2017年07月09日

肥薩線大畑駅

スキャンした写真を見ていて、肥薩線大畑駅の写真を集めました。

昭和55年と平成3年に撮影したものを対比して並べました。

駅舎 





時刻表





ホームから
















ループ線案内標柱

昭和55年

以下は平成18年



  

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2016年04月10日

名松線 復活

今回のダイヤ改正で、名松線の家城-伊勢奥津間が復旧した。
中部地方ではそれなりにニュースとなっていて、まずはめでたい。
正直、私としては北海道新幹線の開業よりも、こちらの方が嬉しかった。

名松線は、名張と松坂を結ぶことを目的に建設されたが、途中の伊勢奥津でストップしてしまった、中途半端な路線ではある。
台風で利用者の少ない末端区間が不通となり、放置されてきたが、地元とJRで負担しあってやっと復旧した。
民間企業のJRとしては復旧に金などかけず、、採算の見込めない区間は廃止したかったのだろう。
ニュースで観た地元の熱意、鉄道で行けるところへはクルマを使わずに、ぜひとも名松線を使ってほしいと思うけれど、いかんせん、本数が少ない。

そんな名松線、伊勢奥津駅を昭和61年に撮った写真があったので。










  
キハ58とキハ30の2両編成でした。






古い駅舎。この頃はローカル線では当たり前の風景でした。








駅前の風景






蒸気機関車時代の給水塔、木柱とホーローの駅名標





この先、名張まで結ばれることはなく・・・








松坂と伊勢奥津を結んでいた証

これらの風景が今でも残っていたら、歴史遺産として、肥薩線のようにしたら、観光客をたくさん呼べたのかもしれません。







  

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2015年12月06日

昭和の首都圏

昭和50年代前半のものです。
東京近郊区間大回り乗車のときに撮ったものなどです。
はっきり言って、へたくそな写真ばかり。
今となっては貴重な風景ということで・・・



茅ヶ崎駅で発車を待つ、相模線の橋本行きのキハ20です。


同じくその車内。蛍光灯ではなく白熱灯の照明が天井にあります。



八王子駅で発車を待つ、八高線の高崎行きのキハ35です。



東飯能駅で発車を待つ、川越線の大宮行きのキハ35 900番台です。アルミ車体の試作車両でした。



品川駅で東京着のブルトレを、この場所でよく撮りました。背景の鉄橋は京浜急行の線路です。


品川駅ホームの田町よりからは、品川客車区で休む九州ブルトレ群を撮影できました。


新幹線も撮ったり。



場所を移動して、浜松町駅ホームから。
東海道線の電車、先頭に郵便荷物車も連結されていました。


ここからも新幹線を撮影。流し撮りの練習でもしていたのかな。


以下は、与野-大宮間です。

古~い、荷物電車。


20系の北陸号。




20系のあけぼの号。


ゴハチ牽引のなんでしょうか?


これもゴハチ牽引の20系。






EF15もたくさん走っていました。


旧客を牽くゴハチ。長距離鈍行か急行列車か?




  

