2015年07月12日

奥羽本線 板谷峠

カラーネガのスキャン、デジタル化を地道にしています。

そんな中の写真です。

今は山形新幹線が走る奥羽本線、板谷峠。
昔の、といっても平成の初め頃、電気機関車が50系客車を牽く時代です。










峠の力餅も売っています。



スイッチバックの折り返し、行き止まり部分はトンネル。

  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 鉄道の風景

鉄道の景色です。列車は映っていなくても鉄道写真です。



山陰本線の大田市から益田にかけての区間は、海沿いの風光明媚か区間を走ります。
旧客の鈍行に揺られて何時間も過ごすのは、最高のときでした。がらがらの車内、夏ならば窓を全開にして外の空気とDD51の排気ガスを浴びながら、季節と土地の匂いを感じました。駅に止まると先頭からかすかに聞こえるDD51のアイドリングの音以外、外からは何も聞こえません。車内は天井の扇風機がカラカラと回転している音だけがします。そして、汽笛がポッっと鳴り列車がゴトリと音もなく動きます。旧客のボックスシートを独り占めしてこんな景色を眺めながらの旅は二度とできません。





豊肥本線の立野のスイッチバックを通っているときの写真です。





肥薩線の大畑駅。現在は「いさぶろう」「しんぺい」号などの観光列車が走り、観光地化して脚光を浴びていますが、当時は鉄道ファンがたまに乗り降りするくらいでした。
貨物と旧客の混合列車が走っていました。そんなガラガラの車内からの一枚です。





地上時代の札幌駅改札口にて。北海道の駅はほとんどの駅が列車別改札、本数が少ないので列車が到着するまではホームへ入れてもらえませんでした。しかし、さすがに札幌駅は常に改札口が開いていました。そんなことを思い出します。

  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 昭和50年代 雪国

雪景色は特別です。雪に埋もれた線路を列車が通過すると、2条の鉄の道が現れて、そしてすぐに雪に埋もれていきます。







  

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2015年04月13日

お気に入りの写真 昭和50年代後半

白黒写真しか撮らなかった学生時代。自分で現像、引き伸ばしするためでした。



基本、三脚は使わない主義ですので、手持ち撮影です。1/15くらいのスローシャッターだったと思うけれど、多少ブレています。今のデジカメみたいに手ブレ補正なんてない時代、くそ重いF-1とズームレンズはどっしりしていて良かったです。





右の50系、益田発出雲市行きに乗車しています。待避交換待ちで何度も長時間停車しました。そんな駅のひとつ、三保三隅駅も良い駅です。特急「おき」の通過待ち、気動車の普通との交換で20分近く停車しました。





北陸トンネルの今庄方の出口です。北陸トンネルを出た直後に短いトンネルがあります。雑誌などにもよく掲載された、撮影場所です。「白鳥」が懐かしいです。





鳥栖発西鹿児島行きの旧客鈍行に乗ったときのもの。「はやぶさ」との交換待ちで撮りました。あまり記憶がないのだけど、乗ったからこういう写真があるのでしょう。




田原坂かな?あまり記憶ありません。真夏の日差しがよくわかります。ボンネットの481系が疾走していました。781系の今の九州は進化しました。


懲りずに、続きます。







  

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2015年04月12日

お気に入りの写真 昭和50年代 東海道本線

今は亡き、東海道本線のブルトレ。
主に高校時代に撮ったものです。

すべて手持ち撮影。
ネガそのものの写真、トリミングも補正も一切していません。
昔はこれくらい、手巻きのF-1で、一発勝負で撮れたんだけどなあ。





東海道本線 三島-函南は超有名撮影地でした。早朝東京へ向かうブルトレ群を撮るために、高校生の時は三島に宿泊などという贅沢は出来ません。唯一東京を朝一番の始発普通電車に乗れる日、それは都内と近郊で終夜運転が行われる大晦日から元旦にかけて。元旦の早朝(深夜?)に家を出て、終夜運転の電車で品川駅へ向かい、4時代の始発で三島へ向かいました。駿豆線と徒歩で現地入りし、超有名地で撮ることが出来たのです。















この24系25型のシルエット写真、結構気に入っています。
霧が出て撮影をあきらめていたとき、横を通過しているとき偶然撮影したもの。



もうひとつの有名撮影地、根府川鉄橋と早川-根府川間。こちらは度々通いました。












雨の中を疾走する「踊り子」号。わざと粒子を荒くして引き伸ばしました。こういう雰囲気の写真はデジカメでは出せない気がします。



今度は、大船-藤沢間のカーブ。藤沢駅から徒歩15分くらいの場所です。




ここでも富士山をバックに撮れました。







藤沢は、気軽に行ける場所でした。

また続けます。

  

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2015年04月12日

お気に入りの写真 昭和60年前後

昭和50年代後半から60年頃に撮った、お気に入りの写真です。
四つ切りの白黒写真をスキャンしました。
すべて、キャノンF-1、FD35~105ミリF3.5で撮影しています。
フィルムはトライX、自分で現像、引き伸ばししたものです。




山陰本線 仁万駅です。
益田発出雲市行き、DD51牽引の50系です。
この列車は夜行の上りながさき号から門司で乗り換えて、昼間の山陰本線を乗り継いで、出雲市で夜行山陰号京都行きに繫ぐことが出来る列車で、青春18きっぷでよく乗った列車です。
下校の高校生で賑わっています。この頃の地方のローカル列車は通学の高校生で賑わっていたものです。乗り合わせると混むしうるさいわで迷惑だったけれど、高校生が利用しなければ地方の鉄道は保たないでしょう。





