2013年07月31日

情けないぞJR北海道

 JR北の特急がこの夏、運休する特急がたくさん出るそうな。
 なんか情けないです。
 どこか根本的な組織的問題があるのでしょう。
 国鉄時代にこんな情けない事態はなかったでしよう。
 もちろん、初期故障で、キハ80系とかオーバーヒートしていたようなこともあったけれど、改善されていきました。
 もう何年もたっている車両が火を噴いたり、オイルが漏れるなど、管理能力の劣化としか言えないのではないか。
 コスト削減で事故を起こして、本数削減で乗客に迷惑をかけて結果、お客さんが鉄道から離れていくことになるんですよ。
 本数削減のあおりを受けて、NHKのニュースで立客が多く見える特急を見て、危機感が募ります。  

Posted by よっぱらいくま at 21:26Comments(0)TrackBack(0)事故・災害

2013年07月29日

東武東上線 東横線 有楽町線 地下鉄の冷房

 東武東上線から今は東横線に直通して横浜まで行ける。
 東上線から横浜まで、たまたま乗った車両が旧営団7000系だった。この形式は私が小学生の頃から走っている。もともとは有楽町線用の形式だ。有楽町線内のみ、当時は新富町(開業当時は銀座1丁目)と池袋の間を往復していた電車が、東上線の和光市に連絡して東上線も走るようになり、新木場へ延伸もしてきた。その7000系が、まさか渋谷まで伸びてさらに東急東横線を走り横浜まで行くようになるなんて、製造当初は夢にも思わなかっただろう。
 今乗っているのは、きっと最後の方の増備車だろうけれど、古い。なんせ元々は冷房もなかったのだ。あとから冷房改造しているから、冷房のダクトが無骨に天井にあるし、扇風機もえらい古臭い。最近の最新車両は元々、扇風機はついていないか。
 103系とか113系も冷房改造してきた車両は、天井のダクトが無骨に目立っていた。
 冷房といえば、もともと地下鉄は冷房車がなかった。トンネル内でクーラーの排気(熱気)を処理する能力がなかったから、私鉄からの相互乗り入れの冷房車が入ってきても、地下鉄内は冷房は切っていた。その代わりトンネル内を冷房するトンネル冷房を導入していた。だから、相互乗り入れで私鉄車両が地下鉄に入ると、車内放送で地下鉄内は窓を開けるように放送で案内していた。
 いつの間にか、地下鉄内でも冷房が使用できるようになっていった。それだけ換気か、トンネル内の冷房能力が増したのだろうか。
 冷房で思い出したのは、キハ58と28の違いは、もちろんエンジン数とか冷房電源用エンジンの搭載の有無とか基本的な違いはあるるけれど、車内では扇風機の有無という違いがあった。キハ58は扇風機もあったが、キハ28には扇風機はなかった。扇風機のスイッチが車内の壁についていて、乗客が扇風機のオンオフができたことも懐かしい。


横浜駅の7000系


7000系車内の天井と扇風機


  

Posted by よっぱらいくま at 09:24Comments(0)TrackBack(0)車両

2013年07月20日

選挙のマイク その3

 選挙カーの上の候補者や党首、応援弁士は、何本ものマイクを束ねてしゃべっているいると書きました。あれはダサイと。
 それが、今日の中日新聞朝刊の記事で、みんなの党、共産党、維新の会の写真が載っています。白いガーゼは変わらないけれど、全員がマイク1本だけです。共産党の志位さんだけは、ガーゼではなくてちゃんと風防付きのマイクです。
 まさか私のこのブログを見て変えたなんて万に一つもありえないけれど、なんででしょうかね。不思議です。何本ものマイクはハッタリにしか見えないから、みっともないないと感じてしまいます。
 ところで、維新の松井幹事長が、どう見てもコック、シェフにしか見えません。  

