2013年08月15日

新幹線食堂車の思い出続き 帝国ホテル列車食堂

 帝国ホテル列車食堂でバイトしたのは、昭和59年の夏休みの2ヶ月間だけでした。
 最初はお盆休み対応で採用され、8月はひかり組での乗務でした。当時は埼玉に住んでいましたので、東京の会社まで通勤、出勤して制服に着替えてから、黒革靴だけは自前で、東京駅までバスで移動しました。
 東京駅発が早朝の場合など、本社には宿泊施設もあって前泊していたような記憶もありますが、何時頃に出勤していたのかまったく覚えていません。
 東京駅のどこから入場したのか、さっぱり覚えていません。

 仕事は主に土産物と弁当の販売でした。
 当時はまだペットボトルというものは存在しませんでした。弁当といっしょに、ビニール袋に包まれたプラスチック容器のお茶も販売しました。保温ケースに入っているお茶も持てるだけ持って車内を歩きました。基本は弁当とお茶をセットで売りたいのだけど、お茶だけ買う客もいました。だから弁当を買う客にお茶を求められて売り切れでは申し訳ないので、お茶は多めに持っていたのです。それでもお茶だけ売れゆきが良いときもあり、残り少なくなってくると、「頼む、茶だけ買わないで~」って心の底では叫んでいました。

 おみやげは、東京駅積み込みの基本は、東京の雷おこしに草加煎餅(埼玉だけど・・)、静岡の安倍川餅にわさび漬け、名古屋のういろう、大阪の塩こんぶ、広島のもみじまんじゅう、博多の辛子明太子などが定番でした。新大阪行きの列車内でも、広島や博多みやげも売っていたような気がします。だから「その駅は通らないだろう」と客から突っ込まれたこともあったような・・・
 おみやげは途中駅積み込みのものもあって、岡山駅でマスカットや白桃を積み込んでいました。結構高くて、たしか1500円くらいだったと記憶しています。そんなに数は売れませんでしたが、それでも積み込んだ分はたいてい売れました。そんな時代でした。

 帝国ホテル独自サービスだったのかどうかは知りませんが、バーワゴンサービスというものもありました。お酒類専門のワゴンで、午後から列車限定だったかな。ウイスキーの水割からなんでも揃っていました。新幹線の中で本格的に酒が飲めたあの時代がうらやましいです。

 車内販売ではたいしておつり用の現金も持っていませんでした。おつりがないときに高額紙幣を出された場合は、お客さんの降車駅を確認して、号車と席番をメモして、のちの販売巡回のときに渡したりもしていました。手持ちしていない弁当のオーダーがあったときも、あとから席番をメモしてあとで持っていったりもしました。私は冷水器用の紙コップにメモしていました。あれは重宝しました。
 0系、100系、300系までは洗面所に必ず冷水器がありました。700系以降はなくなって、300系も700系に合わせて冷水器は撤去されてしまいました。車内で水がタダで飲めなくするというのは明らかにサービスダウンだと思いますが、JRに対する苦情的な声は聞こえませんでした。マスコミはそういうことには興味がないからでしょうね。その頃からペットボトル飲料が全盛期となっていきます。
 車内で水が飲みたければ、自動販売機でお金を出さなければならない現在よりも、昔の方が良いと思いませんか。

 車販のバイトは8月いっぱいの予定でした。8月いっぱいで円満退社して、毎年9月の初めには鉄道研究会の合宿があり、それに合わせて個人的鉄道大旅行を組み合わせて、1週間くらい全国の国鉄を乗りまくっていました。
 帰宅後に帝国ホテルから連絡があり、9月も働いてくれないかと依頼がありました。特に問題はなかったので、大学が始まる10月まで、9月いっぱい再びバイトとなりました。
 9月の乗務はこだま組でした。たしか12組だったかな?
 こだま組は人数も少なく、基本新大阪までなので楽でした。それにお盆休み、夏休みのピークも終わり、新幹線自由席も立ち客がほとんどいなくなります。ひかり組で立ち客をかき分けての販売は本当に辛かったです。
 私もそれなりに慣れてきているし、こだま号の乗務の方が、のびのび楽しんで仕事ができました。