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2015年11月15日

昭和の北海道2

昭和の北海道、続きです。


網走駅0番ホームの湧網線の気動車。
ローカル線は、始終点の幹線駅の0番ホーム発着が多かったです。



中湧別駅
湧別-中湧別間は盲腸線でした。


途中に「四号線」という臨時乗降場がありましたが、全国版時刻表には載っていないもので、北海道にはいくつかそういう駅がありました。





湧別駅は結構乗降客も多くて、立派な駅でした。



厚床駅





富内駅






日高町駅



十勝三股駅は、代行バスで運行を続けた列車運行休止線でしたが、そのまま本体そのもの廃止されました。
  

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2015年11月15日

昭和の北海道

「昭和の・・・シリーズ」です。

今回は北海道。
大学生のとき、乗りまわった北海道内の国鉄。
今は亡きローカル線も、多数写真があります。





湧網線 常呂駅



函館本線 森駅





名寄駅 
急行天北が増結されるところ



釧網本線
客車列車の交換















三菱 南大夕張駅
映画「駅」の世界そのものです。
寂れた炭鉱の街の夕景は、心に深く残っています。
私が、「効率」とか「競争」とか「改革」とか「コスト」とかいう世の中の風潮に疑問を持つきっかけとなった風景かもしれません。
宮脇俊三の著書の中に「不満の多い人は、一度夕張に行くとよい」というような趣旨のことが書かれていました。その言葉がよく理解できる、南大夕張駅前の風景でした。
3軸ボギー台車はジョイント音が、独特の走行音がしました。
普通の2軸台車なら、「タタッ、タタン」だけど、3軸は「タタタン、タタタン」と。
客車はストーブ列車、それが当たり前の風景でした。







音威子府駅に進入する急行「天北」は、晩年は14系客車になりました。
そして、直後に天北線は廃止されました。あれから30年近く経ちます。










  

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2015年11月14日

肥薩線

高校生のときに旅した肥薩線、人吉-吉松間です。
この頃は普通列車は、貨物と旧客が混結された混合列車でした。
さすがにこの頃でも、全国的に珍しいものでした。大畑駅周辺のループ線、真幸駅の京都の寺社庭園のごとき掃き清められ模様のついたホームなどなど、とても良い雰囲気の区間でした。
今ではそれを利用した観光路線に特化し、たくさんの観光客が訪れる路線となりました。

昭和55年の写真です。

真幸駅









大畑駅














矢岳駅





連結しているのは貨物




昭和58年頃
大学時代に行ったとき、駅長さんに駅舎内に招かれました。














  

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2015年11月08日

鉄道の蒸気暖房

鉄道の暖房は電気暖房が当たり前だが、ひと昔前まで走っていた客車列車の暖房は、機関車から供給される蒸気によるものだった。
20系の誕生以来、固定編成の客車は電源車から供給される電気による暖房となったり、北陸線や東北線の客車は旧型であっても、機関車から供給される電気暖房が併設され電気が主であった。機関車のSG非搭載が多かったのだろう。その代わり客車牽引用のED75などには、電暖供給中を示す機関車のオレンジ色の側灯が輝いていた。
晩年まで蒸気暖房だったのは、山陰本線や九州と北海道だった。

もともと蒸気機関車時代は、動力用の蒸気を客車にも回して暖房していた。しかし、ディーゼル機関車や電気機関車となると、暖房用の蒸気発生装置(SG:Steam Generetor)を搭載して蒸気を供給していた。

蒸気暖房は、客車の壁際の足元に沿ったカバーの中にパイプが通り、その中に蒸気を循環させて車内を暖めた。車内に流量調整用のバルブがあり、車掌さんがときおりバルブを調整して車内温度を保っていた。
蒸気暖房はとても心地よいもので、電気暖房よりも優しく感じた。真冬の朝、始発列車に乗り込むと、機関車が連結されて蒸気がパイプの中を循環し始めて、熱により冷えていたパイプが膨張する「カキン、パキン」という独特の音がしたものだ。あの雰囲気はよかった。

それと気動車も昔は基本、蒸気ではないけれど、エンジンの熱で温まるラジエーター水を車内に回して暖房していたので、電気暖房とは違う良さを感じます。こちらも車掌さんが車内のバルブを調整して車内温度を調整していました。
クルマと同じ仕組みですね。
でも、最近の気動車はエンジンで発電している電気を使った暖房なのかな?



蒸気暖房の列車です。


こんなふうに、各車両から蒸気をもうもうと吐き出していました。




機関車のSGから立ち上る蒸気。









ゴハチにもSGが搭載されていました。牽引している荷物列車は「貨物」ではなく、旅客列車です。



北海道のED76 500番台牽引、14系ニセコ号です。
地平ホーム時代の札幌駅。





はやぶさとの交換待ちの鹿児島本線単線区間の旧客列車も、冬は蒸気を吐いていました。


今でも、JR東のイベント用の蒸気機関車運転の旧型客車なら、蒸気暖房だと思います。客車が12系とかだとディーゼル発電機の電気暖房だから、蒸気は使いません。「北びわこ号」とかですね。
大井川鉄道の蒸気機関車なら、客車は蒸気暖房です。
  

