2013年08月15日
昭和55年夏 九州鉄道の旅
私が初めて本格的な鉄道旅行したのが、昭和55年の夏休みに行った九州旅行でした。高校2年生のときです。
九州ワイド周遊券をフルに使った20日間の旅でした。目的は、九州島内の国鉄線の乗りつぶしです。
この頃、国鉄は、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」に影響されたローカル線ブームもあり「チャレンジ2万キロ」というキャンペーンをやっていて、ローカル線の乗車がブームでした。また、ブルトレブームの華やかな頃でもありました。東京駅には夕方、「さくら」をはじめとする寝台特急を撮影するマニアがたくさんいました。
私も「時刻表2万キロ」に感化されて、このような旅を始めました。しかし、「チャレンジ2万キロ」はやりませんでした。ローカル線の起点駅と終点駅で必ず自分の顔と駅名標を入れた写真を撮るというルールが嫌だったから。あくまできままに旅を楽しみたかったし、押しつけの義務を負うことは嫌でした。
その九州旅行の思い出、記憶の断面を書いていきます。
夏休みに入ってすぐ、7月22日から有効の途中下車印だらけのワイド周遊券が手元にあります。有効期限は8月10日までです。基本、車中泊、寝台ではなく座席の夜行に泊まり続けました。
今は亡き、ローカル線の駅名印もいくつかあります。
この頃は、九州島内に、鹿児島本線の門司港-西鹿児島間の「かいもん」、日豊本線経由の門司港-西鹿児島間の「日南」と2本の夜行急行が、門司港-長崎・佐世保間の普通夜行「ながさき」の3系統の島内完結の夜行列車がありました。ワイド周遊券でこれらの列車の自由席は乗り放題です。
急行を中心に「ながさき」を補完的に利用して、夜行列車連泊の、今考えたら超ハードかつバカな旅でした。
当然、宿泊代の節約が主目的であり、夜行列車の旅を楽しむなんて気はなく、ただただ睡眠を取るために乗っていました。貧乏旅行の極地であり、日々の支出は2000円以内に抑えるというものでもありました。だから駅弁を食べるなんて言語道断で、ローカル線から夜行急行に乗り継ぐときなど夕食にもありつけず、ビタミンレモンとビスコだけの夕食なんてことも数回ありました。食事は駅ホームの立ち食いうどんがメインでした。旅先でおいしいものを楽しむなんて高尚な趣味はまったくありませんでした。本当、今では信じられません。
もちろんすべて夜行連泊とも行かず、20日間のうちビジネスホテルにも2泊か3泊と、「かいもん」の寝台車も1泊利用しました。今考えると、よくできたな~と思います。いろいろな意味で・・・
さて、旅のスタートは寝台特急「富士」で東京駅を出発しました。この年の秋のダイヤ改正で、日本最長距離&最長時間の列車であった、東京-西鹿児島(日豊本線経由)の「富士」号は、宮崎止まりとなり、24時間を超えて走る列車がなくなることになっていたので、「富士」に乗ることもこの旅の大目標のひとつでした。この時の「富士」は東京駅を18時00分に発車して、西鹿児島への到着は、翌日の夕方、18時04分(だったかな?)でした。この日本でまる1日以上走る唯一の列車でした。
特急・寝台券です。
列車内には夏休みでもあって、そんな目的の鉄道マニアも多く乗っていました。B寝台の同じ区画、4人ボックスに一人は小学生、もう一人は私より年上の若いお兄さんがいて、同じ目的でした。お兄さんとは(今はもうアラ還だろうけれど)今でも毎年、年賀状を交換しています。終着の西鹿児島で3人で撮った記念写真は今も残っています。
「富士」の車内でどのようにして過ごしたのかはほとんど覚えていません。食堂車へは行っていないと思います。当時は食堂車は特別な存在ではなかったから。
名古屋での5分間停車、お決まりの下関駅と門司駅での機関車交換では、先頭の機関車の写真を撮りに行きました。
終着の西鹿児島で2人と別れたあとから、完全な一人旅が始まりました。
西鹿児島で適当に時間をつぶし、その日は「かいもん」門司港行きの座席に収まりました。今日の宿です。車両は12系で快適です。ただ夏休み中でもあるので、ワンボックス1人で占領することは無理で、だいたいワンボックス2人乗車くらいでした。座席車で寝るには、私は頭を通路側にしてバックと空気まくらを置いてまくらにして、足は窓側であぐらをかく形で寝ていました。これがベスト形でした。頭を置いたバックの中に財布などの貴重品を入れて、防犯対策もしていました。
