2014年02月27日

またまたドクターイエロー

17時32分40秒、豊橋駅をドクターイエローが東京方面へ通過しました。

この前と時間が違います。この前は雪の影響で遅れていたのかな?

豊橋駅ホームにはカメラを持った数人のマニアとスマホを構えている母子連れもいました。どこで情報を仕入れるのかしら?  

Posted by よっぱらいくま at 17:37Comments(1)TrackBack(0)新幹線

2014年02月24日

お騒がせ者2 ポイント凍結対策の誤解

 今日の中日新聞夕刊に、二年前とまったく同じ投書がありました。
 大雪の日、電車に乗っていたら、線路が燃えていたと。
 火災になったら帰りの電車が止まると心配になり、着いた駅で駅員に尋ねたら、「それはポイントの凍結防止のため」と丁寧に説明を受けたとか。
 ちなみに二年前の投書は、線路から火が出てると消防か警察に通報した30代の男のことである。

 丁寧に説明する方もお気の毒だが、投稿の主は私の母親世代である。
 78歳でそんなことも知らないのか。若者なら百歩譲って知らないかもしれないが。

 人生今まで、鉄道に乗ったことがないのかと思いました。
 昔は常識だったと思うけれど。決して鉄道マニアの世界ではなく、世間一般の常識ではないか。
 ポイントの凍結防止に、カンテラの火で温めるのは。
 少なくとも、昭和40、50年代の首都圏の通勤客は、雪が降るとポイントを温める妖艶な炎を見たことがあるはず。あの頃、そのカンテラの火を、いちいち騒いで新聞に投書するような無知な人はいなかったはずだ。また、たとえそういう投書があっても、新聞は相手にしなかったはずだ。そういう投書をまともに取り上げる今の新聞社も劣化しているのだろう。

 こんなことでいちいち消防にでも通報されたら鉄道会社は大迷惑なので、せいぜい新聞で啓蒙してください。
 新聞社も投稿主も、無知をさらけ出して楽しいのかしら。  

Posted by よっぱらいくま at 21:28Comments(0)TrackBack(0)最近の出来事

2014年02月23日

青函連絡船八甲田丸と青函トンネル龍飛基地

 「あけぼの」に乗りに行ったついでに、青森の龍飛岬へも行きました。
 冬の龍飛はとても寒く雪深く風が強いイメージで、ちゃんと列車が動くか、道路は大丈夫かと不安も大きいです。
 その日は風も弱く、蟹田から乗った津軽線は遅れもなく順調に走り、三厩駅へ到着しました。
 蟹田駅前の店で買ったビールとつまみをやりながら、約40分の津軽線の旅はのどかでした。
 蟹田駅前の店で買ったつまみはとてもおいしかったです。一人分ちょうど良い量で、小松菜のおひたしとほたてマヨネーズは、塩分控えめの手作りでした。

蟹田駅の津軽線キハ40。



中小国駅は、JR東と北の境界駅です。




線路の境界はこの地点。
津軽海峡線と津軽線が分岐する地点です。




雪の単線の津軽線を行く。




終着の三厩駅。






三厩駅からは町営バスで龍飛岬を目指しました。




道路は普通の圧雪路で、問題なく走れます。




龍飛は風もあり、気温も氷点下ですが、穏やかでした。
ただし、外を歩くにはフードと手袋は必須です。都会の寒さとはやはり桁違いの厳しさですが・・・




龍飛は、青函トンネルの龍飛工事基地があったところです。
ここから旧鉄道建設公団の手で、先進導坑を堀り始めた歴史があります。
詳しくは、高倉健主演の映画「海峡」を観るとよくわかります。大好きな映画です。




そこには今、青函トンネル記念館があり、そのトンネルを利用したケーブルカーで海面下140メートル地点まで行け、そこには工事関係展示があります。
青函トンネルの龍飛海底駅は廃止されて一般乗客が降り立つことは不可能になりましたが、ここは今でも生きています。
ただし、冬期は休館です。






