2014年04月15日
原発とクルマ 優先は経済?命? 中日新聞の主張を読んで
中日新聞は、原発政策は、経済発展よりも人の命と安全を優先するべきと主張している。
お説ごもっともである。
しかし、道路交通における交通事故では毎年、4000人以上の命が奪われ、その何十万もの人が傷害を負っている。
以前、新聞投書に、交通事故で多数の命が奪われていることには目をつぶって、原発だけに反対するのはいかがなものかとの疑問に対して、原発事故は人間がコントロールできないが、交通事故は人間がコントロールできるのだから同じ次元での比較はおかしいとあった。
その根拠は、交通事故は1970年に1万6千人あまりが死亡したのをピークに現在は4千人台となってきたことがコントロールされているということらしい。
この現代社会で毎年4千人も死んでいて、どこがコントロールされているのだろうか。
そしてその何倍もの人が傷つき傷害を一生背負っている人もいるのだ。
東日本大震災では原発事故のために、何万人何十万人の人が故郷を奪われたのは、耐えがたい事実であり、帰還のめどはたっていないから、原発事故もコントロールされていないことは事実。
しかし、今回の原発事故で間接的には死者が多少出ているとも言えるが、故郷は奪われても直接命を奪われた人間はいなかったはずだ。原発の上屋が爆発しても住民にケガ人もいないはずだ。
そういう意味、交通事故よりも原発事故の方がコントロールされたと言えるのではないか。
道路交通事故でこれまでいくつもの人の命が奪われてきたのだろうか。今、故郷を奪われ避難している人の数よりもはるかに多いはずだ。
さらに、原発や鉄道、航空機と、道路交通との根本的な違いは、その運用の制度である。
原発も鉄道も航空機の運航も、巨大なシステム産業であり、それを運用しているのは行政や大企業である。個人ではない。
東電だって結果として重大な結末となったが、運用者、管理者として高度な対応をしてきたのだ。
鉄道でも航空機でも、その運用は厳格かつ高度な基準と運用ルールに縛られている。それを操縦、操作する人間も高度な訓練を受けているのである。
片や道路交通はどうだろうか。一応、運転免許なる制度の上で資格を得た者が自動車を運転する形ではあるが、はっきり言って運転免許はバカでも取れる。
その運用も、自動車は個人に委ねられているのだ。警察、司法による監視と制約、罰則はあっても、個々の運転技量とマナーに任されている。
簡単に言えば運転の下手な人もいれば上手な人も、車両工学についても知識がある人もない人もいるという極めて低レベルな世界なのである。
クルマはエンジンブレーキを知らない人でも運転しているが、新幹線の運転士に発電ブレーキ、回生ブレーキを知らない者は絶対にいないということだ。
自動車交通は、無謀な運転で迷惑をかけ事故を誘発するような運転をする者もいれば、慎重すぎて流れを滞らせ回りに迷惑をかけているような下手くそもいる。
金持ちも貧乏人も、真面目な人間もやくざ者も、ごちゃまぜで運用されている世界なのだ。
車両の安全システムにしても、最近は衝突回避の緊急自動ブレーキやレーダー波で車間距離保持機能などの搭載を謳うクルマも出てきている。
しかし、鉄道の世界では50年以上前からATSを始めとし、さまざまに進化してきた保安システムを備えてきた。
鉄道の安全性と比較したら自動車交通の保安システムはほとんどが人間の注意力と判断のみに頼っているという、19世紀に自動車が発明されてからからまったく進歩していないも同様だ。
赤信号を無視しても自動停止させる機能は鉄道では当たり前でも、クルマには現在でもない。
はっきり言って、そのような道路交通システムのレベルは未だ、あまりにも低すぎるのである。
個々の運転者の技量とマナーに100%依存しているという道路交通の運用方法は、原発や鉄道、航空といったシステム比べて、程度があまりにも天と地ほどかけ離れた、あまりにもレベルが低すぎるのだ。
自動車交通が個人に頼らず100%自動運転化されて、クルマの世界から趣味性が一切排除されたときに、初めて自動車事故はコントロールされると言って良いだろう。
そのような道路交通で発生している事故が、コントロールされているなどと、間違っても認められないだろう。
