2012年08月16日
国鉄時代の写真2
昔撮った写真を見ながら、撮った場所や日付を思い出そうとしますが、やや不明確なものが多いです。もちろん、はっきりと覚えているものもあるし、写真を見て場所を特定できる場合もありますが。
古い改札口の風景、ホームの風景、いまひとつはっきりしません。
写真はすべて、白黒ネガをスキャナーで取り込んだものです。
松江駅に停車中の豊岡発門司行きか。浜坂から乗車して門司まで乗りとおしたときの写真だと思います。
昭和58年頃か。
九州からの帰途、はやぶさ号の食堂車と記憶しています。
昭和60年か。
同じく、はやぶさ号のロビーカー。
八高線の寄居駅付近。
昭和57年頃。
北陸本線の旧客の旅で撮影しているので、富山か金沢か福井駅の改札かと。
高架化ですべて現存していません。
これも北陸本線です。
なんとなく富山駅のホームと思いますが。
山陰本線のどこかの駅ですが、まったくわかりません。
これは山陰本線の浜坂駅です。
1番線を特急はまかぜが発車したところ。
上の写真のとなりの3番線に止まっている旧客です。
浜坂駅2、3番ホーム。
売店は今はありません。この先には立ち食いうどんの店もありました。
たぶん九州だと思います。
どこの駅か記憶がありませんが、ネガの前後関係から、豊肥本線の赤水駅かな。
かすかな記憶では、青春18きっぷで豊肥本線に乗って、時間の関係で赤水駅で交換する列車に乗り換えたようなことをやった気がするので。
古い改札口の風景、ホームの風景、いまひとつはっきりしません。
写真はすべて、白黒ネガをスキャナーで取り込んだものです。
松江駅に停車中の豊岡発門司行きか。浜坂から乗車して門司まで乗りとおしたときの写真だと思います。
昭和58年頃か。
九州からの帰途、はやぶさ号の食堂車と記憶しています。
昭和60年か。
同じく、はやぶさ号のロビーカー。
八高線の寄居駅付近。
昭和57年頃。
北陸本線の旧客の旅で撮影しているので、富山か金沢か福井駅の改札かと。
高架化ですべて現存していません。
これも北陸本線です。
なんとなく富山駅のホームと思いますが。
山陰本線のどこかの駅ですが、まったくわかりません。
これは山陰本線の浜坂駅です。
1番線を特急はまかぜが発車したところ。
上の写真のとなりの3番線に止まっている旧客です。
浜坂駅2、3番ホーム。
売店は今はありません。この先には立ち食いうどんの店もありました。
たぶん九州だと思います。
どこの駅か記憶がありませんが、ネガの前後関係から、豊肥本線の赤水駅かな。
かすかな記憶では、青春18きっぷで豊肥本線に乗って、時間の関係で赤水駅で交換する列車に乗り換えたようなことをやった気がするので。
2012年08月15日
国鉄時代の写真
お盆休み、写真整理もはかどりますが、昔の写真を見ていると手が止まってしまいます。
ということで、ランダムに載せていきます。
夏休みのこの時期、両親の田舎へ毎年、さくら号に乗って帰省していました。あの頃は一年に一度、寝台車に乗れるのが一大イベントでした。冷凍みかんを必ず買ってましたね。
新下関駅付近で撮影。ゴハチが牽く寝台特急でしょうか。臨時ですかね。よく覚えていません。
たぶん豊肥本線と思います。形式がばらばらの長編成気動車の普通列車です。
鹿児島本線の出水駅です。旧客の旅でホームで一服中の写真かな。<
出水駅もそうだし国鉄甘木駅も今は、三セクです。
一転、北へ移動。興浜北線の終点、北見枝幸駅です。
留萌本線の終点、増毛駅です。映画「駅」の舞台となったことが有名です。
たぶん岩見沢駅かと思います。
たぶん小樽駅に進入する急行ニセコ号かな。
キハ183系のオホーツク号、どこの駅かわかりません。
私がキハ183オホーツクに乗ったときに雪害に合って立ち往生したときのものです。
止まっては少し進みの繰り返しで、朝に札幌駅を出て、旭川に着いたのは夕方でした。
上野発直江津行きの夜行急行「妙高」です。窓の隙間風でとても寒かった思い出があります。
北陸本線の長岡発米原行きです。長岡から1駅目の宮内から乗車して米原まで乗りとおしました。
長岡から乗らず宮内から乗った理由は、わかる人にはわかるでしょう。
