2014年02月23日
青函連絡船八甲田丸と青函トンネル龍飛基地
「あけぼの」に乗りに行ったついでに、青森の龍飛岬へも行きました。
冬の龍飛はとても寒く雪深く風が強いイメージで、ちゃんと列車が動くか、道路は大丈夫かと不安も大きいです。
その日は風も弱く、蟹田から乗った津軽線は遅れもなく順調に走り、三厩駅へ到着しました。
蟹田駅前の店で買ったビールとつまみをやりながら、約40分の津軽線の旅はのどかでした。
蟹田駅前の店で買ったつまみはとてもおいしかったです。一人分ちょうど良い量で、小松菜のおひたしとほたてマヨネーズは、塩分控えめの手作りでした。
蟹田駅の津軽線キハ40。
中小国駅は、JR東と北の境界駅です。
線路の境界はこの地点。
津軽海峡線と津軽線が分岐する地点です。
雪の単線の津軽線を行く。
終着の三厩駅。
三厩駅からは町営バスで龍飛岬を目指しました。
道路は普通の圧雪路で、問題なく走れます。
龍飛は風もあり、気温も氷点下ですが、穏やかでした。
ただし、外を歩くにはフードと手袋は必須です。都会の寒さとはやはり桁違いの厳しさですが・・・
龍飛は、青函トンネルの龍飛工事基地があったところです。
ここから旧鉄道建設公団の手で、先進導坑を堀り始めた歴史があります。
詳しくは、高倉健主演の映画「海峡」を観るとよくわかります。大好きな映画です。
そこには今、青函トンネル記念館があり、そのトンネルを利用したケーブルカーで海面下140メートル地点まで行け、そこには工事関係展示があります。
青函トンネルの龍飛海底駅は廃止されて一般乗客が降り立つことは不可能になりましたが、ここは今でも生きています。
ただし、冬期は休館です。
敷地には国鉄の「工杭」がありました。
さて、翌日は函館に立ち寄り、駅前のどんぶり横町で昼食を。
店頭の見本はネタの様々な組み合わせがあるけれど、面倒なので店内で好きなのをトッピングしてもらいました。
私はウニが苦手なんだけど、どの組み合わせにもウニがついてくるもんで。
選んだのは、イカ、カニ、いくら、サーモンです。
おいしかったです。ついでに日本酒も頼んだら、地酒のワンカップでした。
函館から青森へ戻り、青函連絡船八甲田丸へ行きました。
青函連絡船、昭和63年3月13日に廃止されてから、もう約26年です。
最終日、青函トンネルの開業と連絡船の廃止にたちあったのも、はるか昔です。
この連絡船桟橋があったあたりも、風景は激変しました。頭上を道路の大きな橋がかかっていて、桟橋と待合室などがあったあたりも、一変しています。ホームから桟橋への連絡橋だけ、一部残っています。
八甲田丸は、函館に係留、保存されている摩周丸よりも往時の形が残されていて、私はこちらが好きです。
元グリーン(指定)席。
車両甲板には懐かしい車両が。
気動車は燃料を積んでいるため、実際の航海時には積めなかったと案内文にありました。
青函連絡船の心臓部、第一主機室のエンジンです。
乗用車やトラックのエンジンなど鼻くそみたいに見える、巨大なエンジンです。
大きさだけなら戦車のエンジンだって青函連絡船のエンジンにはかなわない。
1基1600馬力のエンジンが第一主機室と第二主機室にそれぞれ4基ずつ、計8基で総出力は12,800馬力。
排気量は何万CCだろうし、燃費とかどのくらいなんでしょうか。
たぶん、リッター数メートルとかだったりして。
その他にも発電用のエンジンが複数あったのです。
今でも燃料とオイルの独特の臭いが立ちこめています。
動いていた時は、ここは轟音に包まれていたのでしょう。
機関制御室です。
コンピューター制御ではない、昭和の時代のいかにも機械の出で立ちです。
ここは元案内事務所でした。ここできっぷとかも買えました。
八甲田丸は、廃止されてから何度も立ち寄ったけれど、青森に来たら必ず立ち寄ってしまいます。
私の、青函連絡船への想いは永遠です。
この後、いよいよ、あけぼの号です。
今回の旅で20代の若い人ともよく話ました(みんな男子です。「あけぼの」に乗りに来た若い女子は皆無でした)。
彼らは鉄道も興味あるけれど旅が好きで、あけぼのがなくなるのがきっかけで来たと言っていました。
しかし、バリバリの鉄ではなく、鉄分は薄いようで普通の旅行者でした。
青函連絡船の中で、私は最後の日に乗ったことを言ったら、彼らはまだ生まれていないと言われ、ショックでした。
あー、もうそんなに年月は過ぎたのだと、感慨ひとしおでした。
そんな彼らは皆、まじめで頭も良さそうで、礼儀正しく言葉使いもきちんとした行動をとっていました。
彼らのような若者がこの先、将来の日本を背負っていってくれるならと、頼もしく思いました。
「あけぼの号立ち往生顛末記」に続く