 そんなこだま号から、今は車販すらなくなって、寂しい限りです。

 そんなこだま号でも、4年前の新幹線通勤のときは、帰りはたまに車販からビールを買ったりしました。今日は禁酒しようと新大阪ホームではビールを買わずに乗り込んでも、車販の誘惑にいつも負けていました。
 ひかり号では、新大阪から乗り込んで京都で降りるビールしか売っていない車販の人もいました。あれはすぐに回ってくるので重宝(禁酒が破られるので迷惑?)な存在でした。



追記2015.02.15
旅行収集品の箱の中から出てきました。
「サービス読本」実習生用 帝国ホテル列車食堂株式会社
バイト用の車販マニュアルです
必要部分だけなのか、ページ数は飛んでいます。












 










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Posted by よっぱらいくま at 11:32│Comments(9)TrackBack(0)新幹線

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この記事へのコメント
遊びでネットで検索していたら、この板に辿りつきました。
もう、びっくりです。なつかしいです。

帝国列車食堂に3年くらい勤めていました。高校新卒で大学に失敗してしまい、
6ヶ月ぐらい喫茶店でバイトをしていたら、新聞広告に社員募集が掲載されていました。当時は、契約や派遣社員が珍しく、どんな業種も社員での雇用が当たり前でした。それで、何気なく応募したら、即社員としての採用でした。でも、その時、同時に大手のホテルも同じように新聞で社員募集があり、こちらも無事合格しましたが、いずれは大学に入る予定でしたので、親に負担をかけたくなかったので、学費を稼ぐつもりで帝国列車食堂に入社しました。
すぐに辞めるつもりが、けっきょく3年ぐらいつとめました。
ケチケチ生活で100万円ぐらいの預金ができました。帝国食堂のおかげで、無事大学資金を貯めることができました。

サービス業は普通の会社勤めとちがい、シフト勤務はすぐに時がたちます。
きっとこれは、航空会社の乗務員の人もおなじように時が早くたつとおもっているでしょう。
勤務は確か、4日出勤の1日休み、4日出勤の2日休みと2日でて1日休みだったような気がします。

確か、当時は東京採用と福岡採用があり、東京採用は38組までくらいクラス編成があり、福岡は3クラスあったような覚えがあります。
福岡組はみんな九州の方言で話をしていました。
東京本社では、言葉の違いで、東京組か福岡組か見分けがつきました。

そういえば、基本乗務が東京~博多の1泊2日でした。それに、時々、
大坂ステイもありました。でも、宿舎が線路にちかく、いつもガタンゴトンと振動がして眠れなかったです。相当におんぼろ宿舎でしたね。

乗務中は昼は全員一緒に食堂を閉めて、昼ごはんを食べます。
昼ごはんは大坂だったかな、大阪基地でつくった乗務員専用の食事を積み込みます。でも、これは、明らかに弁当をつくったときの余った食材での
調理でした。いつもウインナーの切れ端とかが入っていました。
Posted by 元帝国列車食堂乗務員 at 2013年10月08日 19:57
帝国乗務員さま
書き込みありがとうございます。
私はアルバイトだったので、胸のバッジは「見習」でした。
あの頃は、みんな正社員でしたよね。
本当、今は世知辛い時代です。
新幹線車販のことは、ほとんど忘れてしまっていますが、なんとか記憶を戻して書きました。
Posted by よっぱらいくまよっぱらいくま at 2013年10月15日 20:33
はじめまして。
楽しく懐かしく読ませていただきました。
私は数年前に還暦を過ぎましたが、思い出っていいですねぇ。当時のことが蘇りました。ありがとうございます。
私も鉄道と旅が大好きで大学1年の時から帝国ホテル列車食堂でアルバイトをしていました。お金が貯まると鉄道の旅に出掛け、いつの間にか全国の県庁所在地を制覇しました。(那覇だけは卒業してかなり後でしたが)
貴方とちょっと違うのは4年後に社員になってしまったことです。社員になった後は制服ではなくスーツにネクタイ姿でしたけどね。 昭和59年といえば茅場町の本社で営業事務をしていました。皆さんの点呼をカウンター越しに見ながらの仕事でした。 企画を出したり新商品を開発したり予算を組んだりテレビや雑誌の取材に対応したり・・・。
会社消滅後に別の仕事もしましたがあの頃は楽しかったなぁ。
会社は消滅しましたが、今でも当時を懐かしむ社員の集まりが年1回開催されます。お互い青春でしたね。
Posted by A.G at 2014年11月23日 10:08
A.Gさま、コメント、ありがとうございます。