Posted by よっぱらいくま at 16:44Comments(1)TrackBack(0)政治・社会

2013年07月20日

日本食堂

 新幹線の食堂車のことを書いていて、こちらのこともいろいろと思い出されます。
 「日本食堂」、読み方は「にっぽんしょくどう」だ。
 往時の国鉄の食堂車営業はほとんどが日本食堂だった。東北本線をはじめとする、在来線の特急に食堂車が必ず連結されていた昭和40年代までは、全国を日本食堂が走っていた。
 ネットで見たら、現在は略称NRE、日本レストランエンタプライズという会社名で、JR東の子会社で主にJR東の車販をやっているとか。だから、東海道新幹線の車販はやっていないのかな。
 国鉄時代は列車の食堂車と車販はイコール、日本食堂というものだった。
 その他に国鉄駅構内の食堂営業も多くやっていて、各地を旅していて安心して入れるレストランであった。
 私は小学生の頃、池袋の日本食堂に、母に連れられてよく行ったものだ。今では懐かしのメニューともいえる「ナポリタン」をいつも食べていたと記憶する。テーブルには三角に折られたナプキンに、塩と爪楊枝、しょうゆ差しと、独特な形態のソース入れが必ずあった。また、100円コインを入れると運勢みたいなのを書いた小さい巻物が出てくる灰皿も必ずあった。星座か生年月ごとにコイン投入口がたくさんあったが、中に入れば同じなんだと思ったものだ。
 メニューはきわめて普通で、なんでもあるけど味も普通みたいな。でも、あのナポリタンの味は、今でも自分では再現できません。今、各地にある、「懐かしの」とか「昭和の」ナポリタンというものも、あの頃の、あの時代の、あの年頃に食べた味とは違います。たとえ違わなくても、その時代、そのときの自分の年齢、あの頃でなければ同じ味にはならないのです。あの味は永遠に二度と味わえないのかもしれません。たぶん当時は、日本食堂などはオリジナルの味で料理などはしてなくて、味付けは業務用の調味料を使っているだけなのだろうけれど。
 日本食堂は各地の拠点駅には必ずありました。店員の愛想とかも平均するとあまりよくなかったような気もします。昔の大衆食堂、デパートの大食堂とかも、店員の態度はあまりよくなかったような。なんとなく、食べさせていただいてますみたいな雰囲気でした。
 デパートの大食堂とかは、まず入口のところにずらっと並んでいる見本を家族全員で見て決めてからから、窓口で食券を買い、案内させた席へ行って(自分で勝手に空いているテーブルへ行くだったかな?)、食券をテーブルへ置いて、ウエーター、ウエートレスが来るのを待つみたいな方式でした。私がすごいなと思ったのは、食券を半分にもぎって注文を通すのだけど、そのもぎりを片方の手で握って「パチリ」と鮮やかにやるのがとても格好よく見えました。概して、そういうデパートの大食堂とかも店員の愛想はあまりよくありませんでした。
 日本食堂も昔はすべて、食券を買ってから着席後にもぎってもらう方式でした。それがいつの頃からか、オーダーを聞いてから伝票を置いて、最後に精算する方式になっていきました。今でも、観光地の大食堂みたいなところは食券の事前購入をするようなレストランもありますね。
 食堂車の話しに戻して、在来線の食堂車にはあまり思い出がありません。食堂車全盛期は私自身幼かった頃から、せいぜい学生時代までで、その後は衰退の一途をたどっていったから。学生の頃までは九州ブルトレにも必ず食堂車があったけれど、やはり値段が高いというのがネックでした。それに酒を飲む習慣もなかったから、つまみを食べながらビールを飲むということもなかったし。今だったら、絶対そういうことするだろうけれど。
 ちなみに、東海道新幹線の車販は、JR海の子会社の株式会社ジェイアール東海パッセンジャーズが一手にやっているようです。

  