北陸本線の大聖寺駅は、その名前からなんとなく好きでした。
たぶん長浜駅だと思いますが、自信ありません。雰囲気でなんとなく。
機関車はEF81だけど、正面の形式プレートがありません。大変珍しいかも。
地平ホーム時代の福井駅。
以前、職場のパソコンで「ふくいえき」で変換したら「吹く胃液」と最初に変換されました。
長野発高崎行きの旧客普通が小諸駅へ到着するところ。
この列車は新潟始発で長野行き、長野発高崎行き、高崎発上野行きと、列車番号が変わり分割されていますが、列車自体は新潟発上野行きと通しで運転されていました。
上の写真の列車に乗り、軽井沢を出て横軽の坂を下る上り高崎行き列車。
常磐線の仙台か盛岡かそちら方面行きの旧客列車です。
仙台駅にて。東北新幹線開通直前でした。
山陰本線の長門市駅かと思います。
車扱貨物その他、昭和の風景です。
軽量客車の10系客車です。シートピッチや座席が広くて、結構好きな車両でした。
郵便車と半車客室の合造気動車です。全国に郵便車は2両しか現存していないとか。
1両は、前にも書いた能登鉄道の「のと中島駅」。もう1両は、どこだったっけ。
ということで、ランダムに載せていきます。
夏休みのこの時期、両親の田舎へ毎年、さくら号に乗って帰省していました。あの頃は一年に一度、寝台車に乗れるのが一大イベントでした。冷凍みかんを必ず買ってましたね。
新下関駅付近で撮影。ゴハチが牽く寝台特急でしょうか。臨時ですかね。よく覚えていません。
たぶん豊肥本線と思います。形式がばらばらの長編成気動車の普通列車です。
鹿児島本線の出水駅です。旧客の旅でホームで一服中の写真かな。<
出水駅もそうだし国鉄甘木駅も今は、三セクです。
一転、北へ移動。興浜北線の終点、北見枝幸駅です。
留萌本線の終点、増毛駅です。映画「駅」の舞台となったことが有名です。
たぶん岩見沢駅かと思います。
たぶん小樽駅に進入する急行ニセコ号かな。
キハ183系のオホーツク号、どこの駅かわかりません。
私がキハ183オホーツクに乗ったときに雪害に合って立ち往生したときのものです。
止まっては少し進みの繰り返しで、朝に札幌駅を出て、旭川に着いたのは夕方でした。
上野発直江津行きの夜行急行「妙高」です。窓の隙間風でとても寒かった思い出があります。
北陸本線の長岡発米原行きです。長岡から1駅目の宮内から乗車して米原まで乗りとおしました。
長岡から乗らず宮内から乗った理由は、わかる人にはわかるでしょう。
北陸本線の大聖寺駅は、その名前からなんとなく好きでした。
たぶん長浜駅だと思いますが、自信ありません。雰囲気でなんとなく。
機関車はEF81だけど、正面の形式プレートがありません。大変珍しいかも。
地平ホーム時代の福井駅。
以前、職場のパソコンで「ふくいえき」で変換したら「吹く胃液」と最初に変換されました。
長野発高崎行きの旧客普通が小諸駅へ到着するところ。
この列車は新潟始発で長野行き、長野発高崎行き、高崎発上野行きと、列車番号が変わり分割されていますが、列車自体は新潟発上野行きと通しで運転されていました。
上の写真の列車に乗り、軽井沢を出て横軽の坂を下る上り高崎行き列車。
常磐線の仙台か盛岡かそちら方面行きの旧客列車です。
仙台駅にて。東北新幹線開通直前でした。
山陰本線の長門市駅かと思います。
車扱貨物その他、昭和の風景です。
軽量客車の10系客車です。シートピッチや座席が広くて、結構好きな車両でした。
郵便車と半車客室の合造気動車です。全国に郵便車は2両しか現存していないとか。
1両は、前にも書いた能登鉄道の「のと中島駅」。もう1両は、どこだったっけ。
2012年08月14日
夜の鉄路 国鉄時代
国鉄が民営化されて、はや25年。
今の20代の人は、国鉄の記憶はないと思います。
国鉄時代は、全国をたくさんの夜行列車が走っていました。
旅客もそうだけど、それよりはるかに多くの貨物列車が、コンビニなどまったくなかった時代に、年中無休の24時間営業で走っていました。
夜行列車に乗って、貨物とすれ違うときの音は、独特の車輪のリズムがありました。
