2013年07月20日

新幹線 食堂車の思い出

 先週木曜日は新幹線こだま号に乗って東京へ行きました。
 そういえばこだま号からは車販は撤退したんだよなと思いながら、不便なのかどうなのか考えていました。新幹線のホームからも以前と比べて売店、キオスクもかなり撤退しています。儲からないから、その一言につきるのだろうけれど、なんかなあと思ってました。
 さて、新幹線から食堂車がなくなってからも久しいです。
 いったい平成何年だったのだろうか、食堂車の廃止は。ネットで調べればすぐにわかるだろうけれど。
 食堂車は博多開業に合わせて当時の国鉄が、長時間乗車に対処するため、旅客の食事を考慮して食堂車導入を決めた経緯がある。今のJRなら、採算絶対だからそんな配慮はしないだろうけれど。当時だって車販は現在に比べればずっと充実していたし、駅で弁当を買うこともいくらでもできた。だけど、国鉄は採算よりも旅客の利便性も重視したのだ。そういう経営効率よりも公共性を優先していたから赤字体質であった面も否めない。一部分の側面ではあるが・・・
 当時、0系の食堂車が画期的だったのは、新幹線が1435mmの広い線路幅による車両の幅の広さを活かし、在来線の食堂車と違い通路を側面に設置して、通過する客が食堂車内を通らなくてもよい構造としたことだ。その構造は、2階建てとなった100系でも通過客は1階を通ることにより引き継がれた。
 営業形態も、国鉄の食堂車営業を一手にやっていた日本食堂をはじめ、都ホテル、帝国ホテル列車食堂、ビュッフェとうきょうの4社で営業していた。
 食堂車のメニューや雰囲気にも各社の個性があり、乗客の中にはどこそこが営業しているひかり号を選んで乗っていたなんて人も結構いました。
 実は私、大学生のときにバイトで新幹線の車販をやったことがあります。大学の鉄道研究会の先輩の紹介で働くことができました。そこは帝国ホテル列車食堂です。食堂車の評判は一番良く、選んで乗ってくれるお客さんが一番多かったのも、帝国ホテルでした。
 スタッフとしての新幹線の乗務は、当時の形態はひかり組とこだま組があり、基本はその組のメンバーで乗車していました。当然、食堂車を擁するひかり組が人数も多く職人気質のコックもいるので、華やかであり、厳しくもありました。対してこだま組はビュッフェはあるものの少人数で、なんとなく家庭的な雰囲気でした。私は最初はひかり組でした。たしか32組だったかな。初乗車のときもいきなり、安倍川餅とういろうを持たされて売りに行きました。当時は、今みたいにワゴンだけではなく、みやげものだけや、弁当だけを持ち歩いて売る形態がかなりありました。ワゴンは品数も多く、今みたいにバーコードを機械で読み取り精算するのではなく、手計算、記憶だけで販売していたから、ワゴン販売はベテランの正社員がやっていました。バイトでも経験長い人は任されていたけれど。
 慣れないうちはみやげもの(特にういろうは重くてつらかった)を持って車内を何往復もしたあとは腕がぱんぱんになって、乗務後の食事も腕が震えてできなかったくらいだ。あれはコツがあって、腕を曲げて抱えると無駄に負担が増すが、腕をピンと伸ばして持てば良いということを自然に覚えた。
 帝国ホテル列車食堂は、全然覚えていなかったけれど、東西線の茅場町にあったことをネットで確認しました。それで新大阪と岡山と博多にそれぞれ食堂車従業員用の滞在施設があった。だから帝国ホテルが担当するひかり号は、新大阪、岡山、博多どまりに限定されていた。要するに広島発着のひかり号は帝国ホテルが担当することはなかった。
 博多ひかりの場合は基本、片道のみ仕事の泊まり、一泊二日勤務だった。新大阪は時間帯により日帰り往復勤務か夜遅い到着列車だと一泊二日勤務でした。
 車販は重労働ですよ。私は当時、女性の仕事では、看護婦と車販が一番大変だと確信しました。
 何しろ、新幹線の中を何往復も歩きっぱなしです。当時は混んでいることも多く、立ち客を掻き分けながらの販売は大変でした。お盆の大混雑のときは、ワゴン販売を断念し、各自手持ちで販売したこともありました。
 班の中でも、16両の新幹線を食堂車を中心に、こだまはビュッフェ車を中心に博多寄りをA車、東京寄りをB車と分けて分担していました。基本、自由席のあるA車担当の方がきつかったです。立ち客が多くいる場合が多いので。ひかり組のときは、バイトの私は基本、A車担当でした。グリーン車を含むB車は正社員担当が多かったです。こだま組になったときは、A車もB車もまんべんなく担当しました。
 一度は読売ジャイアンツの選手がグリーン車に乗っていたこともあった。私は芸能人とか有名人に疎かったが、王さんや長島さんくらいはわかった。私に声をかけて何か買ってくれたような記憶がある。なんか関係ないことまで話しかけられもされたのだが、よく覚えていない。なにしろ当時は、プロ野球にまったく興味がなかったから。だから別になんとも思いませんでした。
 当時、弁当は起点駅での積込が原則だったが、うなぎ弁当だけは車内で調製していた。調製といっても、真空パックのうなぎをチンして暖かいごはんに載せて、弁当箱に詰めたものだったが。でも箸をつけて包み紙をかけたりといった作業があった。私は箸を付け忘れるというミスをやらかしたことがある。気がついたときは急いで、売った客のところへ記憶を頼りに届けにいったものだ。うなぎ弁当は車内でいくらでも調製できたので、(ご飯は炊いたものをたくさん積んでいた、なくなることはまずなかった)駅積み込みの幕の内弁当などすべて売り切れたときに、弁当を所望する乗客の要望で作ったのだ。でもうなぎは苦手、午前中から食べたくないみたいなことを言われて、「うなぎしか出来ないならいらない」と言われたことも結構あった。うなぎ弁当は真空パックのものだけど、味はたしかでしたよ。ちゃんとタレもかけて、、暖かいから冷たい積み込み弁当よりもはるかにおいしかったはずです。高かったけれど。