Posted by よっぱらいくま at 16:11Comments(1)TrackBack(0)食べ物

2013年07月20日

新幹線 食堂車の思い出

 先週木曜日は新幹線こだま号に乗って東京へ行きました。
 そういえばこだま号からは車販は撤退したんだよなと思いながら、不便なのかどうなのか考えていました。新幹線のホームからも以前と比べて売店、キオスクもかなり撤退しています。儲からないから、その一言につきるのだろうけれど、なんかなあと思ってました。
 さて、新幹線から食堂車がなくなってからも久しいです。
 いったい平成何年だったのだろうか、食堂車の廃止は。ネットで調べればすぐにわかるだろうけれど。
 食堂車は博多開業に合わせて当時の国鉄が、長時間乗車に対処するため、旅客の食事を考慮して食堂車導入を決めた経緯がある。今のJRなら、採算絶対だからそんな配慮はしないだろうけれど。当時だって車販は現在に比べればずっと充実していたし、駅で弁当を買うこともいくらでもできた。だけど、国鉄は採算よりも旅客の利便性も重視したのだ。そういう経営効率よりも公共性を優先していたから赤字体質であった面も否めない。一部分の側面ではあるが・・・
 当時、0系の食堂車が画期的だったのは、新幹線が1435mmの広い線路幅による車両の幅の広さを活かし、在来線の食堂車と違い通路を側面に設置して、通過する客が食堂車内を通らなくてもよい構造としたことだ。その構造は、2階建てとなった100系でも通過客は1階を通ることにより引き継がれた。
 営業形態も、国鉄の食堂車営業を一手にやっていた日本食堂をはじめ、都ホテル、帝国ホテル列車食堂、ビュッフェとうきょうの4社で営業していた。
 食堂車のメニューや雰囲気にも各社の個性があり、乗客の中にはどこそこが営業しているひかり号を選んで乗っていたなんて人も結構いました。
 実は私、大学生のときにバイトで新幹線の車販をやったことがあります。大学の鉄道研究会の先輩の紹介で働くことができました。そこは帝国ホテル列車食堂です。食堂車の評判は一番良く、選んで乗ってくれるお客さんが一番多かったのも、帝国ホテルでした。
 スタッフとしての新幹線の乗務は、当時の形態はひかり組とこだま組があり、基本はその組のメンバーで乗車していました。当然、食堂車を擁するひかり組が人数も多く職人気質のコックもいるので、華やかであり、厳しくもありました。対してこだま組はビュッフェはあるものの少人数で、なんとなく家庭的な雰囲気でした。私は最初はひかり組でした。たしか32組だったかな。初乗車のときもいきなり、安倍川餅とういろうを持たされて売りに行きました。当時は、今みたいにワゴンだけではなく、みやげものだけや、弁当だけを持ち歩いて売る形態がかなりありました。ワゴンは品数も多く、今みたいにバーコードを機械で読み取り精算するのではなく、手計算、記憶だけで販売していたから、ワゴン販売はベテランの正社員がやっていました。バイトでも経験長い人は任されていたけれど。
 慣れないうちはみやげもの(特にういろうは重くてつらかった)を持って車内を何往復もしたあとは腕がぱんぱんになって、乗務後の食事も腕が震えてできなかったくらいだ。あれはコツがあって、腕を曲げて抱えると無駄に負担が増すが、腕をピンと伸ばして持てば良いということを自然に覚えた。
 帝国ホテル列車食堂は、全然覚えていなかったけれど、東西線の茅場町にあったことをネットで確認しました。それで新大阪と岡山と博多にそれぞれ食堂車従業員用の滞在施設があった。だから帝国ホテルが担当するひかり号は、新大阪、岡山、博多どまりに限定されていた。要するに広島発着のひかり号は帝国ホテルが担当することはなかった。
 博多ひかりの場合は基本、片道のみ仕事の泊まり、一泊二日勤務だった。新大阪は時間帯により日帰り往復勤務か夜遅い到着列車だと一泊二日勤務でした。
 車販は重労働ですよ。私は当時、女性の仕事では、看護婦と車販が一番大変だと確信しました。
 何しろ、新幹線の中を何往復も歩きっぱなしです。当時は混んでいることも多く、立ち客を掻き分けながらの販売は大変でした。お盆の大混雑のときは、ワゴン販売を断念し、各自手持ちで販売したこともありました。
 班の中でも、16両の新幹線を食堂車を中心に、こだまはビュッフェ車を中心に博多寄りをA車、東京寄りをB車と分けて分担していました。基本、自由席のあるA車担当の方がきつかったです。立ち客が多くいる場合が多いので。ひかり組のときは、バイトの私は基本、A車担当でした。グリーン車を含むB車は正社員担当が多かったです。こだま組になったときは、A車もB車もまんべんなく担当しました。
 一度は読売ジャイアンツの選手がグリーン車に乗っていたこともあった。私は芸能人とか有名人に疎かったが、王さんや長島さんくらいはわかった。私に声をかけて何か買ってくれたような記憶がある。なんか関係ないことまで話しかけられもされたのだが、よく覚えていない。なにしろ当時は、プロ野球にまったく興味がなかったから。だから別になんとも思いませんでした。
 当時、弁当は起点駅での積込が原則だったが、うなぎ弁当だけは車内で調製していた。調製といっても、真空パックのうなぎをチンして暖かいごはんに載せて、弁当箱に詰めたものだったが。でも箸をつけて包み紙をかけたりといった作業があった。私は箸を付け忘れるというミスをやらかしたことがある。気がついたときは急いで、売った客のところへ記憶を頼りに届けにいったものだ。うなぎ弁当は車内でいくらでも調製できたので、(ご飯は炊いたものをたくさん積んでいた、なくなることはまずなかった)駅積み込みの幕の内弁当などすべて売り切れたときに、弁当を所望する乗客の要望で作ったのだ。でもうなぎは苦手、午前中から食べたくないみたいなことを言われて、「うなぎしか出来ないならいらない」と言われたことも結構あった。うなぎ弁当は真空パックのものだけど、味はたしかでしたよ。ちゃんとタレもかけて、、暖かいから冷たい積み込み弁当よりもはるかにおいしかったはずです。高かったけれど。
