2018年09月15日

吾妻線と八ッ場ダム

群馬県に建設中の八ッ場ダム。
ダムの建設に伴って吾妻線の一部区間がダム敷にかかり水没するため、前後区間が大幅に付け替えられました。
機会があって建設中のダム見学会に参加して、吾妻線の廃線区間を堪能しました。


ここから先は線路跡は撤去されています。


本体間際に制限標識が残ります。




架線が弛んで残っています。






列車がすぐにでも走れそう。






日本一短いことで有名だった全長7.2メートルの樽沢トンネルは移動のバスの中から見えました。
ちゃんと案内してくれます。






本体上流の線路敷を生かして、ダム本体の材料を運ぶコンベアーが設置されています。


ダム下流の吾妻線の付け替え区間が始まったところの新線橋梁。
こんな所に新幹線が通っていたかしらと、勘違いしたくらい立派です。

八ッ場ダムの本体見学コースは、ダム直下に行くために吾妻線の廃線敷を必ず歩いて通ることになります。
工事区域なので、見学以外でこの廃線敷へ立ち入りすることはできません。  

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2018年07月07日

保津峡駅 旧線廃線後

新線付替により、山陰本線旧線の保津峡駅が廃止されて約1年経った、平成2年の写真です。

新線に切り替わったのが平成元年で、平成3年からは嵯峨野観光鉄道のトロッコ保津峡駅として復活したので、この姿は2年弱の短期間のものでした。



























  

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2017年06月03日

旧草津川と東海道本線

滋賀県の草津駅近くにある、天井川であった旧草津川と東海道本線が交差する地点に行きました。

草津川は明治期に東海道本線が建設される以前から、全国的に有名な天井川でした。
そのため、東海道本線を建設する際に、川の下にトンネルを掘ったのでした。



左から、上り米原方面2本、下り京都方面2本、そして右の2本は明治期の最初に開通させた2本で、現在は施設工事訓練用の線路となっていて架線その他の模擬構造物がたくさんあります。一番右側は拡幅改修されていますが、右側から2本目は明治期の建設当時のままの姿を留めています。

草津川は現在は廃川となっていて、水は流れていません。この4月から旧草津川のこのあたりは、草津川跡地公園として整備され憩いの空間となっています。






草津川上部から撮ったものです。
現在線は付け替えられたことからカーブしていて、旧線側が直線であることがよくわかります。






旧線の煉瓦積の坑口、味があります。




この場所に、慰霊碑があります。





台座の文字を読むと、「為鐡路轢死者各霊位」とあります。
建立は昭和11年8月と刻まれています。
ここで大事故があったのでしょうか。合掌。




草津は東海道と中山道が分岐する街です。
ここが分岐点にある道標です。



帰りは駅前の店で飲みました。
昭和の雰囲気の店内、酒も食べ物もおいしい店でした。
外観の雰囲気、提灯の「一寸一杯」の文字が好きです。
もちろん、一杯では100%済みません。
地元の太田酒造の冷酒がたくさん揃っていて、お手頃価格でおいしかったです。



草津駅には、DD51がいました。

  

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2017年05月02日

東海道本線 米原~彦根間の旧線

米原-京都間の東海道本線の通称「琵琶湖線」というJR西日本の呼び方にも違和感がなくなってきました。でも、米原駅での新幹線からや大垣方面からの在来線からの乗り換え時のアナウンスは必ず「東海道線、京都方面はお乗り換えです」と、JR東海は今でも頑なに正式名称を貫き、JR西の呼び方は使いません。何を意地はっているのかい、という感じです。結局、JR各社間の仲が今でも、基本的に悪い査証でしょうかね。乗客にとっての利便性、分かりやすさ、連携は二の次なんでしょうかね。
まあ、私も宇都宮線とか宝塚線とか嵯峨野線とかは今でも違和感がありますが。

以前、米原-彦根間に現存する旧線のトンネルのことを書きました。このトンネルは明治22年、東海道本線最後の開通区間にありますが、ここは元々は切り通しの開削部でした。開通後、度々土砂崩れに見舞われて不通になったことから、切り通しを埋めてトンネルにしたそうです。この山を通る龍神様が線路で分断されたことの怒りから災害が起こると言われたそうです。
その後、昭和31年の電化の際に現在線に付け替えられて、廃線となりました。

明治時代に建設された重厚な煉瓦積みの坑口が今でも確認できます。ネットには現地踏査をされた詳しいレポートもあります。皆さんここにたどりつくのには、相当苦労されているようです。
私はここを通る度に車窓から写真を撮ってみましたが結局、最初に撮ったものが一番良く撮れました。