 あと、ビールはその日その日で積み込む銘柄が異なっていたけれど、一時、バドワイザーを積み込んでいたこともあった。一度、ビールを所望する客にバドワイザーを出したら、「それしかないのか?」と言われ、これしかないと言うと、「じゃ、いらない」と言われたことがあった。そのときの私は、今と比べて、まったくプライベートでは酒を飲まず興味もなかった。今となっては、その客の気持ちがよ~くわかります。私も、車販でモルツやドライだと「いらない」と言いたくなるので。ビールはサッポロとキリン派です。でもバドワイザーは特殊ですよね。
 終着駅が近づき、ひと段落しているときに、さきほどのうなぎ弁当用のご飯が大量に余っているときなどたまに、ご飯にうなぎのタレだけをかけて食べさせてもらったこともありました。それのうまかったこと、重労働のあとでもありまだ二十歳くらいの食べ盛りのこと、あんなにうまい食べ物は記憶にありません。
 泊まり勤務では乗務のあと、さきほど書いた宿泊所に行きます。到着後は、好きな人は夜の街に繰り出す人もいました。
 新大阪は駅から少し遠くて、送迎のワゴン車に乗って行きました。新大阪駅構内の職員専用通路を通って外へ出るのだけど、私が4年前の新幹線通勤で新大阪に通い始めて、いつも通る通路にその職員用通路入り口を見つけて、感慨にふけったものです。
 岡山と博多はたしか、駅から歩ける距離でした。たまにはバイト仲間と缶ビールを飲みながら、宿泊所で語り合ったものです。もう名前も顔も覚えていないけれど。
 特筆する出来事は、営業運転中の新幹線の運転室に入り、運転台から前方の景色を見たことです。当時は新幹線運転士へコーヒーをサービスするという決まりがありました。当時の新幹線は運転士は2人乗務でした。東京ー新大阪間の中間地点を走行中に運転を交替していました。だから運転士が二人、運転室にいました。それで、コーヒーを持って行って、運転室のドアをノックして、運転していない方がドアを開けて受け取ってくれました。運転室へは入ってはいけない決まりでした。一度だけ、ノックすると運転士が「入ってきていいよ」と言って、中に入れてくれました。そして、こっちに持ってきてって言いました。運転室に入り0系の運転台ははるか高い位置にあります。階段を上り運転席に近づきました。そして一瞬だけだけど運転室から見える前方の流れる景色に圧倒されました。在来線とは別次元の世界でした。感動でした。私は立場上冷静を装いながらも、そのときの人生で最高の出来事に感動で震えてしまいました。運転士からすれば、取りにいくのが面倒臭かっただけだったと思うけれど。
 こんなこともありました。コーヒーは起点駅からポットに入れたものを何本も積み込んでいましたが、売れ行きが良いとなくなってしまいます。ビュッフェにはコーヒーメーカーもあって、なくなったらそれで作って補充していました。あるとき、コーヒーを作ろうとコーヒーメーカーの水の注ぎ口のフタを明けると、なんと、ゴキブリが大量に出てきたのです。これには他のスタッフもびっくり。さすがにこの日は、コーヒーの継続販売を断念しました。新幹線って、結構ゴキブリの巣窟だと、なんかテレビかなんかでやっていました。今は、供食スペースがないし、車内のゴミも乗客がきれいに持ち帰りゴミ箱に捨ててくれるから、そんなことはないと思います。
 そういえば300系にも簡易な販売スペースがありましたね。
 100系時代になり、食堂車のない車両も増えて、食堂車営業列車も徐々に減っていきました。
 新幹線の車販は良い経験でした。私は鉄道マニアだから、高校生の頃から鉄道ばかり乗ってましたから、乗客の気持ちはよくわかっているつもりでした。車内をゆっくり歩き、買いたそうな客、迷っていそうな客、声をかけるタイミングを計っていそうな客、などなど、自分なりに目配りして工夫していました(マニュアルにも似たようなことが書いてあったけど)。自分で言うのもなんだけど、売り上げは決して悪くなかったと思います。
 今となっては、新幹線に食堂車はおろか、こだま号からは車販すら撤退した新幹線はつまらないものです。
 車販も乗務する人数も少なく、のぞみの自由席1号車にでも乗った日には、混んでいるときなど名古屋から乗って東京に向かっていて、車販が来るのは三島通過する頃にやっと初めてきて、それで終わりなんてことばかりです。通常でも2往復しか来ません。私が乗務していたときは、東京ー名古屋だけで4往復はしていました。ワゴンではないけれど。混んでいたから、土産を売った後は、次は弁当を抱えて、それが終わったらビールだけ持ってと、次から次へと売って、車内を往復していました。
 それにしても、今の車販のお姉さんたちは、みんなきれいでスタイルが良い人ばかりですね。私が車販をしていた頃は・・・。でも今の車販のお姉さんたちよりも当時は逞しかったかなあ。格好というかユニフォームもぜんぜん違いますよね。
 帝国ホテル列車食堂も、都ホテルも、ビュッフェとうきょうも、食堂車営業から撤退し、日本食堂も縮小してのちにJダイナーとかいう会社名になって、今はなんでしたっけ?
 新幹線は車販のみで、新幹線パッセンジャーサービスとJダイナーの営業となり、時刻表にも営業会社が表記されていた時代もあったけれど、今は何も書いていません。現在、車販を営業している会社ってどこでしたっけ?
 朝のサンドイッチとコーヒーの500円セットは重宝しています。車販のコーヒーも本当においしくなりました。


