2013年06月22日

渥美半島の鉄道計画 渥美線探訪記

 渥美半島には戦前、伊良湖の方までの鉄道計画があり、今でも鉄道路盤が現存しているところもあります。
 そんな遺構を探して歩きました。
 以下、探訪レポートです。 

 なお、資料を整理中で、随時加筆修正していきます。

 平成27年1月に再訪した記録はこちら
 渥美線跡巡りバスツアー

 また、各種既存情報と私の推測で路盤跡を判断していますので、路盤跡の位置等ここで書く内容がすべて正しいかどうかは、保証しません。これを読んだ方がご判断ください。



 新豊橋駅から三河田原駅を結ぶ18.1キロの私鉄が豊橋鉄道である。
 この渥美線は、渥美電気鉄道(株)として発足し、その後名鉄に吸収合併、そして現在の豊橋鉄道に譲渡され、新豊橋と三河田原間の豊橋鉄道渥美線として現在に至っている。
 しかし戦前には、三河田原から先、黒川原駅まで電車が走り、さらに福江、そして伊良湖岬にほど近い堀切まで、鉄道建設計画があった。
参考文献によると、廃止区間、計画区間と駅予定地は地図のとおりである。
参考文献やインターネット情報などを頼りに、平成24年、晩秋の一日、三河田原駅から、鉄道施設の路盤までが完成していた福江駅予定地までを歩いてみた。


全体路線図



1)三河田原-黒川原(廃止区間)
戦前には三河田原から約2.8キロ先の黒川原駅まで線路は延びていて、営業運転されていた。しかし、三河田原駅から黒川原駅の間は、戦時中の不要不急路線ということで、鉄資材の供出のためにレールを撤去されると同時に休止線となった。昭和19年6月のことだった。
 田原駅から先、車止めの先の道(写真1)はかつての線路跡だ。





カーブの形状(写真2)がいかにも線路跡という感じで、この雰囲気はわかる人にはわかる。






 田原から黒川原までは、地図を見ても線路跡が道路になっていることがはっきりとわかる(写真3)。





 三河田原と黒川原の途中には、加治駅があった。加治駅跡はこのあたりらしい(写真4)。




この道路も廃線跡(写真5)。




 線路跡の小道が国道259号バイパスに吸収されたところ(写真6)。





もともと田原バイパスのこの付近からは、廃止された路盤跡も一部利用して建設された(写真7)。





路盤跡はちょうど歩道部分と重なるところと推測する。右側の草の生えていない道のような土地は、開水路だった豊川用水支線水路の改築後に暗渠となった土地である。
旧田原街道と田原バイパスが接続する大久保南交差点付近に黒川原駅があった。現在、セブンイレブンがある手前辺りだ(写真8)。





 ここまで区間は戦争の激化と当時の鉄の供出のため、不急不要区間とされてレールをはがされてしまい昭和19年6月、休止となった。戦後も復活することなく、昭和29年に渥美線が名鉄から豊橋鉄道に譲渡されると同時に、この区間は正式に廃止となった。約70年前、昭和の初め戦前の一時、ここまで電車が走っていたと想像するのは大変難しい、現在の風景である。田原市民でも鉄道がここまで存在していたことを知っている人は、どのくらいいるのだろうか。



 2)黒川原-福江(建設区間 未成線)
戦前には、営業中渥美電鉄の国有化計画と併せて、黒川原駅から先、渥美半島を西進して福江、そして堀切に至る鉄道建設計画があった。
 この区間約15キロは、国(鉄道省)の直轄で昭和12年からに建設が進められ、福江までの路盤はほぼ完成した。渥美半島には明治時代から陸軍技術研究所伊良湖試験場(試砲場)などがあったため、軍事上の必要性が大きかったのだ。
 しかし、戦争の激化で物資、労働力は不足、建設は中断され(戦時中のため計画中止された正式手続等の資料はない模様)、戦後も工事再開を望む声は地元からあったらしいが、国鉄、日本鉄道建設公団などの新線建設計画に取り込まれることなく、戦前に建設された鉄道の構造物はそのまま朽ち果てていった。
 現在までに鉄道用地のほとんどが、自治体や民間に払い下げられてきた。併せて、鉄道用地は土地改良事業や道路拡幅用地となっているところがほとんどで、痕跡が残っているところは僅かであるが、建設から約80年を過ぎた現在でも予想以上に痕跡は残っていた。地形が大きく改変している箇所では、どのように路盤があったのか想像することも楽しい作業である。国土地理院のホームページにある過去の航空写真も大変参考となった。1970年代の航空写真では、かなりの部分で路盤跡が明確に写っているのである。
 福江まで歩いた結果、文献やネット上にはない痕跡もいくつか発見できた。「工」マークの入った境界杭も多数発見できた。「工」マークの境界杭とは、旧鉄道省、国鉄、JRと引き継がれている旧国鉄用地の境界杭である。「工」の源は、明治時代の工部省の「工」と、レールの断面形状に由来する。以下、本文では「工杭」と記載する。