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2015年10月25日

ブルトレブームの頃

昭和50年代、東京駅や上野駅には休日ともなればたくさんの子供たちが集まっていました。
中心層は小学生、中学生です。
発着するブルトレを見に、撮りに、たくさん集まっていました。







はやぶさは、神田方で機回しを済ませて、ヘッドマークを見せて神田方から入線します。












12番線のみずほは、品川方から機関車を先頭に東京駅12番線に入線後、機関車を切り離して機関車は神田方へ引き上げ、機回し線の11番線を通り、機関車は品川方へ、そして12番線にある客車に連結していました。
こういった一連の作業を見るのは、本当に楽しかったものです。

今は、機回し用のの11番線はおろか、12、13番線もありません。12、13番ホームは、東海道線の優等列車、特急を「特別急行」と呼んでいた頃の優等列車専用の、誉れ高いホームでした。夕方、さくら、はやぶさ、みずほと15分おきに出発していくさまは壮観でした。そして暗くなる頃、富士、あさかぜ、瀬戸、出雲と続き、深夜のトリは急行銀河でした。



さくらが発車を待つ12番線。ここでブルトレ群を眺めながら、心は九州を夢見ていました。


今、北斗星やトワイライトの廃止騒ぎとかに集まる世代よりも、はるかに低年齢層が主だったのが昭和のブルトレファンでした。大人は鉄道には一般に興味はなかった時代で、鉄道ファンを自認するのは憚れた時代でした。ブルトレは子供の趣味みたいな見られ方でした。
今は鉄道趣味が一般化して、昭和の時代には皆無だった女子の鉄道マニア、鉄子さんまで一般化するなんて、当時と比較すると夢のようです。  

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2015年10月24日

昭和の川越線 

大学生のとき、昭和58年頃でしょうか。
川越線の川越から大宮までの各駅舎を撮影しました。
鉄研の研究課題のため、先輩からの指令だったような気も・・・

川越駅西口

とってもローカルです。西口は国鉄の駅舎、東口は東武東上線の駅舎で、ともに共用でした。
西口は駅員がいないことがたびたびあって、無札でも通過できることが多かったです。
東武の東口がはるかに賑やかでした。
西口の風景、今では信じられないですね。


南古谷駅




指扇駅

入口の売店、キオスクが懐かしいです。


日進駅

こちらもキオスクがあります。

南古谷、指扇、日進、みんなほとんど同じ構造の駅舎ですね。


大宮駅

西口(新幹線口)です。まだ東北新幹線が開業して間もない頃です。



荒川橋梁での風景

のどかな3両編成です。



貨物列車も走っていました。



沿線にはハエタタキの残骸が残っています。
  

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2015年09月02日

山陰本線 仁万駅

山陰本線の仁万駅。
なんの変哲もない、ローカル駅。

昭和59年頃、大学生の時に撮ったこの写真。



50系客車を牽くDD51、良い絵です。
結構気に入ってます。
この頃は、たくさん高校生が乗っていました。
ちょうど下校時間です。
今は少子化の影響か、ローカル線に乗っても通学の高校生の数は昔に比べて減ったように思います。


これは平成10年にクルマの旅の途中に立ち寄った仁万駅での写真。




だいたい同じ場所ではないでしょうか。
両方の写真とも、季節と撮影時刻はほぼ同じの夕方です。

約30年前と、約15年前、今はどうなんでしょうか。
15年前は走っていたキハ58も、今はありません。


  

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2015年08月15日

ユーロライナーのこと

今は存在していないと思うけれど、JR東海には「ユーロライナー」という客車がありました。
座席や個室寝台や最後部展望席もあった楽しい車両でした。

平成2年の冬、名古屋駅発長野行のシュプール号として運転されたときに、ユーロライナーに乗りました。
その時の写真を、フィルムスキャンしていて見つけました。
列車名は「シュプール ユーロ赤倉志賀」です。
ユーロ塗装の中央線用のEF64が牽引機です。