これは駄作です。今年は厳冬期も草木が邪魔でした。



一方、彦根寄りには、たぶん旧線の架道橋と思われる小さな構造物があります。







すべて乗車する度に車窓から撮ったものです。これもたぶん旧線の構造物だと思います。
現地踏査に挑戦はしていませんが、写真で見る限り周辺は立ち入り禁止みたいです。

  

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2016年07月18日

柳ヶ瀬線 北陸本線旧線

北陸本線の木ノ本と敦賀(疋田)間は、現在の深坂トンネル経由の新線が開通前まで、柳ヶ瀬トンネル経由で走っていました。
ちょっと古い写真ですが柳ヶ瀬トンネルの現在の姿です。

木ノ本側の坑口です。新たにコンクリートが巻かれて、元の古い坑口は見えません。


上から見ると。



敦賀側はこうです。



単線トンネルの幅しかないので乗用車のみの片側一方通行で、両側でこのように信号待ちします。
敦賀側。


木ノ本側。



トンネル内です。後続車がいなかったので停車できました。
柳ヶ瀬トンネルは明治15年開通、東海道本線全通よりもはるか昔に開通した、日本の鉄道路線の中でも最古参トンネルです。



柳ヶ瀬トンネルのことを今回書いた訳は、リニューアルオープンした琵琶湖博物館でこんな新聞記事を見つけたからです。


昭和39年5月10付けの滋賀中日新聞です。
柳ヶ瀬線廃止を伝える一面の記事です。
昭和32年10月に深坂トンネル経由の新線が開通し、旧線は柳ヶ瀬線として運行を続けたものの需要は少なく、昭和39年5月10日をもって運行を終え廃止となったのです。



琵琶湖博物館の再生した古民家の中のちゃぶ台の上に、昭和中期の雰囲気を醸し出すために蝿帳といっしょに置いてある新聞がこれなのです。
学芸員さんが、たまたま保存してあった新聞を置いたのか、柳ヶ瀬線廃止の記事だから意図的に置いたのか、なぞです。
写真はキハ52らしいです。
  

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2016年05月07日

米原駅周辺散歩 旧線トンネル探索

私の大好きな米原駅。

まだ寒い2月のとある日、周辺を散歩しました。


新幹線に沿って設置されているスプリンクラーへ水を送るポンプ室です。


道路をまたぐ、太い送水管。


このポンプ室の名称です。


スプリンクラー本体。こうやってまじまじと間近で見ること機会もあまりありません。


ヤンマー研究所に設置されている温度計。
新幹線通勤のときはこれで必ず、行き帰りに気温をチェックしていました。


新幹線と東海道本線との交差地点。




真横をEF210が通過。迫力です。いい音だあ。






偶然、ドクターイエローが通過。


京浜東北線のパンタグラフが吹き飛んだ事故で話題となった、セクションの表示。
これは、4両編成ならここを先頭が通過したら、最後尾、要するに全編成がセクションを通過したということ。


同じく、6両、8両、10両と続く。


一番左が、最長編成がクリアした表示。もちろん電車の話しですよ。
貨物とか機関車牽引車は機関車が通過すればOK。


新幹線からいつも見ていた看板。


米原駅の駅弁屋さんの井筒屋。


国鉄時代からある、JRの建物。


滋賀県名物、「とびだし坊や」。いろいろなバージョンがありますが、これが基本形の坊や。


これは車窓から撮ったもの。
廃止された旧線のトンネルを撮ることができました。
未だに放置され、現存しているのです。
あやうく架線柱に被るところでした。


トリミングしてアップにしてみました。

実はこの、米原-彦根間にある現在線への付け替え前の、旧線トンネル坑口に行ってみようと思い立ち、米原駅から歩いたのです。
以前、車窓からちらっと見えたことがあったので。
結局、米原方からは徒歩では行けませんでした。一番、草や葉っぱが少ない時期を選んだのですが。
目の前の山の周囲は道はまったくなく、山へ入ったら草やら木やら倒木がたくさんで、人が歩いた跡のような道筋もなく、手入れされていない山でした。
山越えしてたどり着くにはたぶん1日がかりとなるでしょう。そこまでの準備も心構えもありません。
線路脇を歩けば楽に行けそうだけど、線路のすぐ脇に余裕はなく、あきらかに線路ぎりぎりのJR敷地内を歩くことになるでしょう。
10分間隔くらいで223系とかが120キロで疾走する脇は、はっきり言って危ないし、昨今、写真マニアが線路に立ち入ったとか、よくニュースになるので、新聞に載りたくはないので線路脇を歩くのはやめました。
昔は、幹線でも、線路脇ギリギリを歩いたり横断したりして、撮影場所を探したものです。列車が来たときに気をつけておけば、何も言われなかったものですが・・・。