山陰本線 餘部鉄橋です。
旧客を牽くDD51の編成です。初冬の陰鬱とした山陰特有の天気でした。
餘部は本当に何度も通いました。





同じく餘部鉄橋。この年の12月ダイヤ改正で、山陰本線から旧客は姿を消しました。その直前の写真です。
この写真を撮った約1ヶ月後、昭和61年の暮れも迫った頃、強風によりお座敷列車の落下事故が起こりました。DD51だけが鉄橋上に残り、後ろの客車がすべて落下して下のカニ加工工場を直撃、列車乗務員と工場従業員に多数の死傷者を出した悲劇でした。餘部鉄橋本体への補強工事のため橋の構造バランスが崩れたため、強風で橋自体がよじれたのも原因との説もあります。橋直下には慰霊碑があります。
その後、風速規制が厳格になり、冬期の餘部での運転抑止のため山陰本線のダイヤが乱れることが多くなりました。客車転落事故を契機に、現在のコンクリート橋への付け替えにつながりました。
いつぞやか、私が乗ったキハ58の普通列車が餘部を通過するまさにその時、橋上で強い横風を受けて、列車がドンと横に揺れたのを経験したこともあります。その時は、規制はかかっていなかったけれど、ちょうど橋上で強風の直撃を受けて、橋通過後に餘部駅へ停車して後部運転席越しに後ろを見ると、橋の手前にある強風規制の警告灯(丸く配置された5つの赤色灯がぐるぐる回り点滅するもの)が点灯していました。車掌も気づいて、ちょうど通過中に風が吹いて点いたんだなと話ました。





音威子府駅に停車中の、稚内行き急行「天北」です。雪の中を俯き歩く下車客とキハ56、好きな写真です。BGMには北の演歌ですね。
旭川発稚内行きの旧客鈍行に乗ったとき撮った写真です。待避交換待ちで長時間停車しました。音威子府駅ホームのそばは有名でした。今は駅構内で営業しているそうです。




札幌駅で発車を待つ、上り函館行き急行「ニセコ」です。
まだ地上駅だった頃の札幌駅です。
14系客車のニセコは、特急に比べて空いていて、好きな列車でした。ワイド周遊券で特急に乗れるようになっても、私はこちらを愛用していました。





金沢駅を発車した上野行き特急「白山」です。
こちらもまだ地上駅の頃の金沢駅です。
流し撮りとズーミングを同時にやって、バッチリ決まった写真なので、気に入っています。なかなかこうはうまくいきません。マニュアルでのピント合わせ、流し、ズーミング。今の方が私、写真が下手になったみたいです。
駅員さんも絶妙な位置とポーズです。


また、写真を探して、続くかも。


  

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2014年05月16日

ハエタタキ

 「ハエタタキ」と言っても、害虫のハエをたたくやつではありません。
 昔、線路脇に線路に沿って張られていた通信ケーブルを懸架する電柱のことです。
 当時、通信線は一本の電線に複数回線(流れていた情報が鉄道電話とか、信号データなのか知りませんが?)を流す技術がなかったのか、何十本、何百本もの細い電線が線路に沿って張られていました。
 その電線を懸架する電柱にはたくさんの横張りがあり、たくさんの電線が縦横に張られていて、見た目がハエタタキに見えたのです。
 幹線系のは、通信量も多く、電線の本数もたくさんで、ハエタタキも大きなものでしたが、ローカル線だと通信量も少ないのか、小さいものでした。

 写真があれば良いのだけど、自分で撮ったものが見当たりません。
 どっちかと言うとあれは、撮影の邪魔だったので、あえて写り込まないようにしていたような気もします。

 しかし、あれも私が小学生時代くらいまでしかなかったような気がします。
 私が写真を本格的にやり始めた中学生の頃(昭和50年代)には、すでに幹線沿いからは消滅していたような。

 たまにローカル線に行くと、小規模なハエタタキの残骸が残っていたくらいでした。

 光ケーブルとか、携帯のデータ通信とかなんとか、現代では考えられない通信技術の時代でした。

 昔の映画とかで、ハエタタキが見える鉄道風景を見ると、とても懐かしくなります。
  

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2014年03月22日

品川駅ホーム ビアガーデン

 昨日、風呂に入っているとき、ふと思い出しました。
 昭和の終わり頃か平成の初め頃か、品川駅のホームで夏季限定でビアガーデンが営業していたのです。
 3シーズンくらいやっていたかな?記憶は定かではありません。
 品川駅にはほとんど列車が発着していない、要するに使っていないホームが2面4線くらいありました。
 その遊休ホームでやっていたのです。

 写真ありました。写っているのは若かりし頃(25年前)の私。
 東海道線の113系がお隣に止まっています。
 平成元年です。




 品川駅は東海道本線のダイヤが乱れたときなどに、優等列車を東京駅まで行かせずに品川駅で折り返すような機能を持っていました。昔のように優等列車が多かった時代、新幹線が開業する前などは特にそういう機能がありました。
 東京駅ホームに余裕がないので、臨時列車とかも品川駅発着が多くありました。晩年まで、銀河五十何号とかや臨時の大垣夜行とかが、品川発着でした。
 そんな、新幹線の品川駅が出来るまでの品川駅は、なんとなくのどかな雰囲気が残っていました。今では新幹線の駅も出来て、海側も開発され尽くされて高層ビルが立ち並び、コンコースを歩く人の数も当時とは比べようもないくらい多いです。昔の海側の改札口は閑散としていて、駅前も鄙びていました。

 品川駅、間近に東海道線や京浜東北線の電車を見ながらのホームのビアガーデンは最高でした。鉄にとってこんな最高のロケーーションは他にありません。
 今では品川駅にそんな余裕はないし、いろんな規制面からありえないでしょうね。