職場の人と四人で乗り込みました。目的は野沢温泉でのスキー。
車内で始まった大宴会。
まったく記憶に残っていなかったけれど、写真は残っています。
サロン室?娯楽室?食堂車?(食堂車はなかったなあ)、なんだかわからないけれど、そこでカラオケなんかをやっています。




歌っているのは、まだ20代だった頃の私。
この写真を発見するまで、まったく記憶にありませんでした。列車の中で歌ったのは、後にも先にも、このときだけだと思います。
タダで歌えたのか、他の客といっしょだったのか、システムはとうだったのか、スナックみたいだったのか、セルフサービスだったのかまったくわかりません。記憶がありません。
車掌さんも笑っています。




カウンターみたいな、テーブルがあって、やっぱりスナックみたいです。有料だったのかなあ。




中央西線、名古屋と長野の間は急行「きそ」という夜行列車が昔、ありました。それが廃止されたのちも、大阪ー長野間の夜行急行「ちくま」があったけれど、これもずっと前に廃止されましたが、この頃はまだ走っていました。
このユーロライナーもそういう列車の臨時スジみたいに運行されていたのかな。時刻表とかは残っていません。
(探したらあるかも・・・)

シュプール号という列車。バブルの頃は各地で走っていた、特にJR西と東がたくさん走らせていた記憶があるけれど、この制度もなくなって久しいです。
  

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2015年08月06日

川越線 昔景色

ネガをスキャンした写真を見ていて、見つけたものです。





背景に見える川越駅西口、ど田舎の風景です。
現在は駅前広場が整備され、立体遊歩道やビルが林立しています。
今、同じ位置を特定することも難しいし、このように駅前を見通せる写真を撮ることは、不可能です。



キハ35の車内。
今では信じられないくらい空いていて、のどかです。
この頃は日中は1時間に1本、走っているかどうかでした。



沿線にはハエタタキも残っていました。



大宮駅も今とは雰囲気が違います。
ホームの長椅子、その横のゴミ箱(分別なんて概念はなかった)、そして水飲み。
ホームの水飲みはどこでも必ずあって、喉を潤おせました。今はまずありません。冷水器も見かけなくなりましたね。デパートの階段の踊り場とかに必ずあったのに。
水は金を出してペットボトルを買え、という時代になってしまいました。水道水を飲みたがらない人が増えたせいもあるとおもうけれど。


これらの写真は昭和52年頃かな。
私が中学生の頃。  

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2015年07月23日

2015年07月12日

奥羽本線 板谷峠

カラーネガのスキャン、デジタル化を地道にしています。

そんな中の写真です。

今は山形新幹線が走る奥羽本線、板谷峠。
昔の、といっても平成の初め頃、電気機関車が50系客車を牽く時代です。










峠の力餅も売っています。



スイッチバックの折り返し、行き止まり部分はトンネル。

  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 鉄道の風景

鉄道の景色です。列車は映っていなくても鉄道写真です。



山陰本線の大田市から益田にかけての区間は、海沿いの風光明媚か区間を走ります。
旧客の鈍行に揺られて何時間も過ごすのは、最高のときでした。がらがらの車内、夏ならば窓を全開にして外の空気とDD51の排気ガスを浴びながら、季節と土地の匂いを感じました。駅に止まると先頭からかすかに聞こえるDD51のアイドリングの音以外、外からは何も聞こえません。車内は天井の扇風機がカラカラと回転している音だけがします。そして、汽笛がポッっと鳴り列車がゴトリと音もなく動きます。旧客のボックスシートを独り占めしてこんな景色を眺めながらの旅は二度とできません。





豊肥本線の立野のスイッチバックを通っているときの写真です。





肥薩線の大畑駅。現在は「いさぶろう」「しんぺい」号などの観光列車が走り、観光地化して脚光を浴びていますが、当時は鉄道ファンがたまに乗り降りするくらいでした。
貨物と旧客の混合列車が走っていました。そんなガラガラの車内からの一枚です。