このトンネル、草木が生い茂る時期は、車窓から確認するのは難しいと思います。






  

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2015年04月05日

渥美線跡巡りバスツアー

田原市博物館主催の、渥美線跡を巡るバスツアーという、なんともマニアックな催しに参加しました。
当日は、老若男女、20数名が集まりました。いかにも鉄道マニアという方よりも、一般の方が多い感じです。年齢層は平均して高かったです。もっとも人間、年取るとマニア臭を消して一般人になりすます傾向があるので、わかりません。参加者の中で地元のおばちゃんもいますが、マニアではなく、皆さん鉄道よりも歴史に興味があるのかなという雰囲気です。







バスに乗り込み、最初に向かった場所は加治駅跡付近。こんなバスに乗って巡ります。



この区間は戦前まで営業していた、三河田原と黒河原駅の間。残っているコン柱には渥美電鉄の社標の表示。この区間は「工杭」ではありません。








バスは黒河原駅跡地付近の大久保南交差点を右折してバイパスから旧道へ入ります。
黒河原駅は何も痕跡はないけれど、資料には詳細があります。





今の大久保南交差点、鉄道が延伸する方向は立体交差となっています。戦前のこの時代、こんな田舎で交通は人や馬車くらいだろうから、なんで立体交差にしたのか理解できません。踏切で十分だと思うけれど、戦後しばらく放置されていただろう路盤跡と駅跡がわかる昭和46年撮影の航空写真でも、立体交差が残っています。これは本当に初めて見たし、知りました。


次は野田町集落に入った地点に残る彦田橋跡。これは前回約2年前、私が一人で歩いたときには発見できなかったものです。
野田町内は圃場整備で痕跡は消失していると思っていたけれど、水路部分だけ圃場整備の地区外だったようです。





水路内には工杭がころがっています。


次は野田保育園周辺。ここが三河野田駅予定地。



敷地周辺に工杭がいくつかありました。


保育園を道を挟んだ隣の田んぼ。

保育園敷地の裏にも工杭が放置されています。



次はバスを野田市民館に止めて、野田小学校と野田中学校の中間にある小道を歩きます。この小道が路盤跡で、工杭が多数残っています。前回一人で歩いたときは工事中で通り抜けられなかったところです。




引照点の杭


こんなところです。



次は馬草と宇津江間。コンクリート擁壁とか工杭が残っています。




この写真は三河田原方向。この先に路盤が延びていたのでしょう。


足下には工杭が転がっています。


反対の宇津江方向に移動すると、工杭がいくつかあります。



次は泉市民館前をでバスを降りて徒歩移動。
宇津江から三河泉間の路盤は、以前書いたブログに書いています。今回の案内では触れられませんでした。


泉市民間は、三河泉駅跡地にあります。江比間駅という名称だと思っていたけれど、予定は「三河泉」でした。用地図でもそうあります。(博物館の展示で確認した)

ここから紺屋川へ進む道が路盤跡。工杭もあります。



紺屋川には橋台が残っています。


ここを渡っていました。



伊川津駅跡地です。前回はそうとは認識しませんでした。


前回は荒れ地だったけれど、現在なんらかの整地工事中です。もしかしたら痕跡がなくなる可能性も。


この先で大川を渡ります。そこに道路橋があります。前回は気がつかなかったけれど、説明を受けて道路橋の橋台をよく見ると古い構造物の上に新しい道路用の橋台を作っているのがわかります。ここも鉄道橋跡です。







川の中には工杭が転がっています。



次は石神交差点前後に残る築堤の路盤跡です。現在でも痕跡として残る鉄道用築堤です。

架道橋も2ヶ所残っています。


築堤の上。



築堤の横のうっそうとした林の中にも川を渡る橋跡と人道橋が残っています。この人道橋は、路盤を作ったために分断された道の付替道路としての機能があったのでしょう。今は林の中に埋もれていまっていますが。








さて、次は路盤まで完成して放置された三河福江駅予定地から先です。
ここからは路盤は建設されず、用地買収までやってストップした区間で、土木構造物はありませんが、工杭は散見しています。

三河福江駅予定地の消防署には何も痕跡はありませんが、そのすぐ先には工杭がありました。






次はバスは保美貝塚遺跡に向かいます。
ここは工杭の宝庫です。こんなにあるなんて、まったく知りませんでした。









貝塚の敷地に、墓標のように工杭が立ち並んでいる風景は、異様です。
もし鉄道が出来ていたら、この貝塚は消滅していたのでしょうか。
資料では、昭和16年の太平洋戦争直前の発掘調査時の図面に「鉄道用地」という線が描かれています。戦争が始まりうやむやのうちに建設が中断される前のことです。
その図面です。