 ・黒川原-大久保-野田集落手前
 鉄道用地は田原バイパス(国道259号)用地に完璧に取り込まれて、路盤跡は消滅。バイパス建設前には、大久保駅予定地付近にはコンクリート橋や工杭が多数あったらしいが、駅跡もバイパス工事で完全に消滅している。
 野田集落手前からは国道から少しずつ離れ始め、現在の農地の中を通っていた。現在では土地改良が行われて痕跡は皆無だが、1970年代の航空写真では路盤跡ははっきりと残っていた。



1970年代

この写真では野田集落を避けた集落外周部に路盤跡があることがはっきりわかる。


現在

1970年代と比較して、路盤跡は土地改良等で消滅している。




・野田集落付近
国道から大きく離れ、街道沿いの集落を回避させるように路線選定がされたようだ。住宅地を避けて鉄道を建設する基本形である。中心街を避ける路線選定手法が明治時代の鉄道忌避伝説の基だが、建設する立場からは用地買収の問題を避ける意味でも、路線選定は集落中心をはじめから避けるものだ。名古屋駅の位置や東海道線や中央線の路線選定も、当時、名古屋の中心街を避けて建設されたことは、明治時代の古地図を見ると明白だ。
現在の野田小学校の敷地、校庭の隅が路盤跡にかかっている。学校敷地の隣の小道(写真9)が路盤跡。




また、その先の林の中に路盤跡がある(写真10、11)。


10


11



・野田-馬草-宇津江
 野田集落から先は、少しずつ現国道259号に寄り添い、国道脇に平行して路盤はあったが痕跡はない(写真12)。


12

左の平地や喫茶店敷地も路盤跡の一部だ(写真13)。


13

 馬草口バス停から少し入ったところに、路盤跡の小道を発見(写真14、15)。


14


15


 農作業の合間におしゃべりをしていたおばあさんがいて、地図片手の私に対して向こうから「何を調べてる?」って聞いてきたので、「鉄道跡を調べているが知っていますか」と尋ねたらふたつ返事に「よく覚えている。ここを通っていた。あんた、鉄道を敷いてくれるのか!」って、私が役所の担当者かのごとく言ってきた。おばあさんから聞いた話では、現道は曲がっているが、黒い建物から一直線に線路があって(写真16)、


16

振り返って、畑の真ん中を通っていたとのこと(写真17)。


17

路盤跡は払い下げで購入して畑にしたととのこと。おばあさんは建設当時からのことをよく覚えており、汽車があったらもっと発展していたかもしれない、鉄道は伊良湖の軍の砲射場のために建設したとか、バスは高くて不便だ、朝は高校生で満員だが他の時間は誰も乗っていない。たまに乗ると帰りは田原駅から一人っきりの時もあり恐縮するとか、いろいろ話してくれた。おばあさんは85歳とのことである(写真18)。


18

 国道から少し離れた位置に路盤跡は続き、海に近くなるあたりで、路盤跡の道路が現存している(写真19)。


19

 こんな小道に不似合いなコンクリート製の用壁があり、鉄道敷地だった当時を物語っている。ここから田原寄り
に道は続く(写真20)。


20

福江寄りはこのまままっすぐに国道に吸収されていく(写真21)。


21

ここからは国道拡幅用地として路盤はすべて吸収されて、宇津江の先付近まで続くので痕跡は皆無だった。



・宇津江-江比間駅跡
 宇津江駅跡から江比間駅跡の中間地点(写真22)からは国道を離れ、江比間の集落の外周へ路盤跡は続く。


22


江比間駅予定地前後も、集落中心を避けて集落外周に路線を選定したようである。国道から分岐する前後の箇所から江比間駅へ向かうこの辺りは、国道拡幅と河川改修で完膚なきまで地形は改変されていて、路盤跡の位置を推測するのも困難だが、1970年代の航空写真と照らし合わせると、路盤の位置はだいたい特定できた。また、22の写真の山肌にガードレールがあるけれどこれが路盤跡であった。前後は地形が改変されているので繋がらないが、ここだけは路盤跡が道路として残っていた(写真23)。