あの頃、諸先輩方の現役バリバリだった方々は、すでに還暦世代なんですね。
食堂車の衰退とともに、会社自体がなくなるなんて、皆様、ご苦労されたと思います。

でも、国鉄の新幹線に少しでも関われたことは、たとえバイトであっても私としては誇りです。

良い時代でした。
あの頃の勢いと、明るさと、雑然とした雰囲気は、今はもうありませんね。
Posted by よっぱらいくまよっぱらいくま at 2014年11月26日 19:14
はじめまして。
帝国ホテル列車食堂、
大学生の時にアルバイトしていました。東京です。
26年前です。
臨時列車のチームです。
食堂車はおやすみで、
車内販売とビュッフェの営業でした。
最初はとにかく揺れて大変でしたが、
慣れてきたら面白くて
車内販売が大好きになりました。
会社がなくなるまで続けましたね。

会社がなくなっても車内販売は続けて、
東北、上越新幹線に乗務。
山形新幹線では一番列車にのれました。
東海道新幹線とは客層が
かなり異なります。


300系が開業するとき、
Jダイナー東海に移り
東海道新幹線に戻りました。
本当にたくさんの列車に乗務しました。
とても楽しかったです!

しかし、大学を卒業時に引退しています。

就職しても、
結婚して東京を離れても、
こどもが生まれても、
いつか車内販売に復帰したいと、
願っていました。

子育てが一段落した頃、
願いが叶い、
JR東海の特急の車内販売に
復帰できました。
とても嬉しかったです。
ただ、山間部を走るので、
とにかく列車が揺れて
難易度の高い車内販売でした。
でも、汚損事故はありませんでした。


残念ながら2013年春に
JR東海の特急の車内販売が
廃止になりました。

暫定の措置で2013〜2014年春まで
東海道新幹線に車内販売で
乗務ができました。
念願の新幹線、本当に嬉しかったです。
今はジェイアール東海パッセンジャーズのみで車内販売を行っています。
基本はA車、B車、各1名ずつの乗務です。


帝国ホテル列車食堂の時は
たくさん乗ってましたね。
懐かしいです!

車内販売はまたやりたいです。
2016年は近鉄特急しまかぜに
乗務したいと思っています。
今月、アルバイトの面接に行きます。
受かるといいな。。。

車内販売は私の生きがいです!
生涯現役で車内販売したいです!
帝国ホテル列車食堂での経験を
活かし続けます。

長くなりましたが、
最後まで見てくださいまして、
ありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ
Posted by 和智恵美子 at 2016年01月07日 23:52
帝国ホテル列車食堂さま。
懐かしい記憶が蘇ってきました。ありがとうございます!

大学時代の1979年、夏休みのアルバイトで会社は違いますが私も乗務していました。

当時、最終間近のひかり号は特に混雑し、ワゴンが通れないことも珍しくなかったように記憶しています。
そんな中でも、お弁当ワゴン、コーヒーワゴン、バーワゴンなどが行けるところまで行くという感じで、それぞれA車とB車の車販基地に戻る頃にはワゴンの中の商品が底をついているということも普通だったと思います。
食堂車も、金曜晩の列車では走る「ガード下の居酒屋」状態になるほど賑やかで、皿洗いにかり出されることもしばしば。あの頃、日本はいちばん元気な時代だったように思います。

鉄道ファンとしては新幹線に乗務できるというだけで興奮ものでしたが、時には運転台に飲み物などを届けることもあり、スマホのようなものが当時もしあったら、いっぱい写真を撮っていただろうなと思います。乗務していたときの写真は、修学旅行の女子高校生が会社に送ってくれたものと、営業終了後の食堂車で社員の方がコック長さんたちと一緒にしてくださったものだけです。

私にとって、アルバイトとはいえ新幹線に乗務できたことは誇りですし、当時の記憶は、これからも大切にし続けたいと思っています。
Posted by ひかり号 新大阪行き at 2016年01月31日 14:44
帝国列車食堂で社員を約2年しました。もう、わたしも還暦になりました。
40年前です。当時は正社員が当たり前の世界ですし、長く勤めるつもりもなく、面接即採用で明日からお願いしますという恵まれた時代でした。