そして最後、終点の地、伊良湖岬駅予定地。



この畑の方向が駅予定地。用地図では、終着駅なので駅構内の折り返しや留置線用地も配慮された、広めの幅の用地が確保される予定だったようです。

上の写真を撮った農業用ハウスが建つ足下にも、工杭が埋もれています。


伊良湖岬駅構内の終端部です。狭い道路のガードレールの下に工杭と引照点がありました。





こんな狭い道に、普段は歩行者などいない道にわんさかとよそ者が集まり、なにやらみんなで写真を撮っている光景は、地元の人にとっては異様なものだったでしょう。



終点は「堀切駅」という名称だと思っていたけれど、「伊良湖岬」だったんですね。まったく知りませんでした。

博物館の企画展示では、鉄道省作成の黒川原から伊良湖までの全線の用地図も展示されていました。


こんなものが現存していたなんて、なんて貴重なものなんでしょうか。豊橋鉄道が保管していたそうです。これがあれば、古地図や古い航空写真などと比較しなくても、路線を推定することは容易なことです。でも、それに頼らずにいろいろと想像しながら痕跡をつないでいく作業も楽しいものでした。

今回のバスツアーは、田原市博物館で開催された、「渥美線 渥美半島と外界をつなぐ鉄路の物語」という企画展の関連行事で企画されたものでした。

観光地でも名所旧跡でもないところにバスが止まり、正体不明な見学者がぞろぞろと歩き、コン杭や朽ち果てたコンクリート構造物を探して見ている姿は異様な風景だったことでしょう。

黒川原駅のことや、野田集落内の橋、保美貝塚、終点の伊良湖岬駅予定地など、知らないことも多く、前回自分一人で歩いたときには発見できなかったものを多数見ることができました。

バスツアーを企画してくれた田原市博物館と案内してくれた学芸員さんに感謝、感謝です。
ちなみにこのツアー、博物館の企画展が始まる前に気軽に申し込んで参加できましたが、定員に達したあとも申し込みが続出して、定員の4倍くらいの人がキャンセル待ちだったらしいです。
こんな変な企画に参加者が現れるのか危惧していたけれど、こんなに人気となるなんて思っていなかったと学芸員さんは言っていました。

前回、平成24年11月に歩いたときの記録はこちら
渥美半島の鉄道計画 渥美線探訪記

  

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2013年08月14日

名古屋駅周辺の鉄道の変遷

 近所の図書館で国土地理院の名古屋の古地図を見つけました。
 鉄道路線の変遷がよくわかり、とても興味深く、コピーしました。
 測量、発行年月をメモし忘れましたが、だいたいわかります。

 まず一番古い地図です。


 
 まだ中央本線はなく、東海道本線と関西本線だけが記載されている。名古屋駅は現在よりも南側の笹島付近にあり、関西本線が分岐した地点に「あいち」という名の駅がある。現在のあおなみ線笹島ライブ駅付近だ。名古屋駅の北側から市中心部への引込線の記載もある。
 東海道本線が栄を中心とする市街地を避けて、市街地の周辺に沿って建設されたことがよくわかる。市街地を避けて鉄道を建設した典型である。こういう路線選定手法が、のちの誤った鉄道忌避伝説につながっている。



次に古い地図



 中央本線が現れている。千種駅しかない。
 中央本線も名古屋市街地を避けて、外周部の何もないところへ建設したことがよくわかる。



次の地図



 関西本線のあいち駅は消えている。
 名古屋港への貨物線、白鳥方面(貯木場)や現中央卸売市場への引込線貨物線も現れている。
 東海道本線の熱田方から中央本線へ直通できる短絡線も現れている。
 名古屋駅前から市電も拡がっている。



次は



 全体的に市街化が進んでいる。笹島貨物駅も現れている。



次は



 この地図から名古屋駅が北側に移転しているため消えていて、さらに線路が西側に路線が付け替えられていることにも注目。昔の東海道本線は現在の名古屋駅よりも東側、ちょうど現在の桜通口の駅前広場を通っていたのだ。
 関西本線に「こめの」駅の表示が現れている。



次は



 名鉄の駅表示が現れている。旧国鉄名古屋駅付近「しんなごや」、そして「さんのう」と「かなやまばし」の表示もある。
 この地図から、東海道本線と中央本線への短絡線が消えている。この短絡線跡は現在では痕跡はないが、熱田方の現在の熱田イオンの北側あたりから北東へ斜めにある小道が、なんとなく昔の短絡線のなごりをとどめているようにも見える。
 中央本線に「つるまい」駅も現れている。