地上時代の札幌駅改札口にて。北海道の駅はほとんどの駅が列車別改札、本数が少ないので列車が到着するまではホームへ入れてもらえませんでした。しかし、さすがに札幌駅は常に改札口が開いていました。そんなことを思い出します。

  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 昭和50年代 雪国

雪景色は特別です。雪に埋もれた線路を列車が通過すると、2条の鉄の道が現れて、そしてすぐに雪に埋もれていきます。







  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 昭和50年代後半

白黒写真しか撮らなかった学生時代。自分で現像、引き伸ばしするためでした。



基本、三脚は使わない主義ですので、手持ち撮影です。1/15くらいのスローシャッターだったと思うけれど、多少ブレています。今のデジカメみたいに手ブレ補正なんてない時代、くそ重いF-1とズームレンズはどっしりしていて良かったです。





右の50系、益田発出雲市行きに乗車しています。待避交換待ちで何度も長時間停車しました。そんな駅のひとつ、三保三隅駅も良い駅です。特急「おき」の通過待ち、気動車の普通との交換で20分近く停車しました。





北陸トンネルの今庄方の出口です。北陸トンネルを出た直後に短いトンネルがあります。雑誌などにもよく掲載された、撮影場所です。「白鳥」が懐かしいです。





鳥栖発西鹿児島行きの旧客鈍行に乗ったときのもの。「はやぶさ」との交換待ちで撮りました。あまり記憶がないのだけど、乗ったからこういう写真があるのでしょう。




田原坂かな?あまり記憶ありません。真夏の日差しがよくわかります。ボンネットの481系が疾走していました。781系の今の九州は進化しました。


懲りずに、続きます。







  

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2015年04月12日

お気に入りの写真 昭和50年代 東海道本線

今は亡き、東海道本線のブルトレ。
主に高校時代に撮ったものです。

すべて手持ち撮影。
ネガそのものの写真、トリミングも補正も一切していません。
昔はこれくらい、手巻きのF-1で、一発勝負で撮れたんだけどなあ。





東海道本線 三島-函南は超有名撮影地でした。早朝東京へ向かうブルトレ群を撮るために、高校生の時は三島に宿泊などという贅沢は出来ません。唯一東京を朝一番の始発普通電車に乗れる日、それは都内と近郊で終夜運転が行われる大晦日から元旦にかけて。元旦の早朝(深夜?)に家を出て、終夜運転の電車で品川駅へ向かい、4時代の始発で三島へ向かいました。駿豆線と徒歩で現地入りし、超有名地で撮ることが出来たのです。















この24系25型のシルエット写真、結構気に入っています。
霧が出て撮影をあきらめていたとき、横を通過しているとき偶然撮影したもの。



もうひとつの有名撮影地、根府川鉄橋と早川-根府川間。こちらは度々通いました。












雨の中を疾走する「踊り子」号。わざと粒子を荒くして引き伸ばしました。こういう雰囲気の写真はデジカメでは出せない気がします。



今度は、大船-藤沢間のカーブ。藤沢駅から徒歩15分くらいの場所です。




ここでも富士山をバックに撮れました。







藤沢は、気軽に行ける場所でした。

また続けます。

  

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2015年04月12日

お気に入りの写真 昭和60年前後

昭和50年代後半から60年頃に撮った、お気に入りの写真です。
四つ切りの白黒写真をスキャンしました。
すべて、キャノンF-1、FD35~105ミリF3.5で撮影しています。
フィルムはトライX、自分で現像、引き伸ばししたものです。




山陰本線 仁万駅です。
益田発出雲市行き、DD51牽引の50系です。
この列車は夜行の上りながさき号から門司で乗り換えて、昼間の山陰本線を乗り継いで、出雲市で夜行山陰号京都行きに繫ぐことが出来る列車で、青春18きっぷでよく乗った列車です。
下校の高校生で賑わっています。この頃の地方のローカル列車は通学の高校生で賑わっていたものです。乗り合わせると混むしうるさいわで迷惑だったけれど、高校生が利用しなければ地方の鉄道は保たないでしょう。