今のように、派遣社員や契約社員なんて世論が許しませんでした。
大学を中退して将来を不安におもっていたのですが、この会社のおかげで
大学に再入学できました。感謝しています。このような人が当時は、回りにはたくさんいました。

20代そこそこのヒヨコのわたしでしたが、毎日の乗務がたのしく、今日はどんな客層かなあとか、芸能人や野球選手に会えたり青春そのものでした。
Posted by 還暦になりました at 2016年10月16日 15:26
帝国ホテル列車食堂の社員募集が度々、新聞紙上に載りました。帝国ホテルの名は今から約40年前でも偉大であり、最難関の面接試験を受けて晴れて合格といいたいところですが、当時はバブルで誰も見向きもしないのか、面接ではぜひ入社してくれと説得されました。同僚はみんないい人でしたが、勉強には不向きな人が多く、だいたいが実業高校出身の新卒が多かったのですが、みんな22歳から25歳ぐらいで青春をエンジョイしていました。そして、女子はだいたいが25ぐらいで辞めていきました。

今と違うのは全員が正社員での採用です。これはとても大事だと今更感じます。まず、雇用が安定していて、不規則な仕事で辞める人も当然多かったのですが、60歳の定年まで勤めあげる人もいました。正社員だからこそ、みんな同じ条件採用での入社なので、仲は本当によかったです。会社内に正規社員、契約社員、アルバイトといろいろな人がいるとそうはいきません。現在の待遇でそうつくづく思います。

一度だけ大失敗しました。コーヒーワゴン担当でコーヒーを注文されたお客にコーヒーを手渡そうとした瞬間、新幹線が揺れてお客に熱いコーヒーをこぼしてしまいました。あの時は本当に会社にも同僚にも迷惑をかけました。それでも、社員だからこそ、クビにはならず謝罪して、今度からは気を付けるようにで済んだものの、アルバイト社員だったらそのままクビのはずです。それに
欠勤してもすいませんの一言でもう終わりです。それも正社員だからこそです。なので、現在の社会の雇用情勢は若い人にはかわいそうです。
Posted by ポンタ at 2016年10月25日 12:20
よっぱらいくま様

偶然この板を見つけて懐かしい思い出が蘇りました。
私は都ホテル列車食堂でアルバイトしてました。時期は昭和59年9月〜翌年の1月の間だったと記憶しています。

都ホテルは担当列車が少なく東京〜博多間のひかり2往復、東京〜新大阪間のひかり3往復とこだま2往復、新大阪〜博多間のこだま1往復と臨時1往復だったかな?

私は東京採用のアルバイトでしたが乗務したのは何故か博多班の列車でした。
5A〜泊まり〜72Aで博多を1往復し、翌日はこだまの219A〜290Aで新大阪を往復。これを2回(6日間)やって休みという行路でした。

最初はお土産物を手に持って回ったのも同じです。自画自賛ですが他のアルバイトより売上が良く、すぐにバーワゴンを任されました。

乗務するのは東京を10時ちょうど発のひかり5号です。バーワゴンですがサンドイッチとコーヒーは積んでおり、時間帯のせいか新大阪まではサンドイッチとコーヒーばかりが売れ、お酒はあまり売れなかったのを覚えてます。
お酒は樽生とか黒ビール、ウィスキーに焼酎、トロピカルカクテルなんてのもありました。

芸能人なんかも結構見ましたね。
一番格好良かったのは石原裕次郎さん。
上から下まで白一色という服装で京都から新大阪までグリーン車でした。
天皇皇后両陛下がまだ皇太子殿下だった頃にも御乗車された事があります。

東京〜新大阪間のこだま号の内、223A〜264Aで往復する行路は新大阪到着後も列車から降りません。新神戸方の洗浄線を通って引上げ線で待機する車両内で私達も休憩です。約一時間後、上りホームに据付されてそのまま営業でした。
運転室に入れる事と併せて鉄道ファンの私には夢のような仕事でした。

33年も前の事が鮮やかに蘇りました。
ありがとうございました。
Posted by ひかり5号 at 2017年10月08日 15:45