次は

 

 市街地に市電の路線が縦横に敷かれている。
 中央本線金山駅はまだない。



次は



 昭和の末期。
 中央本線に金山駅の表示がやっと出てきた。ちなみに国鉄中央線金山駅は1962年開業。

 このあと、平成になってから、東海道本線に金山駅ができて、名鉄金山橋駅が移転、統合して金山総合駅と現在の姿となった。
 白鳥や中央市場への貨物線の廃止も昭和の末期で、平成元年にデザイン博の会場となった現在の国際会議場、白鳥センチュリーホールの一帯は、国鉄貨物駅と貯木場だった土地だ。白鳥への貨物線跡は現在でもその線路跡がそのまま道路となっていて、地図上ではっきりわかる。
  

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2013年06月22日

渥美半島の鉄道計画 渥美線探訪記

 渥美半島には戦前、伊良湖の方までの鉄道計画があり、今でも鉄道路盤が現存しているところもあります。
 そんな遺構を探して歩きました。
 以下、探訪レポートです。 

 なお、資料を整理中で、随時加筆修正していきます。

 平成27年1月に再訪した記録はこちら
 渥美線跡巡りバスツアー

 また、各種既存情報と私の推測で路盤跡を判断していますので、路盤跡の位置等ここで書く内容がすべて正しいかどうかは、保証しません。これを読んだ方がご判断ください。



 新豊橋駅から三河田原駅を結ぶ18.1キロの私鉄が豊橋鉄道である。
 この渥美線は、渥美電気鉄道(株)として発足し、その後名鉄に吸収合併、そして現在の豊橋鉄道に譲渡され、新豊橋と三河田原間の豊橋鉄道渥美線として現在に至っている。
 しかし戦前には、三河田原から先、黒川原駅まで電車が走り、さらに福江、そして伊良湖岬にほど近い堀切まで、鉄道建設計画があった。
参考文献によると、廃止区間、計画区間と駅予定地は地図のとおりである。
参考文献やインターネット情報などを頼りに、平成24年、晩秋の一日、三河田原駅から、鉄道施設の路盤までが完成していた福江駅予定地までを歩いてみた。


全体路線図



1)三河田原-黒川原(廃止区間)
戦前には三河田原から約2.8キロ先の黒川原駅まで線路は延びていて、営業運転されていた。しかし、三河田原駅から黒川原駅の間は、戦時中の不要不急路線ということで、鉄資材の供出のためにレールを撤去されると同時に休止線となった。昭和19年6月のことだった。
 田原駅から先、車止めの先の道(写真1)はかつての線路跡だ。





カーブの形状(写真2)がいかにも線路跡という感じで、この雰囲気はわかる人にはわかる。






 田原から黒川原までは、地図を見ても線路跡が道路になっていることがはっきりとわかる(写真3)。





 三河田原と黒川原の途中には、加治駅があった。加治駅跡はこのあたりらしい(写真4)。




この道路も廃線跡(写真5)。




 線路跡の小道が国道259号バイパスに吸収されたところ(写真6)。





もともと田原バイパスのこの付近からは、廃止された路盤跡も一部利用して建設された(写真7)。





路盤跡はちょうど歩道部分と重なるところと推測する。右側の草の生えていない道のような土地は、開水路だった豊川用水支線水路の改築後に暗渠となった土地である。
旧田原街道と田原バイパスが接続する大久保南交差点付近に黒川原駅があった。現在、セブンイレブンがある手前辺りだ(写真8)。





 ここまで区間は戦争の激化と当時の鉄の供出のため、不急不要区間とされてレールをはがされてしまい昭和19年6月、休止となった。戦後も復活することなく、昭和29年に渥美線が名鉄から豊橋鉄道に譲渡されると同時に、この区間は正式に廃止となった。約70年前、昭和の初め戦前の一時、ここまで電車が走っていたと想像するのは大変難しい、現在の風景である。田原市民でも鉄道がここまで存在していたことを知っている人は、どのくらいいるのだろうか。



