の発掘調査時の図面に「鉄道用地」という線が描かれています。戦争が始まりうやむやのうちに建設が中断される前のことです。
その図面です。



そして最後、終点の地、伊良湖岬駅予定地。



この畑の方向が駅予定地。用地図では、終着駅なので駅構内の折り返しや留置線用地も配慮された、広めの幅の用地が確保される予定だったようです。

上の写真を撮った農業用ハウスが建つ足下にも、工杭が埋もれています。


伊良湖岬駅構内の終端部です。狭い道路のガードレールの下に工杭と引照点がありました。





こんな狭い道に、普段は歩行者などいない道にわんさかとよそ者が集まり、なにやらみんなで写真を撮っている光景は、地元の人にとっては異様なものだったでしょう。



終点は「堀切駅」という名称だと思っていたけれど、「伊良湖岬」だったんですね。まったく知りませんでした。

博物館の企画展示では、鉄道省作成の黒川原から伊良湖までの全線の用地図も展示されていました。


こんなものが現存していたなんて、なんて貴重なものなんでしょうか。豊橋鉄道が保管していたそうです。これがあれば、古地図や古い航空写真などと比較しなくても、路線を推定することは容易なことです。でも、それに頼らずにいろいろと想像しながら痕跡をつないでいく作業も楽しいものでした。

今回のバスツアーは、田原市博物館で開催された、「渥美線 渥美半島と外界をつなぐ鉄路の物語」という企画展の関連行事で企画されたものでした。

観光地でも名所旧跡でもないところにバスが止まり、正体不明な見学者がぞろぞろと歩き、コン杭や朽ち果てたコンクリート構造物を探して見ている姿は異様な風景だったことでしょう。

黒川原駅のことや、野田集落内の橋、保美貝塚、終点の伊良湖岬駅予定地など、知らないことも多く、前回自分一人で歩いたときには発見できなかったものを多数見ることができました。

バスツアーを企画してくれた田原市博物館と案内してくれた学芸員さんに感謝、感謝です。
ちなみにこのツアー、博物館の企画展が始まる前に気軽に申し込んで参加できましたが、定員に達したあとも申し込みが続出して、定員の4倍くらいの人がキャンセル待ちだったらしいです。
こんな変な企画に参加者が現れるのか危惧していたけれど、こんなに人気となるなんて思っていなかったと学芸員さんは言っていました。

前回、平成24年11月に歩いたときの記録はこちら
渥美半島の鉄道計画 渥美線探訪記

  

Posted by よっぱらいくま at 14:16Comments(0)TrackBack(0)廃線跡、未成線

2015年04月04日

青函トンネル 列車事故で初めて海底駅から脱出

青函トンネルが開業してまる27年。竜飛海底駅が非常時の退避施設としての本来の目的として、ついにというか初めて役立つことになってしまった。
これは大事件だと、テレビニュースで初めて知って驚いた。
新幹線工事に伴い、見学施設としての海底駅はすでに利用停止していたが、本来の非常退避施設として廃止された訳ではない。しかし、テレビなどの廃止した海底駅が役立ったみたいな言い方が、多少気になる。あくまで二次利用であった、見学用の乗降駅としての機能を廃止しているだけである。


見学の証。

今回、非常停止したのが、たまたま竜飛海底駅を通過してから約1キロの地点だった。これがトンネルの最深部分だったらどうなったのか。トンネルの全長は約53.85キロメートル。途中、竜飛と吉岡の定点として海底駅が2箇所だから単純に3分割したら、トンネル出入り口と定点間との等分距離は約18キロ。だから、海底駅間の中間、例えばトンネルの最深部で停止したら、海底駅またはトンネル出口まで最悪9キロ、しかも上り坂を歩くことにもなったのだ。もちろん、そういう場合に備えて、列車が通っている本坑と並行して掘られた作業抗が避難施設の意味として存在し、本坑と作業抗を結ぶ通路も多数設置されている。しかし、本坑と作業抗を結ぶ通路だって間隔は空いているし、列車乗務員が的確にそこに誘導できたのか、疑問である。普段、そういった事態に対してどのような教育訓練をしているのだろうか。

それともう一つ疑問が。北陸トンネル火災事故を契機に、トンネル内を走行中に列車火災が発生した場合は原則、非常停止させずにトンネルからの脱出を優先させるとなったはずだ。
北陸トンネル列車火災事故は、食堂車の石炭レンジから出火し、火災発生とともに列車はトンネル内で緊急停車。乗客はトンネル内で火と煙にまかれ多数の死傷者を出したもの。止まらずにトンネルを出ていればよかったと言われたが、当時の規則は火災だろうとなんだろうと事故発生の場合は停止するだった。この事故を契機に規則が改められるとともに、石炭レンジの10系客車の食堂車が全廃となった。
青函トンネルは前述のように避難施設が備わっているから別のルールになっていると思う。たしかに、あの長大トンネル内で列車火災が発生した場合、止まらずに走行を続けていくというのも無理なことである。その間に列車が全焼してしまう。
火花と白煙を見て非常停止措置をとった乗務員は、反射的に停止させたのだろうか。今現在、列車がどこを走っているか、それは時間経過などで感覚として認識しているだろう。たまたま、竜飛海底付近を走行中だということを感覚的に意識していて、今すぐに止めれば竜飛海底駅に避難できると思ったのか。それとも、どの地点を走っているなど関係なく、止めたのだろうか。いろいろと想像してしまう。

さて、今回の事故は過電流によりモーターへの電線が発火したとのこと。電線にだって余力があるだろうし、多少の電圧、電流の変動で電線が焼ける訳ないし、いったいどれだけの過電流が流れたのか、また、過電流の原因はなんなんだろうか。

JR北海道の車両トラブルは多いし、単なる整備不良や部品の劣化だろうか。

青函トンネルは現在、新幹線の走行試験も行われている。新幹線は交流2万5千ボルト、在来線は交流2万ボルトである。新幹線の試運転の支障になるというのも、ひとつの理由として、トワイライトエクスプレスと北斗星が廃止されたが、これは新幹線の試運転中はトンネル内を2万5千ボルトにしているので、その間は在来線は貨物列車も含めて走らせることができないからだろう。
今回の過電流の発生原因だけど、車両側に問題があったと思うけれど、もしかしたら何らかのトラブルで、在来線特急電車が走っているときに、新幹線走行時と同様の2万5千ボルトが流れてしまったとかいうことはないのだろうか。

北海道新幹線が函館まで開業したらトンネル内は2万5千ボルトになる。在来線として青函トンネルを通るのは2万5千ボルトと2万ボルトの両方に対応できる機関車牽引の貨物列車だけになるという。カシオペアだけでもその機関車牽引で存続するのだろうか。

普通列車が走らない現在の青函トンネル区間は、青春18きっぷは特例で特急に乗ることができる。新幹線だけになったら、青春18きっぷで初の新幹線乗車も認められるのか、今から楽しみではある。  

Posted by よっぱらいくま at 13:37Comments(0)TrackBack(0)事故・災害