 この頃はまだ、汐留駅も生きていました。汐留駅は第一級の産業遺産であったはずなのに、再開発でつぶされました。あそこを明治時代の鉄道発祥の地として整備、復元していたらと思います。そこに鉄道博物館でも作っていたらと。現在、万世橋駅は復元されたではないですか。あと10年違っていたら、汐留駅跡地の活用策は変わっていたかもしれません。
 
 今、最新の高層ビルが立ち並ぶ汐留駅跡地を見ると、貴重な歴史財産、産業遺構を捨ててしまった判断を、私は疑問視します。  

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2014年02月18日

急行 かいもん・日南

 昭和の時代までだったか、いつ廃止されたかよく覚えていませんが、九州島内にはふたつの夜行急行列車が走っていました。
 どちらも、門司港と西鹿児島を結んでいた、「かいもん号」と「日南号」です。「かいもん」は鹿児島本線経由、「日南」は日豊本線経由です。「日南」は末端の宮崎と西鹿児島間は普通列車で、北九州と宮崎を結ぶ役割でした。「日南」の上り、西鹿児島発は通勤列車でした。
 「かいもん」、「日南」ともに編成は12系客車の自由席と指定席、そして20系寝台車を連結していました。12系と20系客車は電源の仕組みが違うので、混結に際しては、20系が12系から電気を得るために改造したとか聞きました。

 「かいもん」、「日南」ともに盆暮れ正月以外は空いていました。夏休みでもピーク時以外はワンボックス2人程度でした。九州ワイド周遊券での旅では、宿代わりとして重宝しました。
 下りだとだいたい客は小倉から乗車するので、始発の門司港から必ず乗ったものです。門司港からガラガラの状態で発車していくのは、独特の雰囲気がありました。
 12系客車は座席も広くシートピッチも広かったので楽でした。下手にリクライニングするけどロックしなかった「簡易リクライニングシート」の14系よりも私には快適でした。座席を向い合せにして4人分占領できれば14系も楽だったけれど。

 宿代わりとしても12系に乗るには、発電用エンジンを積んでいるうるさいスハフよりもオハを選ぶのは常識でした。「オハ
」の「オ」は客車の重量を示す記号で、32.5トン以上37.5未満の意味で、「ス」は37.5トン以上42.5トン未満という意味です。ディーゼル発電機を積んだ車両は、当然重いのです。こんな若い頃覚えたくだらんウンチクは、なぜか忘れません。
 ちなみに客車の重量を表す記号は、「コホナオスマカ」の順に重くなります。軽量客車の10系客車を代表するナハ11やブルトレ元祖の20系客車のナハネ20とか軽量級の代表格です。現在は「ナ」クラスの客車はありません。「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」などの24系25型とかほとんどが「オ」クラスです。それで巨大なディーゼル発電機を積んでいる電源車は「カニ」とかの最重量級の「カ」です。ちなみに「ニ」は荷物車の意味です。夜行寝台特急全盛期には、荷物室も大活躍していました。荷物室のない電源車は「カヤ」とかでした。「ヤ」は業務用車両という意味です。「カヤ」は一時期、架線から電気を得て発電する電動発電機搭載の車両があったとと記憶します。ディーゼルエンジンとモーターを両方積んでいたので、荷物室を設置するスペースがなかったのです。架線の電気とディーゼルエンジンの両方に頼るのはあまり効率がよくなかったのか、「カヤ」は量産されず、消えていきました。

 話しが脱線ししましたが、九州の「かいもん」、「日南」は大好きな列車でした。かいもんはその後特急化電車化されて、
夜行特急「有明」として延命しましたが、いつの間にか消えました。
 九州新幹線が鹿児島中央まで走っていて、わずか2時間もかからずに博多から鹿児島中央まで行ける今では、夢のような列車と時代でした。宮崎方面は今でも時間がかかるので、「日南」みたいな列車があってもとは思いますが、無理でしょううね。  

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2014年01月13日

昭和55年九州旅行の写真

 昭和55年、九州旅行のときの写真です。

伊田駅舎


今は田川伊田駅です。分岐する伊田線、そして糸田線は三セクの平成筑豊鉄道となりました。
国鉄時代から、このあたりの路線は複雑怪奇でした。


羽犬塚駅


矢部線に乗るため下車したときの写真。


矢部線 黒木駅


地味なローカル線でした。


原田駅
たぶん解体待ちのキハ17廃車が見えます。


筑豊本線のDD51に牽かれた50系客車がいたころも、はるか昔となりました。



枕崎駅






鹿児島交通に、国鉄の古い気動車、私が学生のときはこんな時代でした。



肥薩線 人吉-吉松間の混合列車

客車荷物郵便の合造車オハユニ61









隣の車両は貨車

JR九州の観光列車、「いさぶろう」、「しんぺい」よりも、混合列車だったこの時代が楽しかった。この頃は、鉄道ファンは乗車していても、一般の観光客は皆無でした。



肥薩線 真幸駅








スイッチバックの真幸駅は、ホームの砂利を掃ききれいな模様をつけていました。
これは、無人化と同時になくなりました。乗客が限りなく少ないからできた技でした。



肥薩線 大畑駅






スイッチバックの駅です。
時刻表の列車番号、普通列車は「混〇〇〇」と、混合列車です。
21時19分発のえびの6号熊本行きは、私、乗ったことがあります。
夜遅く、熊本に着く急行は、他に乗客はほとんどいませんでした。