 2)黒川原-福江(建設区間 未成線)
戦前には、営業中渥美電鉄の国有化計画と併せて、黒川原駅から先、渥美半島を西進して福江、そして堀切に至る鉄道建設計画があった。
 この区間約15キロは、国(鉄道省)の直轄で昭和12年からに建設が進められ、福江までの路盤はほぼ完成した。渥美半島には明治時代から陸軍技術研究所伊良湖試験場(試砲場)などがあったため、軍事上の必要性が大きかったのだ。
 しかし、戦争の激化で物資、労働力は不足、建設は中断され(戦時中のため計画中止された正式手続等の資料はない模様)、戦後も工事再開を望む声は地元からあったらしいが、国鉄、日本鉄道建設公団などの新線建設計画に取り込まれることなく、戦前に建設された鉄道の構造物はそのまま朽ち果てていった。
 現在までに鉄道用地のほとんどが、自治体や民間に払い下げられてきた。併せて、鉄道用地は土地改良事業や道路拡幅用地となっているところがほとんどで、痕跡が残っているところは僅かであるが、建設から約80年を過ぎた現在でも予想以上に痕跡は残っていた。地形が大きく改変している箇所では、どのように路盤があったのか想像することも楽しい作業である。国土地理院のホームページにある過去の航空写真も大変参考となった。1970年代の航空写真では、かなりの部分で路盤跡が明確に写っているのである。
 福江まで歩いた結果、文献やネット上にはない痕跡もいくつか発見できた。「工」マークの入った境界杭も多数発見できた。「工」マークの境界杭とは、旧鉄道省、国鉄、JRと引き継がれている旧国鉄用地の境界杭である。「工」の源は、明治時代の工部省の「工」と、レールの断面形状に由来する。以下、本文では「工杭」と記載する。


 ・黒川原-大久保-野田集落手前
 鉄道用地は田原バイパス(国道259号)用地に完璧に取り込まれて、路盤跡は消滅。バイパス建設前には、大久保駅予定地付近にはコンクリート橋や工杭が多数あったらしいが、駅跡もバイパス工事で完全に消滅している。
 野田集落手前からは国道から少しずつ離れ始め、現在の農地の中を通っていた。現在では土地改良が行われて痕跡は皆無だが、1970年代の航空写真では路盤跡ははっきりと残っていた。



1970年代

この写真では野田集落を避けた集落外周部に路盤跡があることがはっきりわかる。


現在

1970年代と比較して、路盤跡は土地改良等で消滅している。




・野田集落付近
国道から大きく離れ、街道沿いの集落を回避させるように路線選定がされたようだ。住宅地を避けて鉄道を建設する基本形である。中心街を避ける路線選定手法が明治時代の鉄道忌避伝説の基だが、建設する立場からは用地買収の問題を避ける意味でも、路線選定は集落中心をはじめから避けるものだ。名古屋駅の位置や東海道線や中央線の路線選定も、当時、名古屋の中心街を避けて建設されたことは、明治時代の古地図を見ると明白だ。
現在の野田小学校の敷地、校庭の隅が路盤跡にかかっている。学校敷地の隣の小道(写真9)が路盤跡。




また、その先の林の中に路盤跡がある(写真10、11)。


10


11



・野田-馬草-宇津江
 野田集落から先は、少しずつ現国道259号に寄り添い、国道脇に平行して路盤はあったが痕跡はない(写真12)。


12

左の平地や喫茶店敷地も路盤跡の一部だ(写真13)。


13

 馬草口バス停から少し入ったところに、路盤跡の小道を発見(写真14、15)。


14


15


 農作業の合間におしゃべりをしていたおばあさんがいて、地図片手の私に対して向こうから「何を調べてる?」って聞いてきたので、「鉄道跡を調べているが知っていますか」と尋ねたらふたつ返事に「よく覚えている。ここを通っていた。あんた、鉄道を敷いてくれるのか!」って、私が役所の担当者かのごとく言ってきた。おばあさんから聞いた話では、現道は曲がっているが、黒い建物から一直線に線路があって(写真16)、


16

振り返って、畑の真ん中を通っていたとのこと(写真17)。


17

路盤跡は払い下げで購入して畑にしたととのこと。おばあさんは建設当時からのことをよく覚えており、汽車があったらもっと発展していたかもしれない、鉄道は伊良湖の軍の砲射場のために建設したとか、バスは高くて不便だ、朝は高校生で満員だが他の時間は誰も乗っていない。たまに乗ると帰りは田原駅から一人っきりの時もあり恐縮するとか、いろいろ話してくれた。おばあさんは85歳とのことである(写真18)。


18

 国道から少し離れた位置に路盤跡は続き、海に近くなるあたりで、路盤跡の道路が現存している(写真19)。


19

 こんな小道に不似合いなコンクリート製の用壁があり、鉄道敷地だった当時を物語っている。ここから田原寄り
に道は続く(写真20)。


20

福江寄りはこのまままっすぐに国道に吸収されていく(写真21)。


21

ここからは国道拡幅用地として路盤はすべて吸収されて、宇津江の先付近まで続くので痕跡は皆無だった。



・宇津江-江比間駅跡
 宇津江駅跡から江比間駅跡の中間地点(写真22)からは国道を離れ、江比間の集落の外周へ路盤跡は続く。


22


江比間駅予定地前後も、集落中心を避けて集落外周に路線を選定したようである。国道から分岐する前後の箇所から江比間駅へ向かうこの辺りは、国道拡幅と河川改修で完膚なきまで地形は改変されていて、路盤跡の位置を推測するのも困難だが、1970年代の航空写真と照らし合わせると、路盤の位置はだいたい特定できた。また、22の写真の山肌にガードレールがあるけれどこれが路盤跡であった。前後は地形が改変されているので繋がらないが、ここだけは路盤跡が道路として残っていた(写真23)。