敷地には国鉄の「工杭」がありました。





さて、翌日は函館に立ち寄り、駅前のどんぶり横町で昼食を。
店頭の見本はネタの様々な組み合わせがあるけれど、面倒なので店内で好きなのをトッピングしてもらいました。
私はウニが苦手なんだけど、どの組み合わせにもウニがついてくるもんで。
選んだのは、イカ、カニ、いくら、サーモンです。
おいしかったです。ついでに日本酒も頼んだら、地酒のワンカップでした。




函館から青森へ戻り、青函連絡船八甲田丸へ行きました。
青函連絡船、昭和63年3月13日に廃止されてから、もう約26年です。
最終日、青函トンネルの開業と連絡船の廃止にたちあったのも、はるか昔です。
この連絡船桟橋があったあたりも、風景は激変しました。頭上を道路の大きな橋がかかっていて、桟橋と待合室などがあったあたりも、一変しています。ホームから桟橋への連絡橋だけ、一部残っています。






八甲田丸は、函館に係留、保存されている摩周丸よりも往時の形が残されていて、私はこちらが好きです。




元グリーン(指定)席。





車両甲板には懐かしい車両が。




気動車は燃料を積んでいるため、実際の航海時には積めなかったと案内文にありました。








青函連絡船の心臓部、第一主機室のエンジンです。
乗用車やトラックのエンジンなど鼻くそみたいに見える、巨大なエンジンです。
大きさだけなら戦車のエンジンだって青函連絡船のエンジンにはかなわない。
1基1600馬力のエンジンが第一主機室と第二主機室にそれぞれ4基ずつ、計8基で総出力は12,800馬力。
排気量は何万CCだろうし、燃費とかどのくらいなんでしょうか。
たぶん、リッター数メートルとかだったりして。
その他にも発電用のエンジンが複数あったのです。

今でも燃料とオイルの独特の臭いが立ちこめています。
動いていた時は、ここは轟音に包まれていたのでしょう。


機関制御室です。



コンピューター制御ではない、昭和の時代のいかにも機械の出で立ちです。


ここは元案内事務所でした。ここできっぷとかも買えました。




八甲田丸は、廃止されてから何度も立ち寄ったけれど、青森に来たら必ず立ち寄ってしまいます。
私の、青函連絡船への想いは永遠です。




この後、いよいよ、あけぼの号です。

今回の旅で20代の若い人ともよく話ました(みんな男子です。「あけぼの」に乗りに来た若い女子は皆無でした)。
彼らは鉄道も興味あるけれど旅が好きで、あけぼのがなくなるのがきっかけで来たと言っていました。
しかし、バリバリの鉄ではなく、鉄分は薄いようで普通の旅行者でした。
青函連絡船の中で、私は最後の日に乗ったことを言ったら、彼らはまだ生まれていないと言われ、ショックでした。
あー、もうそんなに年月は過ぎたのだと、感慨ひとしおでした。
そんな彼らは皆、まじめで頭も良さそうで、礼儀正しく言葉使いもきちんとした行動をとっていました。
彼らのような若者がこの先、将来の日本を背負っていってくれるならと、頼もしく思いました。


あけぼの号立ち往生顛末記」に続く



  

Posted by よっぱらいくま at 15:01Comments(0)TrackBack(0)旅行記

2014年02月22日

あけぼの号立ち往生顚末記 豪雪災害

 今年3月のダイヤ改正で、上野と青森を結ぶ、伝統あるそして最後まで唯一残った昔ながらの寝台特急「あけぼの」号が廃止になります。
 2月14日金曜日、青森発上野行きの「あけぼの」の寝台券が手に入ったので、お別れ乗車に行きました。
 実は、当初は2月16日、上野発青森行きの下り列車を、1ヶ月前の10時にみどりの窓口で求めたのだけど、瞬時に売り切れて手に入らなかったのです。それで2日前の14日発の上りは発売開始から2日も経過していたにも関わらず下段もいくつか空いていて、難なく下段寝台が買えました。
 16日の寝台券が買えなかったことは、あとになってとても幸運な結果となったのでした。