まだまだたくさんあります。
また追加していきたいです。
  

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2013年08月15日

昭和55年夏 九州鉄道の旅

 私が初めて本格的な鉄道旅行したのが、昭和55年の夏休みに行った九州旅行でした。高校2年生のときです。
 九州ワイド周遊券をフルに使った20日間の旅でした。目的は、九州島内の国鉄線の乗りつぶしです。
 この頃、国鉄は、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」に影響されたローカル線ブームもあり「チャレンジ2万キロ」というキャンペーンをやっていて、ローカル線の乗車がブームでした。また、ブルトレブームの華やかな頃でもありました。東京駅には夕方、「さくら」をはじめとする寝台特急を撮影するマニアがたくさんいました。
 私も「時刻表2万キロ」に感化されて、このような旅を始めました。しかし、「チャレンジ2万キロ」はやりませんでした。ローカル線の起点駅と終点駅で必ず自分の顔と駅名標を入れた写真を撮るというルールが嫌だったから。あくまできままに旅を楽しみたかったし、押しつけの義務を負うことは嫌でした。

 その九州旅行の思い出、記憶の断面を書いていきます。

 夏休みに入ってすぐ、7月22日から有効の途中下車印だらけのワイド周遊券が手元にあります。有効期限は8月10日までです。基本、車中泊、寝台ではなく座席の夜行に泊まり続けました。




 今は亡き、ローカル線の駅名印もいくつかあります。


 この頃は、九州島内に、鹿児島本線の門司港-西鹿児島間の「かいもん」、日豊本線経由の門司港-西鹿児島間の「日南」と2本の夜行急行が、門司港-長崎・佐世保間の普通夜行「ながさき」の3系統の島内完結の夜行列車がありました。ワイド周遊券でこれらの列車の自由席は乗り放題です。
 急行を中心に「ながさき」を補完的に利用して、夜行列車連泊の、今考えたら超ハードかつバカな旅でした。
 当然、宿泊代の節約が主目的であり、夜行列車の旅を楽しむなんて気はなく、ただただ睡眠を取るために乗っていました。貧乏旅行の極地であり、日々の支出は2000円以内に抑えるというものでもありました。だから駅弁を食べるなんて言語道断で、ローカル線から夜行急行に乗り継ぐときなど夕食にもありつけず、ビタミンレモンとビスコだけの夕食なんてことも数回ありました。食事は駅ホームの立ち食いうどんがメインでした。旅先でおいしいものを楽しむなんて高尚な趣味はまったくありませんでした。本当、今では信じられません。
 もちろんすべて夜行連泊とも行かず、20日間のうちビジネスホテルにも2泊か3泊と、「かいもん」の寝台車も1泊利用しました。今考えると、よくできたな~と思います。いろいろな意味で・・・

 さて、旅のスタートは寝台特急「富士」で東京駅を出発しました。この年の秋のダイヤ改正で、日本最長距離&最長時間の列車であった、東京-西鹿児島(日豊本線経由)の「富士」号は、宮崎止まりとなり、24時間を超えて走る列車がなくなることになっていたので、「富士」に乗ることもこの旅の大目標のひとつでした。この時の「富士」は東京駅を18時00分に発車して、西鹿児島への到着は、翌日の夕方、18時04分(だったかな?)でした。この日本でまる1日以上走る唯一の列車でした。


特急・寝台券です。




 列車内には夏休みでもあって、そんな目的の鉄道マニアも多く乗っていました。B寝台の同じ区画、4人ボックスに一人は小学生、もう一人は私より年上の若いお兄さんがいて、同じ目的でした。お兄さんとは(今はもうアラ還だろうけれど)今でも毎年、年賀状を交換しています。終着の西鹿児島で3人で撮った記念写真は今も残っています。
 「富士」の車内でどのようにして過ごしたのかはほとんど覚えていません。食堂車へは行っていないと思います。当時は食堂車は特別な存在ではなかったから。
 名古屋での5分間停車、お決まりの下関駅と門司駅での機関車交換では、先頭の機関車の写真を撮りに行きました。
 終着の西鹿児島で2人と別れたあとから、完全な一人旅が始まりました。
 西鹿児島で適当に時間をつぶし、その日は「かいもん」門司港行きの座席に収まりました。今日の宿です。車両は12系で快適です。ただ夏休み中でもあるので、ワンボックス1人で占領することは無理で、だいたいワンボックス2人乗車くらいでした。座席車で寝るには、私は頭を通路側にしてバックと空気まくらを置いてまくらにして、足は窓側であぐらをかく形で寝ていました。これがベスト形でした。頭を置いたバックの中に財布などの貴重品を入れて、防犯対策もしていました。
 翌日は博多で降りて、筑豊ローカル線を攻めていきました。まずは香椎線の走破でした。早朝の鹿児島線で香椎まで移動して、西戸崎行きに乗り、ローカル線の旅は始まりました。西戸崎ですぐに折り返し香椎に戻り、たしか宇美行きに乗り換えたと記憶します。
 終着の宇美から勝田線へ乗り換えです。香椎線の宇美駅と勝田線宇美駅とは離れていると時刻表に記載がありました。その通りで駅前から勝田線の宇美駅まで5分くらい歩きました。勝田線の宇美駅からひと駅乗って、勝田線の終着、筑前勝田駅へ着きました。
 筑前勝田は大都市博多の近郊でありながら、鄙びたローカル駅でした。本数は1日に7往復しかなく、博多への移動手段としてはまったく機能してなく、国鉄にも地元にも見捨てられたローカル線でした。元々九州はバス路線網が充実していたし。今、勝田線が生き残っていたら、現在ではさらに宅地開発も進んだし、渋滞はまったくない鉄道の長所を生かして、1時間に3~4本も走らしたら、立派な都市近郊鉄道として機能していたかもしれません。
 あとの記憶はあいまいです。一日中筑豊ローカル線に乗り周り、門司港発の「日南」に乗ったのかもしれません。