 あと、ビールはその日その日で積み込む銘柄が異なっていたけれど、一時、バドワイザーを積み込んでいたこともあった。一度、ビールを所望する客にバドワイザーを出したら、「それしかないのか?」と言われ、これしかないと言うと、「じゃ、いらない」と言われたことがあった。そのときの私は、今と比べて、まったくプライベートでは酒を飲まず興味もなかった。今となっては、その客の気持ちがよ~くわかります。私も、車販でモルツやドライだと「いらない」と言いたくなるので。ビールはサッポロとキリン派です。でもバドワイザーは特殊ですよね。
 終着駅が近づき、ひと段落しているときに、さきほどのうなぎ弁当用のご飯が大量に余っているときなどたまに、ご飯にうなぎのタレだけをかけて食べさせてもらったこともありました。それのうまかったこと、重労働のあとでもありまだ二十歳くらいの食べ盛りのこと、あんなにうまい食べ物は記憶にありません。
 泊まり勤務では乗務のあと、さきほど書いた宿泊所に行きます。到着後は、好きな人は夜の街に繰り出す人もいました。
 新大阪は駅から少し遠くて、送迎のワゴン車に乗って行きました。新大阪駅構内の職員専用通路を通って外へ出るのだけど、私が4年前の新幹線通勤で新大阪に通い始めて、いつも通る通路にその職員用通路入り口を見つけて、感慨にふけったものです。
 岡山と博多はたしか、駅から歩ける距離でした。たまにはバイト仲間と缶ビールを飲みながら、宿泊所で語り合ったものです。もう名前も顔も覚えていないけれど。
 特筆する出来事は、営業運転中の新幹線の運転室に入り、運転台から前方の景色を見たことです。当時は新幹線運転士へコーヒーをサービスするという決まりがありました。当時の新幹線は運転士は2人乗務でした。東京ー新大阪間の中間地点を走行中に運転を交替していました。だから運転士が二人、運転室にいました。それで、コーヒーを持って行って、運転室のドアをノックして、運転していない方がドアを開けて受け取ってくれました。運転室へは入ってはいけない決まりでした。一度だけ、ノックすると運転士が「入ってきていいよ」と言って、中に入れてくれました。そして、こっちに持ってきてって言いました。運転室に入り0系の運転台ははるか高い位置にあります。階段を上り運転席に近づきました。そして一瞬だけだけど運転室から見える前方の流れる景色に圧倒されました。在来線とは別次元の世界でした。感動でした。私は立場上冷静を装いながらも、そのときの人生で最高の出来事に感動で震えてしまいました。運転士からすれば、取りにいくのが面倒臭かっただけだったと思うけれど。
 こんなこともありました。コーヒーは起点駅からポットに入れたものを何本も積み込んでいましたが、売れ行きが良いとなくなってしまいます。ビュッフェにはコーヒーメーカーもあって、なくなったらそれで作って補充していました。あるとき、コーヒーを作ろうとコーヒーメーカーの水の注ぎ口のフタを明けると、なんと、ゴキブリが大量に出てきたのです。これには他のスタッフもびっくり。さすがにこの日は、コーヒーの継続販売を断念しました。新幹線って、結構ゴキブリの巣窟だと、なんかテレビかなんかでやっていました。今は、供食スペースがないし、車内のゴミも乗客がきれいに持ち帰りゴミ箱に捨ててくれるから、そんなことはないと思います。
 そういえば300系にも簡易な販売スペースがありましたね。
 100系時代になり、食堂車のない車両も増えて、食堂車営業列車も徐々に減っていきました。
 新幹線の車販は良い経験でした。私は鉄道マニアだから、高校生の頃から鉄道ばかり乗ってましたから、乗客の気持ちはよくわかっているつもりでした。車内をゆっくり歩き、買いたそうな客、迷っていそうな客、声をかけるタイミングを計っていそうな客、などなど、自分なりに目配りして工夫していました(マニュアルにも似たようなことが書いてあったけど)。自分で言うのもなんだけど、売り上げは決して悪くなかったと思います。
 今となっては、新幹線に食堂車はおろか、こだま号からは車販すら撤退した新幹線はつまらないものです。
 車販も乗務する人数も少なく、のぞみの自由席1号車にでも乗った日には、混んでいるときなど名古屋から乗って東京に向かっていて、車販が来るのは三島通過する頃にやっと初めてきて、それで終わりなんてことばかりです。通常でも2往復しか来ません。私が乗務していたときは、東京ー名古屋だけで4往復はしていました。ワゴンではないけれど。混んでいたから、土産を売った後は、次は弁当を抱えて、それが終わったらビールだけ持ってと、次から次へと売って、車内を往復していました。
 それにしても、今の車販のお姉さんたちは、みんなきれいでスタイルが良い人ばかりですね。私が車販をしていた頃は・・・。でも今の車販のお姉さんたちよりも当時は逞しかったかなあ。格好というかユニフォームもぜんぜん違いますよね。
 帝国ホテル列車食堂も、都ホテルも、ビュッフェとうきょうも、食堂車営業から撤退し、日本食堂も縮小してのちにJダイナーとかいう会社名になって、今はなんでしたっけ?
 新幹線は車販のみで、新幹線パッセンジャーサービスとJダイナーの営業となり、時刻表にも営業会社が表記されていた時代もあったけれど、今は何も書いていません。現在、車販を営業している会社ってどこでしたっけ?
 朝のサンドイッチとコーヒーの500円セットは重宝しています。車販のコーヒーも本当においしくなりました。