山陰本線 餘部鉄橋です。
旧客を牽くDD51の編成です。初冬の陰鬱とした山陰特有の天気でした。
餘部は本当に何度も通いました。





同じく餘部鉄橋。この年の12月ダイヤ改正で、山陰本線から旧客は姿を消しました。その直前の写真です。
この写真を撮った約1ヶ月後、昭和61年の暮れも迫った頃、強風によりお座敷列車の落下事故が起こりました。DD51だけが鉄橋上に残り、後ろの客車がすべて落下して下のカニ加工工場を直撃、列車乗務員と工場従業員に多数の死傷者を出した悲劇でした。餘部鉄橋本体への補強工事のため橋の構造バランスが崩れたため、強風で橋自体がよじれたのも原因との説もあります。橋直下には慰霊碑があります。
その後、風速規制が厳格になり、冬期の餘部での運転抑止のため山陰本線のダイヤが乱れることが多くなりました。客車転落事故を契機に、現在のコンクリート橋への付け替えにつながりました。
いつぞやか、私が乗ったキハ58の普通列車が餘部を通過するまさにその時、橋上で強い横風を受けて、列車がドンと横に揺れたのを経験したこともあります。その時は、規制はかかっていなかったけれど、ちょうど橋上で強風の直撃を受けて、橋通過後に餘部駅へ停車して後部運転席越しに後ろを見ると、橋の手前にある強風規制の警告灯(丸く配置された5つの赤色灯がぐるぐる回り点滅するもの)が点灯していました。車掌も気づいて、ちょうど通過中に風が吹いて点いたんだなと話ました。





音威子府駅に停車中の、稚内行き急行「天北」です。雪の中を俯き歩く下車客とキハ56、好きな写真です。BGMには北の演歌ですね。
旭川発稚内行きの旧客鈍行に乗ったとき撮った写真です。待避交換待ちで長時間停車しました。音威子府駅ホームのそばは有名でした。今は駅構内で営業しているそうです。




札幌駅で発車を待つ、上り函館行き急行「ニセコ」です。
まだ地上駅だった頃の札幌駅です。
14系客車のニセコは、特急に比べて空いていて、好きな列車でした。ワイド周遊券で特急に乗れるようになっても、私はこちらを愛用していました。





金沢駅を発車した上野行き特急「白山」です。
こちらもまだ地上駅の頃の金沢駅です。
流し撮りとズーミングを同時にやって、バッチリ決まった写真なので、気に入っています。なかなかこうはうまくいきません。マニュアルでのピント合わせ、流し、ズーミング。今の方が私、写真が下手になったみたいです。
駅員さんも絶妙な位置とポーズです。


また、写真を探して、続くかも。


  

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2014年05月16日

ハエタタキ

 「ハエタタキ」と言っても、害虫のハエをたたくやつではありません。
 昔、線路脇に線路に沿って張られていた通信ケーブルを懸架する電柱のことです。
 当時、通信線は一本の電線に複数回線(流れていた情報が鉄道電話とか、信号データなのか知りませんが?)を流す技術がなかったのか、何十本、何百本もの細い電線が線路に沿って張られていました。
 その電線を懸架する電柱にはたくさんの横張りがあり、たくさんの電線が縦横に張られていて、見た目がハエタタキに見えたのです。
 幹線系のは、通信量も多く、電線の本数もたくさんで、ハエタタキも大きなものでしたが、ローカル線だと通信量も少ないのか、小さいものでした。

 写真があれば良いのだけど、自分で撮ったものが見当たりません。
 どっちかと言うとあれは、撮影の邪魔だったので、あえて写り込まないようにしていたような気もします。

 しかし、あれも私が小学生時代くらいまでしかなかったような気がします。
 私が写真を本格的にやり始めた中学生の頃(昭和50年代)には、すでに幹線沿いからは消滅していたような。

 たまにローカル線に行くと、小規模なハエタタキの残骸が残っていたくらいでした。

 光ケーブルとか、携帯のデータ通信とかなんとか、現代では考えられない通信技術の時代でした。

 昔の映画とかで、ハエタタキが見える鉄道風景を見ると、とても懐かしくなります。
  

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