 「かいもん」か「日南」で西鹿児島に到着したあと、一日かけて佐多岬へ行きました。たまには観光も取り入れていました。大隅線に乗って鹿屋まで行き、バスを乗り継いで本当に一日かけて佐多岬へ往復しました。バスの乗り換えがあった大根占の町では昼食に入った食堂でラーメンを食べました。本当の九州豚骨ラーメンでとてもおいしかったことをよく覚えています。
 その帰り道、大隅線から夜遅くの志布志線に乗ったときは、2両か3両の気動車の乗客は自分以外乗っていませんでした。当時は普通列車に冷房車は基本的にありませんでした。すべての窓が全開になっていましたが、夜なので駅に停車中など虫が大量に車内に入ってきました。私は誰もいない車内をまわり窓を閉めていきました。車掌がやってきて、「ありがとう」とお礼を言われてたこともありました。

 「かいもん」に乗って博多で多くの客を降ろした後、門司港へ向かっていたとき北九州地方が集中豪雨に遭いました。今で言うゲリラ豪雨みたいです。列車も遅れましたが、雷がつんざく中列車は進んでいきました。その時の豪雨のため、どこから入ってくるのか、12系の床は水浸しになったことがありました。
 
 高千穂線に乗ったときは、延岡に午前3時か4時頃到着する「日南」を降りて乗り換えました。待合室での始発までの待ち時間はとても苦痛でした。夜行でも待合室でもろくに寝られず、始発の高千穂線に乗っても、先頭の運転席の隣の前面展望できる特等席に座ったにもかかわらず、ほとんど爆睡してしまったこともよく覚えています。早朝の1番列車だったので「時刻表2万キロ」に書いてあったように、有名な鉄橋の上で観光停車することもありませんでした。終着の高千穂に着いたのちに高千穂を観光しましたが、寝不足と疲れで気分悪くなったのも覚えています。そのあとはバスに乗って高森線の高森へ移動しました。

 指宿枕崎線に乗った時は、終着の枕崎駅に鹿児島交通の小さめな気動車が止まっていました。ワイド周遊券で乗れない私鉄には目もくれませんでしたが、今考えるとなんてもったいないことをしたと後悔しています。金のない高校生の当時は、運賃の高いローカル私鉄線に別途乗ることは、選択肢にありませんでした。

 九州をほぼ18日間くらい回りましたが、国鉄全線に乗ることはできませんでした。九州国鉄全線完乗は大学生になってから達成しました。

 九州からの帰りは、長崎発の夜行急行「雲仙」新大阪行きに乗ったと記憶します。特急用14系客車で得した感じの急行でした。そして、姫路で途中下車して、一日中、関西の鉄道を乗りまくってから、大垣発の普通夜行東京行き、列車番号344Mのグリーン車で東京へ帰りました。東京へ着いたときは周遊券の有効期限を一日超えていました。乗車券類は途中下車しない限り、期限が切れても目的地まで乗車できます。このルールは今でも生きています。活用する機会はまずありませんが。  

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2012年10月29日

ブルトレ街道 東海道本線

平成2年か3年頃の東海道本線、金谷-菊川間です。




あさかぜ号です。堂々たる長編成です。食堂車もありました。








富士号、はやぶさ号と続けてやってきます。
この頃はすべて独立した列車でしたが、末期にははやぶさ・富士号と合体してほそぼそと1往復だけとなりました。





こんなに長い113系普通です。前照灯がシールドビーム化以前の大目玉です。





EF66のフレートライナーも迫力です。





変な色の20系です。
臨時か団体専用か?
20系客車が消滅した時期を覚えていません。
いつの間にか消えてました。





165系も元気でした。
急行 東海号、大好きでした。





近くには新幹線も走っています。
懐かしの100系です。


東海道本線、今はつまらんです。  

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2012年08月16日

国鉄時代の写真2

昔撮った写真を見ながら、撮った場所や日付を思い出そうとしますが、やや不明確なものが多いです。もちろん、はっきりと覚えているものもあるし、写真を見て場所を特定できる場合もありますが。
古い改札口の風景、ホームの風景、いまひとつはっきりしません。
写真はすべて、白黒ネガをスキャナーで取り込んだものです。







松江駅に停車中の豊岡発門司行きか。浜坂から乗車して門司まで乗りとおしたときの写真だと思います。
昭和58年頃か。





九州からの帰途、はやぶさ号の食堂車と記憶しています。
昭和60年か。





同じく、はやぶさ号のロビーカー。







八高線の寄居駅付近。
昭和57年頃。





北陸本線の旧客の旅で撮影しているので、富山か金沢か福井駅の改札かと。
高架化ですべて現存していません。





これも北陸本線です。
なんとなく富山駅のホームと思いますが。





山陰本線のどこかの駅ですが、まったくわかりません。





これは山陰本線の浜坂駅です。
1番線を特急はまかぜが発車したところ。





上の写真のとなりの3番線に止まっている旧客です。





浜坂駅2、3番ホーム。
売店は今はありません。この先には立ち食いうどんの店もありました。





たぶん九州だと思います。
どこの駅か記憶がありませんが、ネガの前後関係から、豊肥本線の赤水駅かな。
かすかな記憶では、青春18きっぷで豊肥本線に乗って、時間の関係で赤水駅で交換する列車に乗り換えたようなことをやった気がするので。  

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2012年08月15日

国鉄時代の写真

お盆休み、写真整理もはかどりますが、昔の写真を見ていると手が止まってしまいます。
ということで、ランダムに載せていきます。


 