続きです
新幹線食堂車 帝国ホテル列車食堂  

Posted by よっぱらいくま at 10:40Comments(3)TrackBack(0)新幹線

2013年07月15日

カタカナ語蔓延

 この前、NHKに対してカタカナ語を乱用するのは公共放送として不適格であるとかなんとかで訴えたとかいうニュースがありました。
 新聞の投書にも、この行動を支持する意見もいくつかありました。私も支持します。
 たしかに、最近はカタカナ語がおおはやりです。
 選挙でも、「アジェンダ」とか紙おむつの商品名みたいな言葉をバカのひとつ覚えに言っている政党は、見ているだけで不快だし、もともと民主党が始めた「マニフェスト?」とかいう言葉も大嫌いだし。単に「公約」と言えないのかいって、ずっと前から思っていました。
 このカタカナ語乱用の病は、行政組織や官僚、民間組織にも蔓延しています。役所に行ってもねカタカナ語のポスターやらなんやらばかりです。
 「ガバナンス」とか「コンプライアンス」とか「セキュリティーポリシー」とか、もうなんでもかんでもカタカナにするんじゃねえ!といつも憤慨しています。
 職場のメールで、件名の頭に「リマインド」とか書いてあるとかなりイラっとします。意味わかんねえよって、そのメールは無視したくなります。
 NHKを訴えた人は、ぜひ、公共機関である行政組織も訴えてほしいものです。日本の役所がカタカナ語ばかり使うなと、意味がわからず国民生活に支障があるとかなんとかで。
 別に、トイレを「便所」と言えとまで言う気はありません。最近のはなんでもかんでもカタカナ語に置き換える風潮は、カタカナ語を使わないと意思表示できなくなっているということで、日本語能力が落ちている証拠だと思います。日本語の語彙不足、総合的な日本語の読解力と表記能力が落ちているのでしょう。
 職場の文章を読んでも、なんじゃこりゃというのが平気でありますよ、度々・・・
 最近はパソコン、スマホ、携帯、電子媒体ばかりで、新聞や本を読んでいる人を電車の中で見ることも激減しました。7人掛けのロングシートに座っている全員が携帯やスマホをいじっている風景は珍しくなくなったけれど、あれはとても不気味です。日本国は滅びゆくのではないかと思ってしまいます。
 逆に、電車の中でまわりに一人も携帯類をいじっている人がいなくて、本や新聞を読んでいる人ばかりに囲まれるような奇跡的な状況に遭うと、感動すら覚えます。
 そういう電子媒体に頼り切っている状況も、日本語力の低下に拍車をかけているのでしょうね。漢字を忘れるだけでなく日本語力自体を低下させているのでしょう。だからカタカナ語が蔓延していくのでしょう。
 日常的に本や新聞などの活字をしっかり読んでいくことが、日本語力を維持することだと思います。
 美しい日本語の読み書きと、正確な発音と抑揚はとても難しいです。NHKのアナウンサーでも変な発音をしているのをよく聞きます。地方の方言は尊重するし絶やしてはいけないけれど、ニュース原稿を変な関西訛りっぽい発音をされるとイヤになります。
 関西訛りとは関係ないけれど、例えば、ニュースなどでよく聞くセリフ、「この事件の背景は・・・」の「背景」、最近よ~く聞くのが「拝啓」と同じイントネーションで話すアナウンサー、絶対おかしいですよ。
 会社の公用語を英語にするなんて言語道断、売国奴と呼ばせてもらいましょう。日本から出ていけ。英語を使いたければ、その前に国語のテストで100点満点を絶対とれるようになってから、英語を使えと言いたいです。ろくに日本語を使えない人間が英語を先に学ぶのは、日本人として本末転倒でしょう。
 ちちなみに、ルー大柴は好きです。ああいうギャグは嫌いではありません。
 それから、パソコンのキータッチミスよる誤字脱字その他おかしな表記等はご容赦ください。  

Posted by よっぱらいくま at 09:17Comments(0)TrackBack(0)政治・社会

2013年07月07日

時刻表1975年3月号

 古い時刻表を見始めたら、次から次へと思い出がよみがえってくる。
 以前古本屋で買った、1975年、昭和50年の時刻表を引っ張り出した。
 ダイヤ改正の3月号で、新幹線博多開業時のもので画期的改正号でもある。
 表紙には0系4編成が並び、背景に富士山が写る、三島の車両基地での撮影のものだ。
 
 手元の時刻表は国鉄内部用のもので、背表紙に日本交通公社の表示ではなく、「日本国有鉄道」とある。これはみどりの窓口など、駅の窓口できっぷを買う人が調べるためにも置いてあったので、ふだんから手にはしていたものだ。だから内容は若干違っていて、表紙をめくると「新幹線の新しいサービス」という表題で職員用の説明書が記載してある。