翌日は博多で降りて、筑豊ローカル線を攻めていきました。まずは香椎線の走破でした。早朝の鹿児島線で香椎まで移動して、西戸崎行きに乗り、ローカル線の旅は始まりました。西戸崎ですぐに折り返し香椎に戻り、たしか宇美行きに乗り換えたと記憶します。
終着の宇美から勝田線へ乗り換えです。香椎線の宇美駅と勝田線宇美駅とは離れていると時刻表に記載がありました。その通りで駅前から勝田線の宇美駅まで5分くらい歩きました。勝田線の宇美駅からひと駅乗って、勝田線の終着、筑前勝田駅へ着きました。
筑前勝田は大都市博多の近郊でありながら、鄙びたローカル駅でした。本数は1日に7往復しかなく、博多への移動手段としてはまったく機能してなく、国鉄にも地元にも見捨てられたローカル線でした。元々九州はバス路線網が充実していたし。今、勝田線が生き残っていたら、現在ではさらに宅地開発も進んだし、渋滞はまったくない鉄道の長所を生かして、1時間に3~4本も走らしたら、立派な都市近郊鉄道として機能していたかもしれません。
あとの記憶はあいまいです。一日中筑豊ローカル線に乗り周り、門司港発の「日南」に乗ったのかもしれません。
「かいもん」か「日南」で西鹿児島に到着したあと、一日かけて佐多岬へ行きました。たまには観光も取り入れていました。大隅線に乗って鹿屋まで行き、バスを乗り継いで本当に一日かけて佐多岬へ往復しました。バスの乗り換えがあった大根占の町では昼食に入った食堂でラーメンを食べました。本当の九州豚骨ラーメンでとてもおいしかったことをよく覚えています。
その帰り道、大隅線から夜遅くの志布志線に乗ったときは、2両か3両の気動車の乗客は自分以外乗っていませんでした。当時は普通列車に冷房車は基本的にありませんでした。すべての窓が全開になっていましたが、夜なので駅に停車中など虫が大量に車内に入ってきました。私は誰もいない車内をまわり窓を閉めていきました。車掌がやってきて、「ありがとう」とお礼を言われてたこともありました。
「かいもん」に乗って博多で多くの客を降ろした後、門司港へ向かっていたとき北九州地方が集中豪雨に遭いました。今で言うゲリラ豪雨みたいです。列車も遅れましたが、雷がつんざく中列車は進んでいきました。その時の豪雨のため、どこから入ってくるのか、12系の床は水浸しになったことがありました。
高千穂線に乗ったときは、延岡に午前3時か4時頃到着する「日南」を降りて乗り換えました。待合室での始発までの待ち時間はとても苦痛でした。夜行でも待合室でもろくに寝られず、始発の高千穂線に乗っても、先頭の運転席の隣の前面展望できる特等席に座ったにもかかわらず、ほとんど爆睡してしまったこともよく覚えています。早朝の1番列車だったので「時刻表2万キロ」に書いてあったように、有名な鉄橋の上で観光停車することもありませんでした。終着の高千穂に着いたのちに高千穂を観光しましたが、寝不足と疲れで気分悪くなったのも覚えています。そのあとはバスに乗って高森線の高森へ移動しました。
指宿枕崎線に乗った時は、終着の枕崎駅に鹿児島交通の小さめな気動車が止まっていました。ワイド周遊券で乗れない私鉄には目もくれませんでしたが、今考えるとなんてもったいないことをしたと後悔しています。金のない高校生の当時は、運賃の高いローカル私鉄線に別途乗ることは、選択肢にありませんでした。
九州をほぼ18日間くらい回りましたが、国鉄全線に乗ることはできませんでした。九州国鉄全線完乗は大学生になってから達成しました。
九州からの帰りは、長崎発の夜行急行「雲仙」新大阪行きに乗ったと記憶します。特急用14系客車で得した感じの急行でした。そして、姫路で途中下車して、一日中、関西の鉄道を乗りまくってから、大垣発の普通夜行東京行き、列車番号344Mのグリーン車で東京へ帰りました。東京へ着いたときは周遊券の有効期限を一日超えていました。乗車券類は途中下車しない限り、期限が切れても目的地まで乗車できます。このルールは今でも生きています。活用する機会はまずありませんが。