夏休みのこの時期、両親の田舎へ毎年、さくら号に乗って帰省していました。あの頃は一年に一度、寝台車に乗れるのが一大イベントでした。冷凍みかんを必ず買ってましたね。






新下関駅付近で撮影。ゴハチが牽く寝台特急でしょうか。臨時ですかね。よく覚えていません。






たぶん豊肥本線と思います。形式がばらばらの長編成気動車の普通列車です。






鹿児島本線の出水駅です。旧客の旅でホームで一服中の写真かな。<






出水駅もそうだし国鉄甘木駅も今は、三セクです。






一転、北へ移動。興浜北線の終点、北見枝幸駅です。






留萌本線の終点、増毛駅です。映画「駅」の舞台となったことが有名です。






たぶん岩見沢駅かと思います。






たぶん小樽駅に進入する急行ニセコ号かな。






キハ183系のオホーツク号、どこの駅かわかりません。






私がキハ183オホーツクに乗ったときに雪害に合って立ち往生したときのものです。
止まっては少し進みの繰り返しで、朝に札幌駅を出て、旭川に着いたのは夕方でした。





上野発直江津行きの夜行急行「妙高」です。窓の隙間風でとても寒かった思い出があります。





北陸本線の長岡発米原行きです。長岡から1駅目の宮内から乗車して米原まで乗りとおしました。
長岡から乗らず宮内から乗った理由は、わかる人にはわかるでしょう。





北陸本線の大聖寺駅は、その名前からなんとなく好きでした。





たぶん長浜駅だと思いますが、自信ありません。雰囲気でなんとなく。
機関車はEF81だけど、正面の形式プレートがありません。大変珍しいかも。





地平ホーム時代の福井駅。
以前、職場のパソコンで「ふくいえき」で変換したら「吹く胃液」と最初に変換されました。





長野発高崎行きの旧客普通が小諸駅へ到着するところ。
この列車は新潟始発で長野行き、長野発高崎行き、高崎発上野行きと、列車番号が変わり分割されていますが、列車自体は新潟発上野行きと通しで運転されていました。





上の写真の列車に乗り、軽井沢を出て横軽の坂を下る上り高崎行き列車。





常磐線の仙台か盛岡かそちら方面行きの旧客列車です。





仙台駅にて。東北新幹線開通直前でした。





山陰本線の長門市駅かと思います。
車扱貨物その他、昭和の風景です。





軽量客車の10系客車です。シートピッチや座席が広くて、結構好きな車両でした。





郵便車と半車客室の合造気動車です。全国に郵便車は2両しか現存していないとか。
1両は、前にも書いた能登鉄道の「のと中島駅」。もう1両は、どこだったっけ。  

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2012年08月14日

夜の鉄路 国鉄時代

 国鉄が民営化されて、はや25年。
 今の20代の人は、国鉄の記憶はないと思います。

 国鉄時代は、全国をたくさんの夜行列車が走っていました。
 旅客もそうだけど、それよりはるかに多くの貨物列車が、コンビニなどまったくなかった時代に、年中無休の24時間営業で走っていました。

 夜行列車に乗って、貨物とすれ違うときの音は、独特の車輪のリズムがありました。
 車扱貨物はさまざまな形式が混ざっているから、軸数や間隔がまちまちなので、4軸ボギー車だと通常の「タタッタタン」なんだけど、2軸車だと「タンタンタンタンタン」と一定になったりして、外を見ていなくても貨物とすれ違ったなとすぐにわかったものです。

 深夜でも東海道・山陽本線なら、5分おきに列車、特に貨物列車とすれ違っていたと言っても過言ではないでしょう。旅客1、貨物3くらいの割合ですれ違っていたように記憶します。
 すれ違う列車を気にしながら、そして寝台車の窓から見える独特の外の風景を見ながら、とても高揚して、なかなか眠れなかったものです、若い頃は。

 全国各地に貨物のヤードがあり、夜間は照明塔の明かりがヤード全体を照らしている風景を、夜行列車の窓から眺めたものです。深夜の真っ暗闇を走る列車から、貨物ヤードや大きな客車区などを通過するとき、外の眩しいばかりの明かりが頼もしかったように思います。それは独特の雰囲気がありました。
 また、深夜の駅を通過するときは、各駅に必ず駅員がホームに立ち、通過する列車を見守っていました。あの姿も深夜を問わず24時間列車を見守っているんだと、とても頼もしく思え、心の底で列車に対する信頼が無意識に植えついてきたような気がします。
 まだ列車無線がなかった頃、夜行列車の中で緊急事態、急病人などが出たときなどには、車掌が通信筒にメモを入れて通過する駅で列車を監視している駅員へ通信筒を投げ渡して、それを駅員が拾い見て次の停車駅などに救急車を待機させるというようなこともやっていました。
 そのような役割があった駅員も、今は駅の無人化や夜行列車が走る区間でも深夜は駅員はいなくなり、夜行列車の窓から各駅に立つ駅員の姿も見なくなりました。昔は夜行列車が通過する駅は、駅名標にも必ず照明が点いていましたが、今は真っ暗で、どの駅を通過しているのか確認することもできなくなりました。
 車扱貨物もほとんどなくなり、深夜のヤードを灯す明かりもなくなりました。

 昔の国鉄は本当に24時間休みなく働き続けていたけれど、今の鉄道は夜行列車が激減し、貨物は別会社なので深夜に駅員が通過する貨物を監視することもないし、幹線でも営業時間しか駅員はいないから、JRは深夜勤務は減ったのではないでしょうかね。