それでも、原発に対しては経済よりも人の命を優先しろと中日新聞は言う。
しかし、道路交通に対しては、今の状況は明らかに、人の命よりも経済を優先しているとしか言えないではないか。
日本経済を支える自動車産業の発展のために、そしてあらゆる経済活動のために自動車は必需品だ。
その利便性を失ってまで、命の優先を唱える気は、中日新聞にはないだろう。もっとも触れられたくない部分なのだろう。逃げているだけ。
新聞記者だって、毎日ハンドルを握って、自由気ままに24時間好きなように移動できるクルマを手放す気も覚悟もないだろう。
中日新聞が原発には強い口調で経済よりも命を優先しろと言いながら、道路交通事故のことには目をつぶり無視している偽善性が、聞いていて腹が立つのだ。
そしてもう一点、やたら最近、原発についてドイツの例をあげている。
ドイツは原発をやめていく方向にある。それを見倣えということ。
ならば問いたい。ドイツでは閉店法という法律があって、日本のようにどうでもよい業種の深夜営業、24時間営業などは禁止されている。
これまで条件緩和もされてきて、駅構内やガソリンスタンドなどの例外的業種はあるが、日本のような無秩序な深夜営業は禁止されている。
要するに、深夜に人の命に関わるような業種以外のどうでも良い店舗を営業させて無駄な電気を使い放題にするような蛮行を許していないのだ。
日本は、経済発展、民間の利益のために社会の24時間化を推進し、無秩序に24時間営業などを認めている。
節電を優先するならば、深夜の需要などたいしたことないし、労働環境のためにも深夜営業などやめるべきである。
そういうドイツの閉店法の趣旨も取り入れて、徹底的な節電をする覚悟があるのならば、ドイツを見倣っての脱原発も結構なことである。
無秩序に無駄な電気の消費を許している分際で、脱原発だけ主張するなど無責任きわまりないことだ。
日本人も、これまでのような利便性の追求、24時間営業などを求めない覚悟が必要ではないか。
それなのに、一部のバカ政治家どもなどは社会の24時間化に対応するために、公営交通の24時間営業ができないかなどと言っている。
そういう政治家が原発には反対していると、本当に無責任かつ無知だなとつくづく思う。
コンビニが24時間営業していないと、深夜までスーパーが営業していないと、ファミレスの深夜営業がないと不便だなどとあまっちょろいことを言っている人間に、脱原発など言う資格はない。
不便さを受け入れる覚悟があってはじめて、原発反対と言えるのだ。
原発をやめろと言うならば、現状では火力発電に頼っているのだから社会全体での化石燃料の消費を抑えるために自動車利用も極力やめるべだし、24時間営業などもやめる覚悟が必要だ。
通勤電車の蛍光灯を間引くなどという本当にくだらない、節電効果ゼロのパフォーマンスだけで満足するよりも、深夜営業を法律で禁止する方が、よっぽど節電効果を大きいだろう。
結局、自動車社会には疑問を持たず原発反対の声だけが大きくまかり通る理由は、日本で自動車関連産業に従事し生計を得ている人は100人に1人はいるが、原子力関連産業に従事し生計を得ている人は千人か1万人に1人しかいないから、原発反対は世論になっても、自動車社会に疑問を持つ声は出ないというところが答えなのだろう。
民意なんて所詮、その程度。
そして、電気は何で発電しようが有りさえすれば個々には困らないが、自動車を放棄することは個々に重大な不利益があるからというところなんだろう。
そこが自動車の危険性には目を瞑り、原発の危険性に対しては声高になれる所以だろう。
自動車産業の衰退は日本経済に大打撃を与えるだろうが、原子力産業の衰退は日本経済に与える影響は小さく直接国民の不利益にならないことこそが、根底にあるのだ。
そんなことを思っていた今日、小泉、細川の落ちぶれ老害コンビが、脱原発を目指す一般社団法人「自然エネルギー推進会議」なるものを設立するとのニュースが。
あ~あ。
お説ごもっともである。
しかし、道路交通における交通事故では毎年、4000人以上の命が奪われ、その何十万もの人が傷害を負っている。