九州ワイド周遊券をフルに使った20日間の旅でした。目的は、九州島内の国鉄線の乗りつぶしです。
この頃、国鉄は、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」に影響されたローカル線ブームもあり「チャレンジ2万キロ」というキャンペーンをやっていて、ローカル線の乗車がブームでした。また、ブルトレブームの華やかな頃でもありました。東京駅には夕方、「さくら」をはじめとする寝台特急を撮影するマニアがたくさんいました。
私も「時刻表2万キロ」に感化されて、このような旅を始めました。しかし、「チャレンジ2万キロ」はやりませんでした。ローカル線の起点駅と終点駅で必ず自分の顔と駅名標を入れた写真を撮るというルールが嫌だったから。あくまできままに旅を楽しみたかったし、押しつけの義務を負うことは嫌でした。
その九州旅行の思い出、記憶の断面を書いていきます。
夏休みに入ってすぐ、7月22日から有効の途中下車印だらけのワイド周遊券が手元にあります。有効期限は8月10日までです。基本、車中泊、寝台ではなく座席の夜行に泊まり続けました。
今は亡き、ローカル線の駅名印もいくつかあります。
この頃は、九州島内に、鹿児島本線の門司港-西鹿児島間の「かいもん」、日豊本線経由の門司港-西鹿児島間の「日南」と2本の夜行急行が、門司港-長崎・佐世保間の普通夜行「ながさき」の3系統の島内完結の夜行列車がありました。ワイド周遊券でこれらの列車の自由席は乗り放題です。
急行を中心に「ながさき」を補完的に利用して、夜行列車連泊の、今考えたら超ハードかつバカな旅でした。
当然、宿泊代の節約が主目的であり、夜行列車の旅を楽しむなんて気はなく、ただただ睡眠を取るために乗っていました。貧乏旅行の極地であり、日々の支出は2000円以内に抑えるというものでもありました。だから駅弁を食べるなんて言語道断で、ローカル線から夜行急行に乗り継ぐときなど夕食にもありつけず、ビタミンレモンとビスコだけの夕食なんてことも数回ありました。食事は駅ホームの立ち食いうどんがメインでした。旅先でおいしいものを楽しむなんて高尚な趣味はまったくありませんでした。本当、今では信じられません。
もちろんすべて夜行連泊とも行かず、20日間のうちビジネスホテルにも2泊か3泊と、「かいもん」の寝台車も1泊利用しました。今考えると、よくできたな~と思います。いろいろな意味で・・・
さて、旅のスタートは寝台特急「富士」で東京駅を出発しました。この年の秋のダイヤ改正で、日本最長距離&最長時間の列車であった、東京-西鹿児島(日豊本線経由)の「富士」号は、宮崎止まりとなり、24時間を超えて走る列車がなくなることになっていたので、「富士」に乗ることもこの旅の大目標のひとつでした。この時の「富士」は東京駅を18時00分に発車して、西鹿児島への到着は、翌日の夕方、18時04分(だったかな?)でした。この日本でまる1日以上走る唯一の列車でした。
特急・寝台券です。
列車内には夏休みでもあって、そんな目的の鉄道マニアも多く乗っていました。B寝台の同じ区画、4人ボックスに一人は小学生、もう一人は私より年上の若いお兄さんがいて、同じ目的でした。お兄さんとは(今はもうアラ還だろうけれど)今でも毎年、年賀状を交換しています。終着の西鹿児島で3人で撮った記念写真は今も残っています。
「富士」の車内でどのようにして過ごしたのかはほとんど覚えていません。食堂車へは行っていないと思います。当時は食堂車は特別な存在ではなかったから。
名古屋での5分間停車、お決まりの下関駅と門司駅での機関車交換では、先頭の機関車の写真を撮りに行きました。
終着の西鹿児島で2人と別れたあとから、完全な一人旅が始まりました。
西鹿児島で適当に時間をつぶし、その日は「かいもん」門司港行きの座席に収まりました。今日の宿です。車両は12系で快適です。ただ夏休み中でもあるので、ワンボックス1人で占領することは無理で、だいたいワンボックス2人乗車くらいでした。座席車で寝るには、私は頭を通路側にしてバックと空気まくらを置いてまくらにして、足は窓側であぐらをかく形で寝ていました。これがベスト形でした。頭を置いたバックの中に財布などの貴重品を入れて、防犯対策もしていました。
