2013年07月20日

日本食堂

 新幹線の食堂車のことを書いていて、こちらのこともいろいろと思い出されます。
 「日本食堂」、読み方は「にっぽんしょくどう」だ。
 往時の国鉄の食堂車営業はほとんどが日本食堂だった。東北本線をはじめとする、在来線の特急に食堂車が必ず連結されていた昭和40年代までは、全国を日本食堂が走っていた。
 ネットで見たら、現在は略称NRE、日本レストランエンタプライズという会社名で、JR東の子会社で主にJR東の車販をやっているとか。だから、東海道新幹線の車販はやっていないのかな。
 国鉄時代は列車の食堂車と車販はイコール、日本食堂というものだった。
 その他に国鉄駅構内の食堂営業も多くやっていて、各地を旅していて安心して入れるレストランであった。
 私は小学生の頃、池袋の日本食堂に、母に連れられてよく行ったものだ。今では懐かしのメニューともいえる「ナポリタン」をいつも食べていたと記憶する。テーブルには三角に折られたナプキンに、塩と爪楊枝、しょうゆ差しと、独特な形態のソース入れが必ずあった。また、100円コインを入れると運勢みたいなのを書いた小さい巻物が出てくる灰皿も必ずあった。星座か生年月ごとにコイン投入口がたくさんあったが、中に入れば同じなんだと思ったものだ。
 メニューはきわめて普通で、なんでもあるけど味も普通みたいな。でも、あのナポリタンの味は、今でも自分では再現できません。今、各地にある、「懐かしの」とか「昭和の」ナポリタンというものも、あの頃の、あの時代の、あの年頃に食べた味とは違います。たとえ違わなくても、その時代、そのときの自分の年齢、あの頃でなければ同じ味にはならないのです。あの味は永遠に二度と味わえないのかもしれません。たぶん当時は、日本食堂などはオリジナルの味で料理などはしてなくて、味付けは業務用の調味料を使っているだけなのだろうけれど。
 日本食堂は各地の拠点駅には必ずありました。店員の愛想とかも平均するとあまりよくなかったような気もします。昔の大衆食堂、デパートの大食堂とかも、店員の態度はあまりよくなかったような。なんとなく、食べさせていただいてますみたいな雰囲気でした。
 デパートの大食堂とかは、まず入口のところにずらっと並んでいる見本を家族全員で見て決めてからから、窓口で食券を買い、案内させた席へ行って(自分で勝手に空いているテーブルへ行くだったかな?)、食券をテーブルへ置いて、ウエーター、ウエートレスが来るのを待つみたいな方式でした。私がすごいなと思ったのは、食券を半分にもぎって注文を通すのだけど、そのもぎりを片方の手で握って「パチリ」と鮮やかにやるのがとても格好よく見えました。概して、そういうデパートの大食堂とかも店員の愛想はあまりよくありませんでした。
 日本食堂も昔はすべて、食券を買ってから着席後にもぎってもらう方式でした。それがいつの頃からか、オーダーを聞いてから伝票を置いて、最後に精算する方式になっていきました。今でも、観光地の大食堂みたいなところは食券の事前購入をするようなレストランもありますね。
 食堂車の話しに戻して、在来線の食堂車にはあまり思い出がありません。食堂車全盛期は私自身幼かった頃から、せいぜい学生時代までで、その後は衰退の一途をたどっていったから。学生の頃までは九州ブルトレにも必ず食堂車があったけれど、やはり値段が高いというのがネックでした。それに酒を飲む習慣もなかったから、つまみを食べながらビールを飲むということもなかったし。今だったら、絶対そういうことするだろうけれど。
 ちなみに、東海道新幹線の車販は、JR海の子会社の株式会社ジェイアール東海パッセンジャーズが一手にやっているようです。



Posted by よっぱらいくま at 16:11│Comments(1)TrackBack(0)食べ物

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この記事へのコメント
ユーキャンで、パソコンを徹底的に勉強しなおしています。あと電子メールの学習を終えれば卒業です。
そんなわけで、久しぶりにブログを読みました。
旅というと、僕も食べることが楽しみですね。ただ利用する交通機関は、もっぱら車になりました。時代の流れでしょうか?
でも列車が自動車、食堂車がサービスエリアに代わっても、思いは昔とちっとも変りませんよ。
この間国道254号線を、佐久までドライブした帰り、横川のサービスエリアで、峠の釜めしを買いました。
佐久は軽井沢のように観光地化されていないので、走っていてとても気持ち良かったですよ。
Posted by さよなら「ながさき号」門司港行 at 2013年07月28日 18:38