 さて、14日夕方金曜日の青森駅は、東京と変わらないような通勤客もたくさんいて、たった2両の「青い森鉄道」に詰め込まれていました。昔は最低4両の12系か50系客車で、もっとのんびりした雰囲気だったのになあと思ってしまいました。

 青森駅の発車待ちの「あけぼの」です。





 周りには撮り鉄がたくさんいます。通路にでかい三脚を立てて構えているのは感心しません。駅構内やホームでは三脚使用は慎むべきです。はっきり言って邪魔。
 私はコンパクトデジカメでストロボ禁止で手持ちですが、十分です。
 写真を撮る鉄道マニアの数に比べて、列車に乗り込んだのはその半数くらいに見えました。

 あけぼのは定刻に、青森駅を発車しました。
 乗客はマニアもいるけれど、一般客もそれなりにいます。1ヶ月前に瞬殺で売り切れる「あけぼの」もあるのだけど・・・

 車内では地酒のワンカップを飲みながら、ゆっくり過ごしました。ときおり鳴る汽笛が、昔ながらの寝台列車の旅を盛り上げます。車内もとても静かです。昼間から酒を飲んでいたので、21時21分着の秋田まではなんとか起きていたけれど、秋田発車時点で寝ました。

 なんとなく、長岡での機関車交換をおぼろげに覚えていますが、夢うつつ状態でした。しかし、長岡を発車するとなぜか目が覚めて、それからはカーテンで閉ざされた寝台の中から、雪深くなっていく車窓を眺めていました。午前2時頃です。

 列車が止まりました。外は相当雪が降っています。雪で進めなくなったのかなとも思ったけれど、ここまでは普通のスピードで走っていたから、止まったのが不思議でした。私はなんとなく越後湯沢かなと思っていました。列車はまったく動かなくなりました。先頭から2両目に乗っていたので、機関車のブロアーが止まるのもわかりました。
 どこの駅かまったくわからなかったので、スマホの地図アプリを起動させて現在位置を確認したら、浦佐駅でした。
 浦佐に停車したのは、午前2時半頃です。
 これから、まったく眠れなくなりました。動いていない寝台列車はとても不自然でした。雪は降り続いています。どんどん周囲の積雪量が増えていきます。ホームには散水しているのだけど、止まったときよりもどんどんと雪が積もり続けます。

 深夜、ずーと止まったままの「あけぼの」。雪はいよいよ強く降り続けます。
 車内放送もありません。鉄道無線が聞ける無線機を持ってくればよかったと、後悔しました。
 午前6時になれば放送も入るだろうと、横になってぼーとしたり、外を見たりの繰り返しで、果たして午前6時を2~3分過ぎた頃、車内放送が入りました。
 要するに「動く見込みはない、それ以上もそれ以下も情報はない」という内容でした。
 朝食も取れないしと、昨夜のつまみの残りを食べて過ごしました。
 携帯でワンセグのテレビを観ていると、首都圏をはじめ、大雪でとんでもない状況になっていることもわかりました。鉄道はJRも私鉄もほぼ全滅です。実はこの日は大事な予定があったのだけど、これでは無理と悟りました。もう知らんと達観しました。

 午前8時を過ぎた頃、8号車のドアを開けるという放送が入りました。私はJRが朝食を配給してくれるかなと期待していましたが、駅の売店で勝手に買えということでした。
 浦佐駅は新幹線停車駅です。改札外に売店もありますが、「あけぼの」の乗客が群がり長蛇の列が出来ていました。車窓から外にセブンイレブンがあることはわかっていたので、外のセブンに行きました。そちらはまだあけぼのの客は来ていませんでした。
 どうせ動く見込みはないしと、開き直って、ビールや日本酒やらも買い込み、とても不通となった列車の乗客には見えない買い物をしてしまいました。もちろんおにぎりとかも買いましたよ。セブンのおいしいコーヒーもね。
 列車が止まったときの、食糧確保は絶対の鉄則です。