 ダイヤ改正のあらましのページを見ているといろいろと改正された点がよくわかる。
 新幹線が博多まで伸びたことにより、岡山ー九州間の昼行優等列車が全滅している。これは、東海道新幹線が開業後もこの時点でも、東海道本線は東京ー静岡の東海号や名古屋ー大阪の比叡号などの昼行急行が存続しているのとまるで違っている。当時の国鉄の雰囲気からすると、昼行急行を多少は残してもおかしくない気がするが・・・。
 夜行の寝台特急や急行はほとんど存続している。
 「新幹線の新しいサービス」のページには、新幹線は夜行がないので早朝からの活動ができないので云々・・という説明もあり、朝、目的地へ着く必要性を重視して、すべての旅客を新幹線に移行させるという思想ではなく、利用者の選択肢を幅広く維持するためにも、東海道・山陽の夜行列車は存続させていたようだ。
 国鉄はこの頃からさんざんに言われていたが、今よりも根本の部分で旅客サービスを配慮していたのだ。
 この改正から、東京ー米子の寝台特急「いなば」と東京ー紀伊勝浦の「紀伊」が登場している。案外新しい列車だったんだと思う。また、東京ー西鹿児島の急行「桜島・高千穂」が廃止されている。「はやぶさ」は西鹿児島編成と長崎編成が併結されていたが、長崎編成は熊本行(止まり)と変わっている。
 私が小学生の頃、「はやぶさ」の長崎編成に乗って佐賀まで帰省した記憶が鮮明に残っている。20系の最後尾は展望車のようになっていて、ずっと後ろに流れる景色を見ていた。そんな小学生だった私に車掌さんが話しかけてくれた。寝台特急に乗ることが、自分にとって年に一度の大イベントで、最高の楽しみだった。鉄道に国鉄に憧れていた。

 大阪から北陸方面はこの改正から優等列車は基本、前年度に開業した湖西線経由となった。
 同じく、東京方面から北陸本線への寝台特急「北陸」がこの改正で誕生している。これまで、上野駅を発着する北陸方面の夜行はすべて急行だったのだ。上野発の夜行急行「能登」「越前」この後ながらく存続した。
 北陸本線には、懐かしい急行がたくさん走っている。「立山」「くずりゅう」「ゆのくに」など。「きたぐに」はつい最近まで生き残っていた。特急「加越」もむこのとき誕生し、寝台特急「つるぎ」もある。
 
 寝台専用列車としては、走行距離の短さでは「つるぎ」、「北陸」と並ぶ、東北方面には最短走行距離であった寝台急行「新星」もある。

 欄外の駅弁コーナーには、名古屋駅、とりごはん300円、お茶付三色弁当200円、守口漬、ういろう、納屋橋饅頭なんて記載もある。駅弁と並んで名産も記載していた。

 瀬戸大橋は当然ない時代、四国へと結ぶ宇野線、宇高航路も元気だった。

 山陰本線には長距離鈍行がたくさん走っている。

 長崎本線にはまだ電化開業前で、昼行の特急はなく、すべて気動車急行だった。「出島」「弓張」、佐賀線経由で熊本から来る「ちくご」、別府からやってくる「西九州」懐かしい名前ばかりだ。急行気動車は分割併合を繰り返し、とても複雑だった。乗車する際も、目的地へ行く編成の列を確かめて並ばなければと、とても注意したものだ。
 
 東北方面は新幹線などなく、東北本線、常磐線は特急、急行が入り乱れて走っている。また、この頃の在来線特急は、本当に気が狂ったようなスピードで走っていたものだ。「はつかり」、「やまびこ」、「ひばり」、上越線の「とき」などなど、8M4Tの485系、181系のフル編成が1秒たりとも無駄にしないぞというような気迫で疾走していた。
 ちなみに在来線の表定速度ナンバーワンは、長らく「加越」だった。線路状態が最高の重量級の北陸本線の条件が良いところだけ走っていたから。今でも、北陸本線の特急は、昔ながらに疾走しています。だけど車両の総合的な性能がアップして乗り心地も良いので、乗っている分にはたいしてスピード感がありません。
 なかなか北海道方面まで進めません。時刻表を順番にめくっていく特性上で・・・
 今回はこの辺で。
 東北日本海側、奥羽本線や北海道も見どころはたくさんあるので、続きも書きたいです。
  

Posted by よっぱらいくま at 16:58Comments(0)TrackBack(0)昔の時刻表

2013年07月07日

時刻表1979年10月号続き

 読み返していて、補足、訂正など。
 青森駅を450に同時発車する白鳥号とみちのく号。みちのくは13両編成と書きましたが、それは583系でした。
 昼行特急と寝台特急を兼用できる寝台電車583系は、運用効率のアップのための高度成長期の産物でした。末期には短編成化改造などで製造費用が高い交直両用の普通電車として、北陸本線などで活躍しました。ボックス席に座っている限り、とても贅沢な空間の普通電車でした。
 末期には哀れな結末を迎えた583系も、この頃は全盛期は過ぎたものの、東北、常磐線で大活躍していました。
 