23

この後ろ、田原寄りに振り返るとこうである(写真24)。


24

真ん中の道は路盤跡とは関係なく路盤跡の右からの道は空中へ突き抜けていく。国道拡幅で相当山を切り崩したと推測される。路盤跡(写真25)を福江寄りへ進むとすぐに急坂になり川べりへ下っていくが、急坂から先は路盤とは関係ない道である。


25

反対から見たのがこれで(写真26)、このあたりは河川改修のため、相当山を切り崩して川幅を確保したようだ。


26

この河川改修により地形は完全に改変されていて、この先痕跡は皆無である。川からやや高い所に小さく見える路盤跡からちょうど川の上、この写真の位置の頭上あたりに路盤はあったと推測される(写真27)。


27


1970年代の航空写真では、路盤跡らしきスジが見られる。


1970年代


現在は河川改修と道路拡幅で地形はまったく変化していることがわかる。


現在


 この川の上を通っていたと推測される路盤跡が、ここ(写真28)から痕跡が現れる。


28

さきほどの山肌の小道から川の中を一直線に結んだこの地点(写真29)に、工杭を発見した。


29

推測どおり、今は川となったところを緩やかに坂を下って、この地点まで続いていたのだ。望遠にしてこの写真(写真30)を撮った位置から山肌の路盤跡へ一直線に結ばれていたことがわかる。


30

ここから福江寄りのこの道(写真31)が路盤跡である。


31

さらに進むと、泉市民館前に出る。このあたり(写真32)が江比間駅予定地で道路が広くなっている。この泉市民館も駅建設予定用地が自治体へ払い下げられた後、そこを活用したのかもしれない。


32





・江比間-伊川津
さらに先へ進むこの道路(写真33)も路盤跡である。


33

脇にはしっかりと工杭が2本、残っていた(写真34、35、36)。


34


35


36

この先、カーブミラーのところで、川に突き当たる(写真37)。


37

「川のところには廃線跡の痕跡となる橋台が残っている可能性が高い」の法則通り、ここに渥美線の最大級の痕跡である橋台が対岸に見える(写真38、39)。


38


39

反対側にもこのとおり(写真40)。


40

このように両岸を結んでいた(写真41)。


41

 川を渡った先からは路盤跡は民地に取り込まれて痕跡はなくなる。さらに先、川を渡る地点(写真42)も路盤跡である。


42

ここで川を渡っていたと思う。この川は河川改修済みで、橋台は撤去されたのだろう。川を渡った先のこの小道から、再び路盤跡だ(写真43)。


43

小道の先は広い道路に路盤跡は寄り添っていく(写真44)。


44

この先、歩道と平行に空き地があるが(写真45、46)、


45


46

1970年代の航空写真から推測すると、歩道部分と空き地部分が路盤跡と思われる。写真45の右側は泉中学校で、この先の川を渡る地点、道路右側に小さな橋があるけれど、これは路盤跡とは関係ない。なんとなく鉄道橋の跡らしくも見えるが、耐荷重がどう見ても鉄道車両に耐えるとも思えない構造だし、位置的にも航空写真で比較、確認すると現道拡幅整備前の旧道の道路橋とわかる。


1970年代



現在



 先へ進むと、道路左側に海蔵寺の山門がある。ここでも工杭を発見した。山門入り口の両側に工杭がある(写真47、48、49、50、51、52)。


47


48


49


50


51


52

道路から田原寄りを見て右手がお寺である(写真53)。


53

この辺りが伊川津駅予定地だったかもしれない。
鉄道が出来ていれば、この山門の前に踏切ができていたのだろう。もしかしたら駅直結のお寺になっていたかもしれない。お寺前の道路は1970年代の航空写真では存在しておらず、現在の道路は路盤跡を整備、拡幅したもの思う。




・伊川津-石神交差点
 写真53の道路を福江方向に行くと、広い道路はここで終わる。道路が突き当たったこの地点でも工杭を発見(写真54)、


54

この道路(写真55)が路盤跡のようで、道路右側の生け垣の下にも工杭(写真56)がある。


55


56

この先福江方向の路盤は民地となり(写真57)、ここにも杭がある(写真58、59)。


57


58


59

この先は民地内で歩行不能(写真60)。


60

 さらに先に行くと、路盤跡の盛土が現れた(写真61)。


61

路盤跡の盛土と断定できるのは、この盛土(写真62)の先に工杭がたくさんあるからである(写真63、64、65、66)。


62


63


64


65


66

航空写真でも路盤の盛土が見える。


1970年代



現在でも一部盛土区間が残っているのがわかる。


道路に突き当たる地点には路盤幅とぴったりの2本の工杭が現存していて、当時の用地幅もはっきりとわかる(写真67、68、69、70)。


67


68


69


70

 道路から先は路盤跡は畑の中となり、川(写真71)を渡って(痕跡なし)、路盤跡は畑の中を進む(写真72)。


71


72

先に見えるのが石神付近の路盤盛土だ。畑を抜けると右側の国道沿いにサンクスがあるが、このサンクスの裏にも工杭が何本も残っている。左の盛土が路盤跡(写真73)。工杭が何本もある(写真74)。路盤用地幅もわかる(写真75)。