 その後もまったく動きません。買った酒を飲んで朝からご機嫌なんだけど、車内放送は一定間隔で、「動く見込みなし」と案内していました。駅の売店も落ち着いて、新聞を買ったり、追加の飲み物を買ったりして、午前が過ぎていきました。駅の売店も外のセブンも、まともな食べ物は「あけぼの」の客にほとんど買われてなくなってしまいました。そのうち外のセブンに配送車が着いたのを確認しました。

 車外に出て、ホームで写真を撮ったりして過ごしました。










機関車の前も雪に埋もれています。














 昼頃になり、昼飯を買いにセブンに行きました。結構なんでもあったので、オムライスを買いました。寝台車の中でコンビニ弁当を2食も食べることになるとは・・・。

 酒も飲んでのんびりしながら過ごし、午後になっていきました。深夜2時半頃の停車してからもう10時間かなんて思っていました。
 雪は降り続いています。

 そのうち、機関車がなぜか切り離されていて、新潟方へ去っていきました。




 なんだなんだと、最後尾に行くと、係員が連結の準備をしていました。




 機関車は新潟方に連結されました。前に進むのは無理だと明確となりました。










 車内で待っていると、予告もなく「列車は運転打ち切り」「東京まで別ルートで行くか、秋田方面に戻るか、宿泊して翌日の新幹線に乗るか、選択せよ」という内容で、とにかくバスに案内するので降りろというものでした。
 長岡方面の新幹線は動きだしたので、秋田方面戻り組は新幹線に乗って新潟から「いなほ」に案内されるということで、バスには東京行き組と宿泊組が乗り込みました。
 東京へは六日町から「ほくほく線」に乗り金沢へ。乗り継いで米原経由で新幹線で東京まで行くというものでした。JRからの案内は、「ほくほく線」も混んでいるしダイヤも乱れている。東京まで今日中に着けるか保証はしないという内容でした。それでも行くというチャレンジャーが2割くらいバスから降りていきました。

 さて、宿泊組は越後湯沢のホテルへと案内されました。スキーシーズンの土曜日、よく100人弱くらいの部屋を急遽準備できたものだと感心したけれど、東京方面からは高速も新幹線も止まっているからキャンセルもあったのでしょうか。
 案内されたホテルはスキー場に面した、一流リゾートホテルで豪華なところでした。しかも一泊二食までつけてくれました。
 普通に宿泊したらいったいいくらかかるのか。豪華なディナーバイキングに、朝食も贅沢なバイキングでした。
 ディナーでは自腹でワインのフルボトルも入れたりして十分楽しみました。一流のサービスと料理に幸せ気分です。
 JR東としてはたぶん、「びゅう」とかの旅行商品でこのホテルへもたくさん客を送り込んでいるはずだから、この「あけぼの」不通のための代替宿泊は格安で契約したのだろうけれど、自分では絶対泊まれない金額でしょう。
 もちろん翌日の新幹線は、「あけぼの」の寝台券を見せればOKということでした。
 あけぼのには終点まで乗れなかったし、まる1日分損したけれど、ここまでやってくれたらもう文句は言えません。原因が近年まれに見る豪雪で、ここまで降れば、私が普段言っているような除雪設備の不備や人的不足の範疇を超えた雪害ですから。案内スタッフも新潟支社の事務職や保線担当の作業服のベテランもいて、仕事は休みだったけれど動員されたと話していました。
 米原経由組は無事に当日中に東京に着けたのでしょうか。
 さらには、当日東京着をあきらめ越後湯沢に宿泊を選んだのだけど、実は温泉につかり豪華ディナーバイキングを食べたあとの夜8時半頃にフロントから、「東京行きの新幹線が1本動くので乗る気があれば案内する」とJRから連絡があったがどうするかと部屋へ電話があったのです。温泉に食事に酒と十分にくつろいでいて今更動く気はなかったので、丁重にお断りしました。だって、翌日の朝食も楽しみだったんですもの。乗ったとしたら、米原経由よりは先に東京に着くはずです。