車扱貨物はさまざまな形式が混ざっているから、軸数や間隔がまちまちなので、4軸ボギー車だと通常の「タタッタタン」なんだけど、2軸車だと「タンタンタンタンタン」と一定になったりして、外を見ていなくても貨物とすれ違ったなとすぐにわかったものです。
深夜でも東海道・山陽本線なら、5分おきに列車、特に貨物列車とすれ違っていたと言っても過言ではないでしょう。旅客1、貨物3くらいの割合ですれ違っていたように記憶します。
すれ違う列車を気にしながら、そして寝台車の窓から見える独特の外の風景を見ながら、とても高揚して、なかなか眠れなかったものです、若い頃は。
全国各地に貨物のヤードがあり、夜間は照明塔の明かりがヤード全体を照らしている風景を、夜行列車の窓から眺めたものです。深夜の真っ暗闇を走る列車から、貨物ヤードや大きな客車区などを通過するとき、外の眩しいばかりの明かりが頼もしかったように思います。それは独特の雰囲気がありました。
また、深夜の駅を通過するときは、各駅に必ず駅員がホームに立ち、通過する列車を見守っていました。あの姿も深夜を問わず24時間列車を見守っているんだと、とても頼もしく思え、心の底で列車に対する信頼が無意識に植えついてきたような気がします。
まだ列車無線がなかった頃、夜行列車の中で緊急事態、急病人などが出たときなどには、車掌が通信筒にメモを入れて通過する駅で列車を監視している駅員へ通信筒を投げ渡して、それを駅員が拾い見て次の停車駅などに救急車を待機させるというようなこともやっていました。
そのような役割があった駅員も、今は駅の無人化や夜行列車が走る区間でも深夜は駅員はいなくなり、夜行列車の窓から各駅に立つ駅員の姿も見なくなりました。昔は夜行列車が通過する駅は、駅名標にも必ず照明が点いていましたが、今は真っ暗で、どの駅を通過しているのか確認することもできなくなりました。
車扱貨物もほとんどなくなり、深夜のヤードを灯す明かりもなくなりました。
昔の国鉄は本当に24時間休みなく働き続けていたけれど、今の鉄道は夜行列車が激減し、貨物は別会社なので深夜に駅員が通過する貨物を監視することもないし、幹線でも営業時間しか駅員はいないから、JRは深夜勤務は減ったのではないでしょうかね。
今、社会は24時間化しているといわれ、コンビニをはじめ24時間営業、長時間営業の店も昔に比べたらはるかに増えたけれど、鉄道業界は逆に、営業時間は短縮されているようです。
今の20代の人は、国鉄の記憶はないと思います。
国鉄時代は、全国をたくさんの夜行列車が走っていました。
旅客もそうだけど、それよりはるかに多くの貨物列車が、コンビニなどまったくなかった時代に、年中無休の24時間営業で走っていました。
夜行列車に乗って、貨物とすれ違うときの音は、独特の車輪のリズムがありました。
車扱貨物はさまざまな形式が混ざっているから、軸数や間隔がまちまちなので、4軸ボギー車だと通常の「タタッタタン」なんだけど、2軸車だと「タンタンタンタンタン」と一定になったりして、外を見ていなくても貨物とすれ違ったなとすぐにわかったものです。
深夜でも東海道・山陽本線なら、5分おきに列車、特に貨物列車とすれ違っていたと言っても過言ではないでしょう。旅客1、貨物3くらいの割合ですれ違っていたように記憶します。
すれ違う列車を気にしながら、そして寝台車の窓から見える独特の外の風景を見ながら、とても高揚して、なかなか眠れなかったものです、若い頃は。
全国各地に貨物のヤードがあり、夜間は照明塔の明かりがヤード全体を照らしている風景を、夜行列車の窓から眺めたものです。深夜の真っ暗闇を走る列車から、貨物ヤードや大きな客車区などを通過するとき、外の眩しいばかりの明かりが頼もしかったように思います。それは独特の雰囲気がありました。
また、深夜の駅を通過するときは、各駅に必ず駅員がホームに立ち、通過する列車を見守っていました。あの姿も深夜を問わず24時間列車を見守っているんだと、とても頼もしく思え、心の底で列車に対する信頼が無意識に植えついてきたような気がします。
まだ列車無線がなかった頃、夜行列車の中で緊急事態、急病人などが出たときなどには、車掌が通信筒にメモを入れて通過する駅で列車を監視している駅員へ通信筒を投げ渡して、それを駅員が拾い見て次の停車駅などに救急車を待機させるというようなこともやっていました。