以前、新聞投書に、交通事故で多数の命が奪われていることには目をつぶって、原発だけに反対するのはいかがなものかとの疑問に対して、原発事故は人間がコントロールできないが、交通事故は人間がコントロールできるのだから同じ次元での比較はおかしいとあった。
その根拠は、交通事故は1970年に1万6千人あまりが死亡したのをピークに現在は4千人台となってきたことがコントロールされているということらしい。
この現代社会で毎年4千人も死んでいて、どこがコントロールされているのだろうか。
そしてその何倍もの人が傷つき傷害を一生背負っている人もいるのだ。
東日本大震災では原発事故のために、何万人何十万人の人が故郷を奪われたのは、耐えがたい事実であり、帰還のめどはたっていないから、原発事故もコントロールされていないことは事実。
しかし、今回の原発事故で間接的には死者が多少出ているとも言えるが、故郷は奪われても直接命を奪われた人間はいなかったはずだ。原発の上屋が爆発しても住民にケガ人もいないはずだ。
そういう意味、交通事故よりも原発事故の方がコントロールされたと言えるのではないか。
道路交通事故でこれまでいくつもの人の命が奪われてきたのだろうか。今、故郷を奪われ避難している人の数よりもはるかに多いはずだ。
さらに、原発や鉄道、航空機と、道路交通との根本的な違いは、その運用の制度である。
原発も鉄道も航空機の運航も、巨大なシステム産業であり、それを運用しているのは行政や大企業である。個人ではない。
東電だって結果として重大な結末となったが、運用者、管理者として高度な対応をしてきたのだ。
鉄道でも航空機でも、その運用は厳格かつ高度な基準と運用ルールに縛られている。それを操縦、操作する人間も高度な訓練を受けているのである。
片や道路交通はどうだろうか。一応、運転免許なる制度の上で資格を得た者が自動車を運転する形ではあるが、はっきり言って運転免許はバカでも取れる。
その運用も、自動車は個人に委ねられているのだ。警察、司法による監視と制約、罰則はあっても、個々の運転技量とマナーに任されている。
簡単に言えば運転の下手な人もいれば上手な人も、車両工学についても知識がある人もない人もいるという極めて低レベルな世界なのである。
クルマはエンジンブレーキを知らない人でも運転しているが、新幹線の運転士に発電ブレーキ、回生ブレーキを知らない者は絶対にいないということだ。
自動車交通は、無謀な運転で迷惑をかけ事故を誘発するような運転をする者もいれば、慎重すぎて流れを滞らせ回りに迷惑をかけているような下手くそもいる。
金持ちも貧乏人も、真面目な人間もやくざ者も、ごちゃまぜで運用されている世界なのだ。
車両の安全システムにしても、最近は衝突回避の緊急自動ブレーキやレーダー波で車間距離保持機能などの搭載を謳うクルマも出てきている。
しかし、鉄道の世界では50年以上前からATSを始めとし、さまざまに進化してきた保安システムを備えてきた。
鉄道の安全性と比較したら自動車交通の保安システムはほとんどが人間の注意力と判断のみに頼っているという、19世紀に自動車が発明されてからからまったく進歩していないも同様だ。
赤信号を無視しても自動停止させる機能は鉄道では当たり前でも、クルマには現在でもない。
はっきり言って、そのような道路交通システムのレベルは未だ、あまりにも低すぎるのである。
個々の運転者の技量とマナーに100%依存しているという道路交通の運用方法は、原発や鉄道、航空といったシステム比べて、程度があまりにも天と地ほどかけ離れた、あまりにもレベルが低すぎるのだ。
自動車交通が個人に頼らず100%自動運転化されて、クルマの世界から趣味性が一切排除されたときに、初めて自動車事故はコントロールされると言って良いだろう。
そのような道路交通で発生している事故が、コントロールされているなどと、間違っても認められないだろう。
それでも、原発に対しては経済よりも人の命を優先しろと中日新聞は言う。
しかし、道路交通に対しては、今の状況は明らかに、人の命よりも経済を優先しているとしか言えないではないか。
日本経済を支える自動車産業の発展のために、そしてあらゆる経済活動のために自動車は必需品だ。
その利便性を失ってまで、命の優先を唱える気は、中日新聞にはないだろう。もっとも触れられたくない部分なのだろう。逃げているだけ。