 名古屋発着の列車でおもしろい存在は、急行の大社と赤倉でしょう。
 大社は名古屋発の編成と福井発の編成が敦賀で合体し、小浜線、宮津線を経由して山陰本線を通って大社線の大社まで直通していました。今考えたら、一日乗っているだけで楽しそうな列車です。今では名古屋から宮津線沿線に行こうとしたら、何度も乗り換えなければなりません。こんな列車に一日中乗って、車販からビールを買ったりして過ごしてみたいものです。
 赤倉は、これも名古屋から直通で新潟まで行けた、貴重な列車です。今、名古屋から新潟へ行こうとすると、選択肢は案外なく、どれも不便です。飛行機か高速か、鉄道では東京経由の新幹線乗継が一番早くて楽なんだろうけれど、とても高くつきます。中央線でしなので長野まで行っても、直江津経由で信越線の特急に乗り継ぐのも、鉄道マニア以外思いつかないでしょう。米原経由で、北陸本線の特急を乗り継ぐ手もあるけれど、とてつもなく時間がかかります。名古屋から新潟はとても遠く感じます。
 名古屋からの関西線、紀勢本線経由で、大阪まで行く、名古屋発天王寺行の921列車も楽しいです。夜行区間では「はやたま」の愛称もつけられる、長距離鈍行列車でした。名古屋1519発で、天王寺には翌朝500着でした。
 キハ58、キハ65などの気動車急行が、全国各地のローカル線を走り回り、幹線でも機関車牽引の旧型客車がたくさん走っていた楽しい時代です。
 乗りたい列車だらけです。
  

Posted by よっぱらいくま at 11:56Comments(0)TrackBack(0)昔の時刻表

2013年07月06日

時刻表1979年10月号

 昔の時刻表を読むのは楽しい。
 この前、近所の古本屋で1700円で手に入れた、昭和54年10月号の時刻表を読んで、気が付いたことをいろいろと書き綴ります。
 
 表紙は東京駅の新幹線ホームで運転士と会話する若い女性客二人、背景には0系の先頭。
 交通公社の時刻表は、表紙は列車の走行写真がほとんどだったけれど、この頃から人を入れた鉄道風景路線になっていったと記憶する。
 巻頭の路線図、特に北海道と九州の路線の多さに感動する。北海道は鉄道路線だけで北海道の輪郭になっているし、九州の筑豊地区の錯綜したローカル線に、大隈線に山野線、宮之城線と長大ローカル線が存在している。
 東京の地下鉄路線はとてもすっきりしている。東海道本線に金山駅はなく、名鉄は金山橋だ。
 東海道本線のページは東京から名古屋がひとページに収まり、名古屋前後の普通列車は今と比べてとても本数が少ない。特に昼間はひどく、例えば名古屋1255発の快速大垣行が出たあとの次は、1400発米原行まで普通はない。その間1300発の急行のりくら号があるが、実質1時間空いている。昔の長距離列車、貨物列車優先のダイヤ編成だったのだ、この頃は。15分間隔で新快速と普通が交互に、一時間に計8本走っている今からすると夢のようだ。あの頃は通勤時間帯でも電車はさほど混雑していなかったと記憶する。今はたくさんの乗客を載せて、まるで首都圏のようです。
 夕方は寝台特急がひしめきあって走っている。明星、彗星、あかつきが何号とそれぞれ続行し、なは、さくら、はやぶさ、みずほ、金星、富士、出雲、あさかぜ、瀬戸、銀河と、ブルトレオールスター勢ぞろい、夢のようななんてぜいたくな時代なんだろう。ちなみに関西本線には出雲3号と併結の紀伊号が名古屋で分割される。名古屋は運転停車だ。
 ブルトレには食堂車が連結され、編成も機関車電源車を入れたら15両編成だ。
 関西地区は普通にグリーン車が連結され、新快速も走っている。新快速は京都ー大阪間ノンストップだ。新大阪も通過していたのだ。
 関西本線では名古屋駅から旧客の普通列車が出発している。宮脇俊三の時刻表2万キロの中で、夕方の通勤時間に名古屋を発車する関西本線の客車列車に乗ったら客が少なくあまりにも空いている情景を書いていた。首都圏とのあまりもの違い、大都市であるはずの名古屋を発車する通勤時間の情景には隔世の感がする。宮脇俊三はこの、通勤時間にもかかわらす空いている名古屋発の旧客の普通列車に乗って「人生の落伍者になった気分だ」と記している。
 四国は気動車王国、山陰本線、福知山線には、大都市大阪駅、京都駅から、旧客の普通が何本も発着している。
 地方のローカル線にも急行の夜行列車が縦横無尽に走っている。急行列車そのものも本当にたたくさん走っている。
 地方の幹線には、超早起きの始発の普通列車があることは前にも書いたが、金沢発の七尾線は、始発が349に金沢を発車する。ナンバーワンは、福島318発仙台行か?仙台には507に到着する。現在はこの時間にも始発列車はまだ走らない線区はいくらでもある。今の名古屋の地下鉄はあまりにも朝寝坊ではないか。東京の猪瀬が都営地下鉄の24時間営業を言ったり、終電車の延長を望む声が多いが、夜間活動を延ばすよりも、朝早く活動を開始する世の中の方が健全だと思う。
 コンビニなどなかった時代に、国鉄はこの時代、24時間営業をしていたのだ。どんなローカル線の駅のキオスクも始発から終電まで営業していた。だから、近所の人が夜とかよく買い物だけのために駅を訪れていたものだ。
 時刻表から時代が読める。
 北へ進むと、青函連絡船があり、北海道へと結んでいる。この頃の北海道は、函館中心のダイヤ編成で、優等列車は函館を起点に対本州との連絡を中心にダイヤが組まれていた。今は札幌中心で本州との連絡はまったく考えられていない。
 日本人の英知を結集して難工事の末、完成した青函トンネルを現在、通過する旅客数は、この頃の青函連絡船の乗船客の何パーセントなんだろうか。日本の財産であるはずの青函トンネル、その維持には莫大な費用がかかっているという。貨物列車のためには今でも有用であるのだろうが、もっと活用されてほしいと思う。北斗星開通当時は3往復に臨時も加わって走っていたのに、今は1往復だけだ。カシオペアとトワイライトエクスプレスだけが、人気を維持している。人生一度でいいから、トワイライトエクスプレスの最後尾スイート、1号車1号室に乗ってみたいものだ。
 話しを戻して、夜行の青函連絡船2本を受けて、函館を445に発車するおおぞら1号、続行して450に発車する北海号、共に食堂車を擁した長大気動車特急だ。おおぞら号は、はるばる遠い釧路までの681キロを約10時間以上走り、釧路に1502に到着する。681キロと言ったら、東京から岡山の手前くらいの距離である。
 かたや同じ時刻の青森駅では、上野行きのみちのく号と大阪行きの白鳥号が450に同時に発車するという名演を演じている。453には、はつかり2号が続行して発車していく。みんな8M4T、食堂車を擁した名優485系の勇姿である。と、おっと、巻末の編成表で確認したら、みちのく号は13両編成である。国鉄特急のもっとも華やかな頃であった。
 語り始めたらキリがない昔の時刻表、今回はこの辺で。  