 今、社会は24時間化しているといわれ、コンビニをはじめ24時間営業、長時間営業の店も昔に比べたらはるかに増えたけれど、鉄道業界は逆に、営業時間は短縮されているようです。  

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2012年05月12日

なつかしの列車 新橋駅にて

 昭和52年(1977年)頃の東海道本線新橋駅で撮った写真です。
 私が中学生のときの写真です。
たぶん、タムロンの望遠ズーム、85~210ミリを手に入れて最初に撮ったものと記憶しています。この頃は住んでいた埼玉県から、こういった都区内の撮影場所によく行ってました。新宿のヨドバシカメラもよく行ったものです。ビックカメラはまだなかったはずです。
 今から約35年前です。古いですねえ。
 この場所は、東京発の九州行き寝台特急の好撮影場所として、当時は有名だったのです。
 ちょうどカーブしていて、適度な望遠で列車の真正面を撮影できました。
 たぶん現在はこの場所には立ち入れないと思います。それか撮影出来ないように高いフェンスか何かが設置されているはずです。あの頃はおおらかでした。撮影も結構自由でした。今はねえ~・・・。
 
 はやぶさ号とみずほ号です。










 みずほ号バックに見える京浜東北線の103系は窓が全開です。この時代は冷房車と非冷房車が半々でした。他の写真には冷房車も見えます。
 今、節電が叫ばれているけれど、この時代のように冷房など使わずに窓を全開にすればどうにかなるのにと、本当に思います。前にも書いたけれど、節電と称して車内の照明は消しても、冷房はガンガンつけているのは大バカ者だと思います。今の世の中は。しょせんパフォーマンスしか受けない、認められない世の中です。政治も何もかもが・・・


 同じ日に撮影したはずですが、さくら号だけはEF65の1000番台でした。
 隣には0系新幹線も見えます。







 東京発、さくら号が16時30分、はやぶさ号が16時45分、みずほ号が17時00分と、30分の間に3本の寝台特急を撮影できるという効率の良さでした。
 そのあと、1時間空いて、これは通勤電車を優先させるためか、18時発の富士号、続いてあさかぜ号が1号、3号と続き、時間が空いて、それは目的地までの距離が近くなっていくので発車時間がどんどん遅くなって、瀬戸号、出雲号、いなば・紀伊号、最後は大阪行きの銀河号が発車していきました。
 撮影できたのは、富士号までで、あさかぜ号だと暗くなってきてきつかったかな。


 こんな列車も東京口の本線を堂々と走っていました。配給車です。部品などを駅など必要なところへ届けるのが目的の車両です。




白黒なのでよくわからないかもしれませんが、当時は横須賀線の113系も東京駅は地上ホームでした。




ちなみに湘南色の113系はこちらです。




EF58も走っています。12系を牽引していました。何か臨時列車かな?






 夏至の頃の夕方は、東京発九州方面へのブルトレ撮影が楽しみでした。
 新橋駅の雰囲気も古いです。
 
 撮影後は、通勤ラッシュにもまれて、埼玉まで帰ったものですが、きつかったとはまったく思いませんでした。あの頃は若かった。中学生でしたから。
 今だったら、新橋界隈でちょっと1杯やってから帰るところでしょうが・・・。 


  

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2011年04月16日

昔の写真

電車通勤しなくなったので、毎日のネタはあまりありません。
昔、私が高校、大学の頃に撮った写真を適当に紹介します。



EF65、1000番台牽引の富士なんてえらい昔ですね。この頃は東海道を上るブルトレがたくさん走っていました。列車が近づきシャッターを押すまでの緊張感はたまらなかったです。もちろんカメラは完全マニュアル、ピントも露出もフィルム巻き上げもすべて手動です。

東海道本線の三島-函南間の富士山か背景に入る超有名撮影地にて。
この日はあいにくの霧。
でも雰囲気のある写真が撮れました。



EF58牽引の荷物列車。この頃の荷物列車が頻繁に走っていました。



24系25型のはやぶさです。



前照灯が原型、シールドビームではない113系です。







場所は変わって、上野駅13番ホームで発車を待つ、八甲田か十和田のどちらかでしょうか。





これも超有名撮影地の根府川鉄橋にて。夏至の頃は夕方に東京駅を発車するブルトレをたくさん撮ることができました。学生の頃は朝から晩まで、この付近をうろついて一日中撮影していたものです。



たぶん品川駅で撮った、マニア注目のEF58、61号機牽引の臨時踊り子号。





早川-根府川間の有名撮影地のS字カーブにて。




EF58が牽引する旧客グリーンのこの編成の列車ってなんでしたっけ。臨時?団体?  

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2011年03月09日

筑豊本線

字数がオーバーしたので、筑豊本線の思い出をもう少し。
昭和60年頃まではたしか、寝台特急のあかつき号が筑豊本線経由で走ってました。
私は昭和56年に筑豊本線経由のあかつき号に乗ったことがあります。
鹿児島本線から筑豊本線に乗り入れると景色が一変してローカル線になりました。
そのときは朝食に鳥栖駅の駅弁を買いました。そのときが九州のかしわめしを初めて味わったときです。
実は鳥栖駅のかしわめしも好きなんです。私としてはかしわめしのナンバー2です。
そんなことを思い出しながら車窓を眺めました。

昭和の時代の筑豊本線は気道車が主役でした。
私はその頃はキハ66が好きでした。大馬力エンジンの独特な音と転換クロスシート、冷房完備など最新の車両でした。あの頃の普通列車は非冷房がほとんどで、キハ66はとても贅沢に感じました。
キハ66は急行にも運用されていて、急行のはんだ号という地味な日田彦山線の急行としても活躍していました。
はんだ号は末期にはたしか快速になったかな?