翌日は博多で降りて、筑豊ローカル線を攻めていきました。まずは香椎線の走破でした。早朝の鹿児島線で香椎まで移動して、西戸崎行きに乗り、ローカル線の旅は始まりました。西戸崎ですぐに折り返し香椎に戻り、たしか宇美行きに乗り換えたと記憶します。
終着の宇美から勝田線へ乗り換えです。香椎線の宇美駅と勝田線宇美駅とは離れていると時刻表に記載がありました。その通りで駅前から勝田線の宇美駅まで5分くらい歩きました。勝田線の宇美駅からひと駅乗って、勝田線の終着、筑前勝田駅へ着きました。
筑前勝田は大都市博多の近郊でありながら、鄙びたローカル駅でした。本数は1日に7往復しかなく、博多への移動手段としてはまったく機能してなく、国鉄にも地元にも見捨てられたローカル線でした。元々九州はバス路線網が充実していたし。今、勝田線が生き残っていたら、現在ではさらに宅地開発も進んだし、渋滞はまったくない鉄道の長所を生かして、1時間に3~4本も走らしたら、立派な都市近郊鉄道として機能していたかもしれません。
あとの記憶はあいまいです。一日中筑豊ローカル線に乗り周り、門司港発の「日南」に乗ったのかもしれません。
「かいもん」か「日南」で西鹿児島に到着したあと、一日かけて佐多岬へ行きました。たまには観光も取り入れていました。大隅線に乗って鹿屋まで行き、バスを乗り継いで本当に一日かけて佐多岬へ往復しました。バスの乗り換えがあった大根占の町では昼食に入った食堂でラーメンを食べました。本当の九州豚骨ラーメンでとてもおいしかったことをよく覚えています。
その帰り道、大隅線から夜遅くの志布志線に乗ったときは、2両か3両の気動車の乗客は自分以外乗っていませんでした。当時は普通列車に冷房車は基本的にありませんでした。すべての窓が全開になっていましたが、夜なので駅に停車中など虫が大量に車内に入ってきました。私は誰もいない車内をまわり窓を閉めていきました。車掌がやってきて、「ありがとう」とお礼を言われてたこともありました。
「かいもん」に乗って博多で多くの客を降ろした後、門司港へ向かっていたとき北九州地方が集中豪雨に遭いました。今で言うゲリラ豪雨みたいです。列車も遅れましたが、雷がつんざく中列車は進んでいきました。その時の豪雨のため、どこから入ってくるのか、12系の床は水浸しになったことがありました。
高千穂線に乗ったときは、延岡に午前3時か4時頃到着する「日南」を降りて乗り換えました。待合室での始発までの待ち時間はとても苦痛でした。夜行でも待合室でもろくに寝られず、始発の高千穂線に乗っても、先頭の運転席の隣の前面展望できる特等席に座ったにもかかわらず、ほとんど爆睡してしまったこともよく覚えています。早朝の1番列車だったので「時刻表2万キロ」に書いてあったように、有名な鉄橋の上で観光停車することもありませんでした。終着の高千穂に着いたのちに高千穂を観光しましたが、寝不足と疲れで気分悪くなったのも覚えています。そのあとはバスに乗って高森線の高森へ移動しました。
指宿枕崎線に乗った時は、終着の枕崎駅に鹿児島交通の小さめな気動車が止まっていました。ワイド周遊券で乗れない私鉄には目もくれませんでしたが、今考えるとなんてもったいないことをしたと後悔しています。金のない高校生の当時は、運賃の高いローカル私鉄線に別途乗ることは、選択肢にありませんでした。
九州をほぼ18日間くらい回りましたが、国鉄全線に乗ることはできませんでした。九州国鉄全線完乗は大学生になってから達成しました。
九州からの帰りは、長崎発の夜行急行「雲仙」新大阪行きに乗ったと記憶します。特急用14系客車で得した感じの急行でした。そして、姫路で途中下車して、一日中、関西の鉄道を乗りまくってから、大垣発の普通夜行東京行き、列車番号344Mのグリーン車で東京へ帰りました。東京へ着いたときは周遊券の有効期限を一日超えていました。乗車券類は途中下車しない限り、期限が切れても目的地まで乗車できます。このルールは今でも生きています。活用する機会はまずありませんが。
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