Posted by よっぱらいくま at 15:30Comments(0)TrackBack(0)昔の時刻表

2013年07月04日

選挙のマイク 続き

 今日の中日新聞夕刊に、各党党首ら第一声の記事がありました。
 党首の演説写真が載っています。
 唯一、マイク一本を手に持っているのが、共産党の志位さんでした。減税の河村が一番たくさんの本数のマイクを握っています。恥ずかしい奴だな。
 こりゃ、投票先は決まったな?
 私的には、支持政党は自民党なんだけど、ワタミを擁立した自民党には比例は絶対投票しません。
 選挙区は自民は勝つだろうし、選挙区でみんなや維新みたいな胡散臭い連中が当選したら嫌なので、こりゃ、マイクの本数でも支持したい共産党に投票しようかしら。
 ついでに言わせてもらうと、みんなの党や維新の会が原発ゼロ路線を唱えているのは、絶対ウソだ。大衆迎合の選挙対策に決まっている。本音では原発肯定に決まっている。
 その点、現実離れの理想論ばかりの共産党は本音で原発ゼロを訴えていると思う。ちなみに私は、無責任な原発廃止を支持する気はありません。
 でも、今回はマイクがすっきりしている共産党支持かな・・・  

Posted by よっぱらいくま at 20:49Comments(0)TrackBack(0)政治・社会

2013年07月04日

選挙のマイク

 参院選がスタートしました。
 候補者の第一声をニュースでやっています。
 しかし、毎度毎度、街頭演説で候補者は、何本ものマイクを持ってしゃべらないといけないのだろうか。
 一台の選挙カーに複数のスピーカー、拡声器があるのだろうけれど、一本のマイクを使いミキサーを使って分配しろよと言いたくなります。
 一つの拡声器にひとつずつマイクをつなげているのでしょうか。
 なんか、そういう技術力の無さが、逆にアピールになるのでしょうか。わけわかりません。
 そして、複数のマイクをビニールテープでぐるぐる巻きにしてまとめて、お決まりの白いガーゼか何かで集音部をカバーしている。防風のフードは使わない、なんででしょうかね。
 私的には、そんな姿は恥ずかしくなりますけれど。
 音響のプロは選挙活動には絶対にいません。
 ハンズフリーマイクやピンマイクでしゃべる候補者がいたら、それだけで投票しようかな。
  

Posted by よっぱらいくま at 19:44Comments(0)TrackBack(0)政治・社会