そのような役割があった駅員も、今は駅の無人化や夜行列車が走る区間でも深夜は駅員はいなくなり、夜行列車の窓から各駅に立つ駅員の姿も見なくなりました。昔は夜行列車が通過する駅は、駅名標にも必ず照明が点いていましたが、今は真っ暗で、どの駅を通過しているのか確認することもできなくなりました。
車扱貨物もほとんどなくなり、深夜のヤードを灯す明かりもなくなりました。
昔の国鉄は本当に24時間休みなく働き続けていたけれど、今の鉄道は夜行列車が激減し、貨物は別会社なので深夜に駅員が通過する貨物を監視することもないし、幹線でも営業時間しか駅員はいないから、JRは深夜勤務は減ったのではないでしょうかね。
今、社会は24時間化しているといわれ、コンビニをはじめ24時間営業、長時間営業の店も昔に比べたらはるかに増えたけれど、鉄道業界は逆に、営業時間は短縮されているようです。
2012年08月14日
横軽の記憶 〇表示
お盆休みで、昔の写真を整理しています。
いろいろと昔の写真など見ていて、思い出にふけっています。
ふと、横軽区間を走れる車両には車両記号の前に〇しるしがついていたなと、思い出しました。
信越本線の横川-軽井沢間が北陸(長野)新幹線の開業に伴い廃止となったのは、平成9年(1997年)9月でした。
もう今から、まる15年前になります。
北陸新幹線は金沢開業もあと2年あまりです。
さて、横軽は最大66.7パーミルの急勾配区間を走るため、機関車をはじめそこを走る車両は特別仕様でした。特急用の489系や189系、急行用の169系など下1桁に9がつく車両がそうです。機関車EF63との協調運転ができる車両が、最大12両編成で急坂を登り降りしていました。
横軽を通過するには連結部周辺を補強してある車両しか通過できませんでした。そのしるしとして、車両記号の前に〇が表示されていました。これは、本州を走る客車にはほとんどついていたように記憶しています。でも電車などはそうではなかったです。
これがそうです。
これらの客車は、横軽を通過できる車両ということです。
スハネ14の前に〇がついていて、〇スハネ14 755と表示されてます。
オハ47、これは紀勢本線のものですが、〇がついています。
一方、こちらは
〇がついていないので、横軽は通過できません。
583や581は横軽での協調運転仕様ではないし、この旧客、オハフ61 673は四国のもので、瀬戸大橋などなかった時代、本州へ行くことは想定されていませんでした。
こんなことも、もう昔話になってしまいました。
いろいろと昔の写真など見ていて、思い出にふけっています。
ふと、横軽区間を走れる車両には車両記号の前に〇しるしがついていたなと、思い出しました。
信越本線の横川-軽井沢間が北陸(長野)新幹線の開業に伴い廃止となったのは、平成9年(1997年)9月でした。
もう今から、まる15年前になります。
北陸新幹線は金沢開業もあと2年あまりです。
さて、横軽は最大66.7パーミルの急勾配区間を走るため、機関車をはじめそこを走る車両は特別仕様でした。特急用の489系や189系、急行用の169系など下1桁に9がつく車両がそうです。機関車EF63との協調運転ができる車両が、最大12両編成で急坂を登り降りしていました。
横軽を通過するには連結部周辺を補強してある車両しか通過できませんでした。そのしるしとして、車両記号の前に〇が表示されていました。これは、本州を走る客車にはほとんどついていたように記憶しています。でも電車などはそうではなかったです。
これがそうです。
これらの客車は、横軽を通過できる車両ということです。
スハネ14の前に〇がついていて、〇スハネ14 755と表示されてます。
オハ47、これは紀勢本線のものですが、〇がついています。
一方、こちらは
〇がついていないので、横軽は通過できません。
583や581は横軽での協調運転仕様ではないし、この旧客、オハフ61 673は四国のもので、瀬戸大橋などなかった時代、本州へ行くことは想定されていませんでした。
こんなことも、もう昔話になってしまいました。