73


74


75

左がサンクスで、この場所は車をサンクスに止めることができるので、見に行きやすいと思う(写真76、77)。


76


77

 ここからすぐ先が、石神地区で、渥美線最大の遺構である盛土区間となる(写真78)。ここからサンクス側をみたところ(写真79)。写真75の工杭のところへ一直線で路盤はあった。


78


79

・石神付近盛土区間
  国道259号石神交差点、飲食店「むらかみ」があるところの前後区間は、鉄道の築堤(盛土区間)が当時のまま残っている、渥美線未成線区間のハイライトと言っても良いところだ。約80年前から使われていない土木構造物がしっかりと残っているのは奇跡と思う。今後も保存していくように行政は動かないだろうか。戦前の貴重な歴史的構造物だと思うが。
 盛土区間である(写真80、81、82)。


80


81


82

盛土区間を横から見たところ(写真83、84、85)。


83


84


85

石神交差点には両側に盛土が残る(写真86,87、88)。


86


87


88

以前はここにも架道橋があったらしいが、とっくの昔に撤去されたようだ。盛土区間は福江方向に国道と平行していく(写真89、90)。


89


90

この盛土区間には2箇所、架道橋が現存している(写真91、92)。


91


92

この先に盛土部分に登れるところがあった(写真93、94)。


93


94

付近には工杭もある(写真95)。その先盛土区間は続き(写真96)、ここで終わる(写真97)。ここから先は土地改良された畑の中を通り、路盤跡の痕跡は一切残っていない。


95


96


97



・高木-福江
 国道259号を石神交差点から福江方向に行くと、旧道からバイパス区間へのクランクとなっている高木東交差点までは唯一この区間だけ国道に歩道がなく、路肩も大変狭く国道を歩くのは大変危険でもあり、また車にも迷惑なので、少し迂回するが畑の中の道へ入って遠回りして、高木東交差点付近(写真98、99)へたどり着いた。


98


99

ここから、路盤跡はこのバイパス国道の福江方向右側を通っていて、一部、路盤跡が道路敷地となっている。路盤の痕跡はないけれど、所々に工杭が残っている(写真100、101、102)。


100


101


102

国道から数メートル入った民地に工杭があるのだけど、何で国道バイパス用地として路盤用地をすべて取り込まなかったのか不思議である。路盤用地は民間に払い下げ済みだったのか。路盤用地が全部自治体に払い下げられていれば、路盤用地はすべて道路用地に取り込まれて、工杭の痕跡もなくなっていたと思う。

・福江駅予定地
 建設着工区間の終点は、現在、田原消防署渥美分署となっている敷地が、福江駅予定地である(写真103)。当時は駅舎やホームまで完成していたと、参考文献には書かれている。現在では工杭も含めて、痕跡は皆無である。


103


 3)福江-堀切(計画区間 用地買収のみ)
 この区間約6キロは用地買収のみが進められ、用地取得は完了した。工杭があちこちに残っていたようだが、現在ではほとんど残っていないようだ。
 終点の堀切駅予定地付近は、山貞商店があるあたり(写真104)である。

写真104準備中


ここまで鉄道が開通していたら、渥美半島はどのように発展していたのだろうか。それとも全国に数多かった赤字ローカル線として、とっくの昔に廃止されていたのだろうか。
渥美半島において伊良湖まで鉄道が開通していたとしても、名古屋直結で名鉄が走る知多半島とは条件も違うので発展性は乏しく、鉄道の存続は怪しかったと想像される。



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この記事へのコメント
興味深く拝見しました。
お疲れ様です^^
これからも楽しみにしています。
Posted by きすみれ at 2013年06月24日 09:40
はじめまして
私も廃線が好きで、たまたま伊良湖に遊びに行った帰りに、福江のあたりで偶然に架道橋を見つけて「もしや」と思い検索したらこのブログに辿り着いた次第です。
なかなか興味深い記事で大変参考になりました。
Posted by さすらい at 2017年02月25日 17:38