新聞記者だって、毎日ハンドルを握って、自由気ままに24時間好きなように移動できるクルマを手放す気も覚悟もないだろう。
中日新聞が原発には強い口調で経済よりも命を優先しろと言いながら、道路交通事故のことには目をつぶり無視している偽善性が、聞いていて腹が立つのだ。
そしてもう一点、やたら最近、原発についてドイツの例をあげている。
ドイツは原発をやめていく方向にある。それを見倣えということ。
ならば問いたい。ドイツでは閉店法という法律があって、日本のようにどうでもよい業種の深夜営業、24時間営業などは禁止されている。
これまで条件緩和もされてきて、駅構内やガソリンスタンドなどの例外的業種はあるが、日本のような無秩序な深夜営業は禁止されている。
要するに、深夜に人の命に関わるような業種以外のどうでも良い店舗を営業させて無駄な電気を使い放題にするような蛮行を許していないのだ。
日本は、経済発展、民間の利益のために社会の24時間化を推進し、無秩序に24時間営業などを認めている。
節電を優先するならば、深夜の需要などたいしたことないし、労働環境のためにも深夜営業などやめるべきである。
そういうドイツの閉店法の趣旨も取り入れて、徹底的な節電をする覚悟があるのならば、ドイツを見倣っての脱原発も結構なことである。
無秩序に無駄な電気の消費を許している分際で、脱原発だけ主張するなど無責任きわまりないことだ。
日本人も、これまでのような利便性の追求、24時間営業などを求めない覚悟が必要ではないか。
それなのに、一部のバカ政治家どもなどは社会の24時間化に対応するために、公営交通の24時間営業ができないかなどと言っている。
そういう政治家が原発には反対していると、本当に無責任かつ無知だなとつくづく思う。
コンビニが24時間営業していないと、深夜までスーパーが営業していないと、ファミレスの深夜営業がないと不便だなどとあまっちょろいことを言っている人間に、脱原発など言う資格はない。
不便さを受け入れる覚悟があってはじめて、原発反対と言えるのだ。
原発をやめろと言うならば、現状では火力発電に頼っているのだから社会全体での化石燃料の消費を抑えるために自動車利用も極力やめるべだし、24時間営業などもやめる覚悟が必要だ。
通勤電車の蛍光灯を間引くなどという本当にくだらない、節電効果ゼロのパフォーマンスだけで満足するよりも、深夜営業を法律で禁止する方が、よっぽど節電効果を大きいだろう。
結局、自動車社会には疑問を持たず原発反対の声だけが大きくまかり通る理由は、日本で自動車関連産業に従事し生計を得ている人は100人に1人はいるが、原子力関連産業に従事し生計を得ている人は千人か1万人に1人しかいないから、原発反対は世論になっても、自動車社会に疑問を持つ声は出ないというところが答えなのだろう。
民意なんて所詮、その程度。
そして、電気は何で発電しようが有りさえすれば個々には困らないが、自動車を放棄することは個々に重大な不利益があるからというところなんだろう。
そこが自動車の危険性には目を瞑り、原発の危険性に対しては声高になれる所以だろう。
自動車産業の衰退は日本経済に大打撃を与えるだろうが、原子力産業の衰退は日本経済に与える影響は小さく直接国民の不利益にならないことこそが、根底にあるのだ。
そんなことを思っていた今日、小泉、細川の落ちぶれ老害コンビが、脱原発を目指す一般社団法人「自然エネルギー推進会議」なるものを設立するとのニュースが。
あ~あ。
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この記事へのコメント
世の中が便利になった代わりに、人の繋がりが希薄になった様に思えてなりません。ぼくは人混みや渋滞が嫌いなので朝早く家を出ています。それでも道にはトラックが走り、運転に気を遣います。コンビニにもこんな時間に何で?と思うほど人がいて、かえって世の中が窮屈になってきています。なんでも便利になるという事は、人との会話がなくなってしまう事だと思います。人に聞かなくても事が足りるという事ですから。
Posted by さよなら「ながさき号」門司港行 at 2014年05月13日 20:42