冬の龍飛はとても寒く雪深く風が強いイメージで、ちゃんと列車が動くか、道路は大丈夫かと不安も大きいです。
その日は風も弱く、蟹田から乗った津軽線は遅れもなく順調に走り、三厩駅へ到着しました。
蟹田駅前の店で買ったビールとつまみをやりながら、約40分の津軽線の旅はのどかでした。
蟹田駅前の店で買ったつまみはとてもおいしかったです。一人分ちょうど良い量で、小松菜のおひたしとほたてマヨネーズは、塩分控えめの手作りでした。
蟹田駅の津軽線キハ40。
中小国駅は、JR東と北の境界駅です。
線路の境界はこの地点。
津軽海峡線と津軽線が分岐する地点です。
雪の単線の津軽線を行く。
終着の三厩駅。
三厩駅からは町営バスで龍飛岬を目指しました。
道路は普通の圧雪路で、問題なく走れます。
龍飛は風もあり、気温も氷点下ですが、穏やかでした。
ただし、外を歩くにはフードと手袋は必須です。都会の寒さとはやはり桁違いの厳しさですが・・・
龍飛は、青函トンネルの龍飛工事基地があったところです。
ここから旧鉄道建設公団の手で、先進導坑を堀り始めた歴史があります。
詳しくは、高倉健主演の映画「海峡」を観るとよくわかります。大好きな映画です。
そこには今、青函トンネル記念館があり、そのトンネルを利用したケーブルカーで海面下140メートル地点まで行け、そこには工事関係展示があります。
青函トンネルの龍飛海底駅は廃止されて一般乗客が降り立つことは不可能になりましたが、ここは今でも生きています。
ただし、冬期は休館です。
敷地には国鉄の「工杭」がありました。
さて、翌日は函館に立ち寄り、駅前のどんぶり横町で昼食を。
店頭の見本はネタの様々な組み合わせがあるけれど、面倒なので店内で好きなのをトッピングしてもらいました。
私はウニが苦手なんだけど、どの組み合わせにもウニがついてくるもんで。
選んだのは、イカ、カニ、いくら、サーモンです。
おいしかったです。ついでに日本酒も頼んだら、地酒のワンカップでした。
函館から青森へ戻り、青函連絡船八甲田丸へ行きました。
青函連絡船、昭和63年3月13日に廃止されてから、もう約26年です。
最終日、青函トンネルの開業と連絡船の廃止にたちあったのも、はるか昔です。
この連絡船桟橋があったあたりも、風景は激変しました。頭上を道路の大きな橋がかかっていて、桟橋と待合室などがあったあたりも、一変しています。ホームから桟橋への連絡橋だけ、一部残っています。
八甲田丸は、函館に係留、保存されている摩周丸よりも往時の形が残されていて、私はこちらが好きです。
元グリーン(指定)席。
車両甲板には懐かしい車両が。
気動車は燃料を積んでいるため、実際の航海時には積めなかったと案内文にありました。
青函連絡船の心臓部、第一主機室のエンジンです。
乗用車やトラックのエンジンなど鼻くそみたいに見える、巨大なエンジンです。
大きさだけなら戦車のエンジンだって青函連絡船のエンジンにはかなわない。
1基1600馬力のエンジンが第一主機室と第二主機室にそれぞれ4基ずつ、計8基で総出力は12,800馬力。
排気量は何万CCだろうし、燃費とかどのくらいなんでしょうか。
たぶん、リッター数メートルとかだったりして。
その他にも発電用のエンジンが複数あったのです。
今でも燃料とオイルの独特の臭いが立ちこめています。
動いていた時は、ここは轟音に包まれていたのでしょう。
機関制御室です。
コンピューター制御ではない、昭和の時代のいかにも機械の出で立ちです。
ここは元案内事務所でした。ここできっぷとかも買えました。
八甲田丸は、廃止されてから何度も立ち寄ったけれど、青森に来たら必ず立ち寄ってしまいます。
私の、青函連絡船への想いは永遠です。
この後、いよいよ、あけぼの号です。
今回の旅で20代の若い人ともよく話ました(みんな男子です。「あけぼの」に乗りに来た若い女子は皆無でした)。
彼らは鉄道も興味あるけれど旅が好きで、あけぼのがなくなるのがきっかけで来たと言っていました。
しかし、バリバリの鉄ではなく、鉄分は薄いようで普通の旅行者でした。
青函連絡船の中で、私は最後の日に乗ったことを言ったら、彼らはまだ生まれていないと言われ、ショックでした。
あー、もうそんなに年月は過ぎたのだと、感慨ひとしおでした。
そんな彼らは皆、まじめで頭も良さそうで、礼儀正しく言葉使いもきちんとした行動をとっていました。
彼らのような若者がこの先、将来の日本を背負っていってくれるならと、頼もしく思いました。
「あけぼの号立ち往生顛末記」に続く
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