23

この後ろ、田原寄りに振り返るとこうである(写真24)。


24

真ん中の道は路盤跡とは関係なく路盤跡の右からの道は空中へ突き抜けていく。国道拡幅で相当山を切り崩したと推測される。路盤跡(写真25)を福江寄りへ進むとすぐに急坂になり川べりへ下っていくが、急坂から先は路盤とは関係ない道である。


25

反対から見たのがこれで(写真26)、このあたりは河川改修のため、相当山を切り崩して川幅を確保したようだ。


26

この河川改修により地形は完全に改変されていて、この先痕跡は皆無である。川からやや高い所に小さく見える路盤跡からちょうど川の上、この写真の位置の頭上あたりに路盤はあったと推測される(写真27)。


27


1970年代の航空写真では、路盤跡らしきスジが見られる。


1970年代


現在は河川改修と道路拡幅で地形はまったく変化していることがわかる。


現在


 この川の上を通っていたと推測される路盤跡が、ここ(写真28)から痕跡が現れる。


28

さきほどの山肌の小道から川の中を一直線に結んだこの地点(写真29)に、工杭を発見した。


29

推測どおり、今は川となったところを緩やかに坂を下って、この地点まで続いていたのだ。望遠にしてこの写真(写真30)を撮った位置から山肌の路盤跡へ一直線に結ばれていたことがわかる。


30

ここから福江寄りのこの道(写真31)が路盤跡である。


31

さらに進むと、泉市民館前に出る。このあたり(写真32)が江比間駅予定地で道路が広くなっている。この泉市民館も駅建設予定用地が自治体へ払い下げられた後、そこを活用したのかもしれない。


32





・江比間-伊川津
さらに先へ進むこの道路(写真33)も路盤跡である。


33

脇にはしっかりと工杭が2本、残っていた(写真34、35、36)。


34


35


36

この先、カーブミラーのところで、川に突き当たる(写真37)。


37

「川のところには廃線跡の痕跡となる橋台が残っている可能性が高い」の法則通り、ここに渥美線の最大級の痕跡である橋台が対岸に見える(写真38、39)。


38


39

反対側にもこのとおり(写真40)。


40

このように両岸を結んでいた(写真41)。


41

 川を渡った先からは路盤跡は民地に取り込まれて痕跡はなくなる。さらに先、川を渡る地点(写真42)も路盤跡である。


42

ここで川を渡っていたと思う。この川は河川改修済みで、橋台は撤去されたのだろう。川を渡った先のこの小道から、再び路盤跡だ(写真43)。


43

小道の先は広い道路に路盤跡は寄り添っていく(写真44)。


44

この先、歩道と平行に空き地があるが(写真45、46)、


45


46

1970年代の航空写真から推測すると、歩道部分と空き地部分が路盤跡と思われる。写真45の右側は泉中学校で、この先の川を渡る地点、道路右側に小さな橋があるけれど、これは路盤跡とは関係ない。なんとなく鉄道橋の跡らしくも見えるが、耐荷重がどう見ても鉄道車両に耐えるとも思えない構造だし、位置的にも航空写真で比較、確認すると現道拡幅整備前の旧道の道路橋とわかる。


1970年代



現在



 先へ進むと、道路左側に海蔵寺の山門がある。ここでも工杭を発見した。山門入り口の両側に工杭がある(写真47、48、49、50、51、52)。


47


48


49


50


51


52

道路から田原寄りを見て右手がお寺である(写真53)。


53

この辺りが伊川津駅予定地だったかもしれない。
鉄道が出来ていれば、この山門の前に踏切ができていたのだろう。もしかしたら駅直結のお寺になっていたかもしれない。お寺前の道路は1970年代の航空写真では存在しておらず、現在の道路は路盤跡を整備、拡幅したもの思う。