 そう考えると、米原経由を選択していたらと、ぞっとしました。 
 かようなJRからの厚遇を受けたけれど、列車に乗る前と乗ってしまってからの扱いは天と地ほどの差があるのは規則上もあきらかです。一度乗せて動いてしまったら、元に戻るのもすべてタダだし、先へ行けなくなればとにかく代替手段を講じてくりたり、最悪、今回のように宿泊まで手配してもらえます。
 それが発車前の運休決定だと、きっぷは無手数料で払い戻すだけ。他の手段は自分で手配してね、ということなんです。
 今回の雪害で中央東線のあずさが立ち往生して、乗客が駅の会議室などで仮眠したと報道されていました。これも人数と寝台特急と一般の特急の違いで待遇に差が出たのだと思います。

 こういうことになるから、「トワイライトエクスプレス」、「北斗星」、「カシオペア」、そして「あけぼの」と、大雪や台風などの予報が出ると、たいしたことないのにすぐに運休を決め込むのだと、改めて思いました。途中で止まったときのことを思うと、JRの立場としては。

  翌日は酒代だけフロントに支払って宿をあとにして、越後湯沢から東京までノンストップの新幹線に乗りました。東京駅の混乱と、大宮までの各駅で通過線が除雪されていない関係で各駅停車(客扱いはなし)で行ったから、50分くらい遅れました。

 越後湯沢駅はさすが豪雪地帯だけあって、スプリンクラーの数と勢いが半端なく、線路にはまったく雪がなかったけれど、大清水トンネルを抜けて本来からっ風の吹いている関東平野は一面の大雪でした。当然、線路にスプリンクラーもなく、線路は雪に埋もれていました。
 この設備の違いが雪に強い天下の上越新幹線を運休にしたのでしょう。史上まれに見る大雪だから設備の違いを責めることは、絶対にできません。こんな場合は。




越後湯沢駅周辺の線路に雪はありません。
東海道新幹線のスプリンクラーと比べて、数とパワーがまったく違います。


高崎駅は・・・
これでは首都圏は大混乱も仕方ないかと。




 今回の関東地方の大雪、普段から雪が降らない地区にこれに対応する除雪設備等をふだんから整備しておくことは不可能でしょう。

 この日から19日まで、高崎線、上越線が不通のため「あけぼの」号は上下とも運休となりました。
 16日の寝台券が取れなくてよかった。
  

Posted by よっぱらいくま at 16:21Comments(4)TrackBack(0)乗車記 JR

2014年02月18日

急行 かいもん・日南

 昭和の時代までだったか、いつ廃止されたかよく覚えていませんが、九州島内にはふたつの夜行急行列車が走っていました。
 どちらも、門司港と西鹿児島を結んでいた、「かいもん号」と「日南号」です。「かいもん」は鹿児島本線経由、「日南」は日豊本線経由です。「日南」は末端の宮崎と西鹿児島間は普通列車で、北九州と宮崎を結ぶ役割でした。「日南」の上り、西鹿児島発は通勤列車でした。
 「かいもん」、「日南」ともに編成は12系客車の自由席と指定席、そして20系寝台車を連結していました。12系と20系客車は電源の仕組みが違うので、混結に際しては、20系が12系から電気を得るために改造したとか聞きました。

 「かいもん」、「日南」ともに盆暮れ正月以外は空いていました。夏休みでもピーク時以外はワンボックス2人程度でした。九州ワイド周遊券での旅では、宿代わりとして重宝しました。
 下りだとだいたい客は小倉から乗車するので、始発の門司港から必ず乗ったものです。門司港からガラガラの状態で発車していくのは、独特の雰囲気がありました。
 12系客車は座席も広くシートピッチも広かったので楽でした。下手にリクライニングするけどロックしなかった「簡易リクライニングシート」の14系よりも私には快適でした。座席を向い合せにして4人分占領できれば14系も楽だったけれど。