続きです
新幹線食堂車 帝国ホテル列車食堂


Posted by よっぱらいくま at 10:40│Comments(3)TrackBack(0)新幹線

この記事へのトラックバックURL

http://kumatetsu.mediacat-blog.jp/t92478
この記事へのコメント
私はブュフェ東京の新大阪勤務でした。鰻ネタは、まったく同じ。ご飯は、ジャーに沢山あったなー。
立ち食いのカレーと即席の鰻弁当用。
超ブラックな職場だったけど、すべてが懐かしい。
関西人の私が崎陽軒を知ったのも、この仕事のおかげ。東京駅を出発すると、速攻売り切れた。
こりゃ美味しいだろうなと思った。
今東京住まいで、地方出張時は、必ずシューマイ弁当。
頑張れ、今の車販チーム!
何か活路はあるはず!
Posted by 天王寺出身! at 2017年08月10日 10:48
私も学生当時、ビッフェ東京の新大阪勤務でした。90年頃かな?ひと夏限定でしたが、食堂車内での盛り付けや皿洗い、職人気質の料理人、優しいスタッフやお客様、東京や岡山の簡易宿舎での泊まり勤務等はどれも新鮮で、今となってはいい思い出です。
お盆で200%を超える乗車率の時でも手持ちで弁当販売に行くよう指示が飛んで、人並みをかき分けて売りに行きました。意外に売れるんですよね。アイスクリームは「冷たい冷たいアイスクリームは如何でしょうか」と言って練り歩くと、小さいお子さんは必ず反応したり、楽しかったですね。
今は東京暮らしで新幹線には出張等で頻繁に乗りますが、車販スタッフは見ると心のどこかで応援してしまいます。
いつまでも続けて欲しいサービスですね。
Posted by 懐かしい! at 2020年07月18日 08:24
私も学生当時、ビッフェ東京の新大阪勤務でした。90年頃かな?ひと夏限定でしたが、食堂車内での盛り付けや皿洗い、職人気質の料理人、優しいスタッフやお客様、東京や岡山の簡易宿舎での泊まり勤務等はどれも新鮮で、今となってはいい思い出です。
お盆で200%を超える乗車率の時でも手持ちで弁当販売に行くよう指示が飛んで、人並みをかき分けて売りに行きました。意外に売れるんですよね。アイスクリームは「冷たい冷たいアイスクリームは如何でしょうか」と言って練り歩くと、小さいお子さんは必ず反応したり、楽しかったですね。
今は東京暮らしで新幹線には出張等で頻繁に乗りますが、車販スタッフは見ると心のどこかで応援してしまいます。
いつまでも続けて欲しいサービスですね。
Posted by 懐かしい! at 2020年07月18日 08:24