あと筑豊本線の思い出は客車列車です。
50系化が早かったので、旧客の思い出はあまりありませんが、DD51が牽引する50系には何度も乗りに行きました。
門司港発原田行きなんか長時間乗っていられて、混むこともあまりなく、社会人になってからはこれに乗るのが目的に九州へ行ったものです。
門司港発原田行きは平成10年頃まではあったかな?
その後50系客車の運用は飯塚、門司港、若松間となり、たしか平成12年か13年の筑豊本線電化時に全廃となりました。私は全廃時の最後の日に乗りに行きました。
今でも昔の雰囲気を残す筑豊本線が好きです。  

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2011年03月09日

記憶を辿る旅 筑豊編

九州、列車の旅
基本気まぐれです。
博多から特急で久留米に向かい、久大本線で夜明駅まで、久留米発日田行きは1両で混んでました。
夜明から乗った日田彦山線はキハ47の二両でがらがらでした。
汽車旅らしくなりました。
こうしてがらがらの列車に乗っていると、高校時代に旅してた頃に記憶がタイムスリップしています。
長いトンネルの中で、このトンネルを抜けたら時代が昭和55年に戻っていたらなんて考え、心は現在の自分で体も何もかもが高校時代に戻っていたらなんてね。
終点の田川後藤寺に着き、後藤寺線に乗り換えて新飯塚へ向かいました。

途中の下鴨生駅からは漆生線が分岐していました。漆生線の記憶は鮮明に残っています。がらがらの気動車、室内の照明は白熱灯でした。
次の上三緒駅では交換待ちで長く停車したので、駅で入場券を買いました。最短区間に 入場券とスタンプしたものしかないと駅員に言われて、それを買いました。

新飯塚について、駅前通りにある普通のラーメン屋に入りました。
約10年前に来たことがある店です。
普通の美味しい九州ラーメンを食べることができました。
新飯塚からは桂川まで行って、筑豊本線の末端区間を原田まで乗りました。ここも久しぶりです。
50系客車列車がなくなってからはたぶん乗っていないので、15年ぶりくらいかな。途中の筑前内野駅か筑前山家駅は朽ち果てそうな戦前の駅舎みたいだったけれど、きれいになっていました。

原田駅は駅舎を除き昔のままです。いい駅です。筑豊本線のホームもカーブしていて良い雰囲気です。

九州の地名は原と書いて、はる、と読むのがほとんどです。原田駅もはるだと読みます。中原とかもなかばると読みます。しかし有名な島原がしまばらと、はら、と読むので、あまりよそ者には理解されていません。

夜は博多駅前の居酒屋でいも焼酎をたらふく飲みました。カウンターで一人飲んでいたのですが、隣に座っていた若い兄さんと母親との親子連れと意気投合してしまい盛り上がっていっしょに二次会まで行ってしまいました。

翌日は二日酔い気味でしたが朝から門司港駅へ向かいました。周遊きっぷを持っているので、特急をフル活用します。
小倉で特急を降りて、普通の門司港行きに乗り換えました。小倉駅ホームは豚骨ラーメンのにおいがえらいしました。あ〜食べたくなった。
門司港駅はレトロを売り物に観光客を呼びこんでいます。私は高校の頃から門司港駅はすごい雰囲気だと思っていました。待合室や特にトイレや洗面所はいったいいつの時代なんだと感じていました。
今日も列車ではなく観光バスで来ているような団体客もたくさんいました。
折り返し時間が30分しかとっていなかったので、名残惜しくも次の目的地の折尾へ向かいました。
門司港周辺は最近は観光施設も増えたので、1日かけてゆっくりしたいものです。
折尾の目的は東筑軒のかしわめし。大好きなんです。私が大学生のときこの弁当の良さを知りました。
以来、私にとっての駅弁日本一は、折尾のかしわめしです。
昔はマイナーな駅弁で、マスコミなんかの駅弁ランキングなどでも取り上げられることはまずありませんでしたが、最近は雑誌やテレビでも紹介されて有名になってきました。今では数少なくなったホームでの立ち売りの山口さんも有名です。
良いものは評価されるのです。30年近く前から目をつけて評価していた自分にちょっと自慢です。
小倉や博多でも売っていますがなかなか手に入れにくく、近所のスーパーなどの駅弁大会などでも見ることはありません。
だから折尾まで行ったのです。

折尾からは筑豊本線、篠栗線経由で博多へ向かいました。筑豊本線は昔の雰囲気が多く残っているので好きです。

博多駅でラーメンや明太子などのみやげを買って、いつもの新幹線に乗って九州をあとにしました。

九州の在来線から新幹線に乗り換えると、客層もなんとなく冷たく感じます。
在来線では地元のおばちゃんや高校生の存在が温かく感じるのですが、新幹線はなんかね〜っていう感じ。最近特に出張サラリーマンの立ち振舞いが横柄に感じるのです。
カートを引っ張って傍若無人に歩く姿や、特に一人で新幹線の三人掛けの真ん中に座って座席の背もたれを三席とも全部目一杯倒すサラリーマンオヤジは大嫌いです。私はいつも三分の1くらい倒して、おとなしく酒を飲んでいます。
はっきり言って、目一杯倒すと座り心地はよくないです。

九州の在来線がとても温かく感じたので、余計に新幹線が嫌に感じました。

あ〜あ、だんだんと日常が近づいてきます。

昨日はなんとなく、今日は二日酔い気味だったので、列車の中一滴も酒を飲まなかった珍しい旅でした。  続きを読む

Posted by よっぱらいくま at 16:12Comments(2)TrackBack(0)昔話と昔の写真 国鉄・JR