 宿代わりとしても12系に乗るには、発電用エンジンを積んでいるうるさいスハフよりもオハを選ぶのは常識でした。「オハ
」の「オ」は客車の重量を示す記号で、32.5トン以上37.5未満の意味で、「ス」は37.5トン以上42.5トン未満という意味です。ディーゼル発電機を積んだ車両は、当然重いのです。こんな若い頃覚えたくだらんウンチクは、なぜか忘れません。
 ちなみに客車の重量を表す記号は、「コホナオスマカ」の順に重くなります。軽量客車の10系客車を代表するナハ11やブルトレ元祖の20系客車のナハネ20とか軽量級の代表格です。現在は「ナ」クラスの客車はありません。「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」などの24系25型とかほとんどが「オ」クラスです。それで巨大なディーゼル発電機を積んでいる電源車は「カニ」とかの最重量級の「カ」です。ちなみに「ニ」は荷物車の意味です。夜行寝台特急全盛期には、荷物室も大活躍していました。荷物室のない電源車は「カヤ」とかでした。「ヤ」は業務用車両という意味です。「カヤ」は一時期、架線から電気を得て発電する電動発電機搭載の車両があったとと記憶します。ディーゼルエンジンとモーターを両方積んでいたので、荷物室を設置するスペースがなかったのです。架線の電気とディーゼルエンジンの両方に頼るのはあまり効率がよくなかったのか、「カヤ」は量産されず、消えていきました。

 話しが脱線ししましたが、九州の「かいもん」、「日南」は大好きな列車でした。かいもんはその後特急化電車化されて、
夜行特急「有明」として延命しましたが、いつの間にか消えました。
 九州新幹線が鹿児島中央まで走っていて、わずか2時間もかからずに博多から鹿児島中央まで行ける今では、夢のような列車と時代でした。宮崎方面は今でも時間がかかるので、「日南」みたいな列車があってもとは思いますが、無理でしょううね。  

Posted by よっぱらいくま at 11:46Comments(0)TrackBack(0)昔話と昔の写真 国鉄・JR

2014年02月12日

ドクターイエロー

17時55分、下りこだま乗車中、三河安城手前で、ドクターイエローとすれ違いました。  

Posted by よっぱらいくま at 18:02Comments(1)TrackBack(0)新幹線

2014年02月11日

三河田原駅 旧駅舎撤去後その3

 三河田原駅構内の整備が進んでいます。









臨時ホームのようだけど、旅客用としては狭すぎるし、留置線の電車に乗り降りする乗務員用には立派すぎるし、作業用なら鉄骨とかだろうし、半端なコンクリート構造物は何になるのでしょうか。  

Posted by よっぱらいくま at 16:10Comments(0)TrackBack(0)

2014年02月11日

雪害と鉄道

 鉄道は一般に雪には強い交通機関です。
 しかし、今回というか、毎度毎度、首都圏、特にJRは雪に弱いです。

 この前も、成田エクスプレスはじめ成田空港アクセス路線が全部ストップしてしまい、成田空港に客が足止めされたとか。
 大雪の予報が出ると、JR東など特に翌日の優等列車は運休、通勤路線も減便と、早々に決める傾向にあります。
 対して私鉄各線は、状況を見て判断するということで、前日段階では始発から平常どおり運転するとする傾向です。私鉄の方がやる気あります。