・伊川津-石神交差点
 写真53の道路を福江方向に行くと、広い道路はここで終わる。道路が突き当たったこの地点でも工杭を発見(写真54)、


54

この道路(写真55)が路盤跡のようで、道路右側の生け垣の下にも工杭(写真56)がある。


55


56

この先福江方向の路盤は民地となり(写真57)、ここにも杭がある(写真58、59)。


57


58


59

この先は民地内で歩行不能(写真60)。


60

 さらに先に行くと、路盤跡の盛土が現れた(写真61)。


61

路盤跡の盛土と断定できるのは、この盛土(写真62)の先に工杭がたくさんあるからである(写真63、64、65、66)。


62


63


64


65


66

航空写真でも路盤の盛土が見える。


1970年代



現在でも一部盛土区間が残っているのがわかる。


道路に突き当たる地点には路盤幅とぴったりの2本の工杭が現存していて、当時の用地幅もはっきりとわかる(写真67、68、69、70)。


67


68


69


70

 道路から先は路盤跡は畑の中となり、川(写真71)を渡って(痕跡なし)、路盤跡は畑の中を進む(写真72)。


71


72

先に見えるのが石神付近の路盤盛土だ。畑を抜けると右側の国道沿いにサンクスがあるが、このサンクスの裏にも工杭が何本も残っている。左の盛土が路盤跡(写真73)。工杭が何本もある(写真74)。路盤用地幅もわかる(写真75)。


73


74


75

左がサンクスで、この場所は車をサンクスに止めることができるので、見に行きやすいと思う(写真76、77)。


76


77

 ここからすぐ先が、石神地区で、渥美線最大の遺構である盛土区間となる(写真78)。ここからサンクス側をみたところ(写真79)。写真75の工杭のところへ一直線で路盤はあった。


78


79

・石神付近盛土区間
  国道259号石神交差点、飲食店「むらかみ」があるところの前後区間は、鉄道の築堤(盛土区間)が当時のまま残っている、渥美線未成線区間のハイライトと言っても良いところだ。約80年前から使われていない土木構造物がしっかりと残っているのは奇跡と思う。今後も保存していくように行政は動かないだろうか。戦前の貴重な歴史的構造物だと思うが。
 盛土区間である(写真80、81、82)。


80


81


82

盛土区間を横から見たところ(写真83、84、85)。


83


84


85

石神交差点には両側に盛土が残る(写真86,87、88)。


86


87


88

以前はここにも架道橋があったらしいが、とっくの昔に撤去されたようだ。盛土区間は福江方向に国道と平行していく(写真89、90)。


89


90

この盛土区間には2箇所、架道橋が現存している(写真91、92)。


91


92

この先に盛土部分に登れるところがあった(写真93、94)。


93


94

付近には工杭もある(写真95)。その先盛土区間は続き(写真96)、ここで終わる(写真97)。ここから先は土地改良された畑の中を通り、路盤跡の痕跡は一切残っていない。


95


96


97



・高木-福江
 国道259号を石神交差点から福江方向に行くと、旧道からバイパス区間へのクランクとなっている高木東交差点までは唯一この区間だけ国道に歩道がなく、路肩も大変狭く国道を歩くのは大変危険でもあり、また車にも迷惑なので、少し迂回するが畑の中の道へ入って遠回りして、高木東交差点付近(写真98、99)へたどり着いた。


98


99

ここから、路盤跡はこのバイパス国道の福江方向右側を通っていて、一部、路盤跡が道路敷地となっている。路盤の痕跡はないけれど、所々に工杭が残っている(写真100、101、102)。


100


101


102

国道から数メートル入った民地に工杭があるのだけど、何で国道バイパス用地として路盤用地をすべて取り込まなかったのか不思議である。路盤用地は民間に払い下げ済みだったのか。路盤用地が全部自治体に払い下げられていれば、路盤用地はすべて道路用地に取り込まれて、工杭の痕跡もなくなっていたと思う。

・福江駅予定地
 建設着工区間の終点は、現在、田原消防署渥美分署となっている敷地が、福江駅予定地である(写真103)。当時は駅舎やホームまで完成していたと、参考文献には書かれている。現在では工杭も含めて、痕跡は皆無である。


103


 3)福江-堀切(計画区間 用地買収のみ)
 この区間約6キロは用地買収のみが進められ、用地取得は完了した。工杭があちこちに残っていたようだが、現在ではほとんど残っていないようだ。
 終点の堀切駅予定地付近は、山貞商店があるあたり(写真104)である。

写真104準備中


ここまで鉄道が開通していたら、渥美半島はどのように発展していたのだろうか。それとも全国に数多かった赤字ローカル線として、とっくの昔に廃止されていたのだろうか。
渥美半島において伊良湖まで鉄道が開通していたとしても、名古屋直結で名鉄が走る知多半島とは条件も違うので発展性は乏しく、鉄道の存続は怪しかったと想像される。

  

Posted by よっぱらいくま at 11:42Comments(3)TrackBack(0)廃線跡、未成線