 JRは優等列車、特に寝台特急などは最初からやる気ゼロで、たいしたことないような台風予報とか、大雪情報で早々に運休を決め込みます。日本海縦貫線など雪に強いし、貨物列車はちゃんと走っていても、長距離特急は事なかれ主義で運休します。万が一、ダイヤが乱れたとき、長時間ストップしたときの乗客の扱いとか食事の手配、代替輸送手段の手配とか面倒くさくなるので、最初から運休するという態度が見え見えです。要するに面倒なのです。そういうことはやりたくないのです。
 旅客会社が分割しているのも弊害で、何社もまたがって走るトワイライトエクスプレスとか、もっとも早く運休を決め込みます。苦労して1号車1号室スイートの指定券を手に入れた人は、泣くに泣けないでしょうね。

 雪国に比べて首都圏の鉄道が設備的に雪に弱いのは仕方ないけれど、道路交通に比べたらはるかに有利なのだから、鉄道が運休して、バスやタクシーに並ぶ人の長い列のニュースを観ていると、なんか違うぞと言いたくなります。年に数度の雪のために、融雪ポイントなどの整備は無理というのもわかるけれど、人的パワーは平常時にギリギリで運営している数しかないから、災害時や大雪、台風のときにはまわっていかないというところが現実なんでしょう。ポイントを暖めるカンテラを置くための人員も、きっといないのでしょう。
 雪国は列車も施設も根本的に構造も違うけれど、首都圏の電車ももう少しがんばれよと言いたいです。

 JR全体に言える事は、暖冬化の影響もあるのだろうけれど在来線は、昭和の時代、国鉄時代に比べたら、除雪車両、除雪能力は間違いなく戦力ダウンしています。絶対動かすという国鉄時代の姿勢から、コストをかけてまで除雪施設は維持しない、大雪が降ったら運休、減便は仕方ないという考えに、間違いなくなっています。雪国でも・・・  

Posted by よっぱらいくま at 15:40Comments(0)TrackBack(0)事故・災害

2014年02月03日

大須演芸場とローカル線廃止

 今日の、大須演芸場の最後のニュースを観ていて、ローカル線廃止の騒ぎと共通するものを感じた。

 私も、ローカル線廃止の報を受けて、最後の日に立ち会ったことが、何度かある。
 しかし、決して、最後の日だけ訪れるということだけは、絶対にしなかった。
 一度は必ず、廃止前のいつもの姿を見に行った。
 廃止が決まる前に、一度は訪れたところに限って、最期の日に立ち会うことにしていた。
 一度も行ったことのないローカル線、一度も乗ったことのない最終列車に立ち会って大騒ぎに加わることは、絶対にしなかった。

 一度も訪れなかった者が、最後の日だけ大騒ぎするのはいかがなものか。

 私は、名鉄揖斐線の終点、本揖斐駅近くに何年か住んだ。
 東京の行き来に、名鉄揖斐線は不便だった。しかし、何度も、東京からの帰りに岐阜から接続する最終列車に乗ったものだ。
 客はいつも数人だった。

 そんないつもの風景も、廃線が決まると、鉄道マニア、写真マニアが集まり始める。

 地元の人や子供連れが、素人が、記念写真を撮りにも来たりするようにもなる。
 そこに、写真マニアも混じる。夜になるとマニアは、邪魔臭い三脚を広げて、長時間露光の車両写真を撮っている。
 そして、お母さんと子供がコンパクトカメラのストロボを発光させるものなら、「やめろ」とか、「フラッシュ炊くな」などの罵声を浴びせたりする。
 なんてわがまま、傍若無人なことだと思った。
 そんな独りよがりのこと言うなら、廃止が決まる前に、誰もいない時に写真を撮りに来いよと、言いたくなった。
 廃止が決まったら、もうそんな長時間露光の写真なんか無理だということを自覚しろよと言いたかった。
 廃止決定前、いつもの、地元の人だけが利用している時から来いよと。
 それなら好き放題のアングルで、誰にも邪魔されずに写真を撮れたぜと言いたかった。

 今日のニュースを観ていて、本当の大須演芸場の常連は、どう思うのだろうか。

  

Posted by よっぱらいくま at 21:16Comments(0)TrackBack(0)日記