2013年07月07日
時刻表1975年3月号
古い時刻表を見始めたら、次から次へと思い出がよみがえってくる。
以前古本屋で買った、1975年、昭和50年の時刻表を引っ張り出した。
ダイヤ改正の3月号で、新幹線博多開業時のもので画期的改正号でもある。
表紙には0系4編成が並び、背景に富士山が写る、三島の車両基地での撮影のものだ。
手元の時刻表は国鉄内部用のもので、背表紙に日本交通公社の表示ではなく、「日本国有鉄道」とある。これはみどりの窓口など、駅の窓口できっぷを買う人が調べるためにも置いてあったので、ふだんから手にはしていたものだ。だから内容は若干違っていて、表紙をめくると「新幹線の新しいサービス」という表題で職員用の説明書が記載してある。
ダイヤ改正のあらましのページを見ているといろいろと改正された点がよくわかる。
新幹線が博多まで伸びたことにより、岡山ー九州間の昼行優等列車が全滅している。これは、東海道新幹線が開業後もこの時点でも、東海道本線は東京ー静岡の東海号や名古屋ー大阪の比叡号などの昼行急行が存続しているのとまるで違っている。当時の国鉄の雰囲気からすると、昼行急行を多少は残してもおかしくない気がするが・・・。
夜行の寝台特急や急行はほとんど存続している。
「新幹線の新しいサービス」のページには、新幹線は夜行がないので早朝からの活動ができないので云々・・という説明もあり、朝、目的地へ着く必要性を重視して、すべての旅客を新幹線に移行させるという思想ではなく、利用者の選択肢を幅広く維持するためにも、東海道・山陽の夜行列車は存続させていたようだ。
国鉄はこの頃からさんざんに言われていたが、今よりも根本の部分で旅客サービスを配慮していたのだ。
この改正から、東京ー米子の寝台特急「いなば」と東京ー紀伊勝浦の「紀伊」が登場している。案外新しい列車だったんだと思う。また、東京ー西鹿児島の急行「桜島・高千穂」が廃止されている。「はやぶさ」は西鹿児島編成と長崎編成が併結されていたが、長崎編成は熊本行(止まり)と変わっている。
私が小学生の頃、「はやぶさ」の長崎編成に乗って佐賀まで帰省した記憶が鮮明に残っている。20系の最後尾は展望車のようになっていて、ずっと後ろに流れる景色を見ていた。そんな小学生だった私に車掌さんが話しかけてくれた。寝台特急に乗ることが、自分にとって年に一度の大イベントで、最高の楽しみだった。鉄道に国鉄に憧れていた。
大阪から北陸方面はこの改正から優等列車は基本、前年度に開業した湖西線経由となった。
同じく、東京方面から北陸本線への寝台特急「北陸」がこの改正で誕生している。これまで、上野駅を発着する北陸方面の夜行はすべて急行だったのだ。上野発の夜行急行「能登」「越前」この後ながらく存続した。
北陸本線には、懐かしい急行がたくさん走っている。「立山」「くずりゅう」「ゆのくに」など。「きたぐに」はつい最近まで生き残っていた。特急「加越」もむこのとき誕生し、寝台特急「つるぎ」もある。
寝台専用列車としては、走行距離の短さでは「つるぎ」、「北陸」と並ぶ、東北方面には最短走行距離であった寝台急行「新星」もある。
欄外の駅弁コーナーには、名古屋駅、とりごはん300円、お茶付三色弁当200円、守口漬、ういろう、納屋橋饅頭なんて記載もある。駅弁と並んで名産も記載していた。
瀬戸大橋は当然ない時代、四国へと結ぶ宇野線、宇高航路も元気だった。
山陰本線には長距離鈍行がたくさん走っている。
長崎本線にはまだ電化開業前で、昼行の特急はなく、すべて気動車急行だった。「出島」「弓張」、佐賀線経由で熊本から来る「ちくご」、別府からやってくる「西九州」懐かしい名前ばかりだ。急行気動車は分割併合を繰り返し、とても複雑だった。乗車する際も、目的地へ行く編成の列を確かめて並ばなければと、とても注意したものだ。
東北方面は新幹線などなく、東北本線、常磐線は特急、急行が入り乱れて走っている。また、この頃の在来線特急は、本当に気が狂ったようなスピードで走っていたものだ。「はつかり」、「やまびこ」、「ひばり」、上越線の「とき」などなど、8M4Tの485系、181系のフル編成が1秒たりとも無駄にしないぞというような気迫で疾走していた。
ちなみに在来線の表定速度ナンバーワンは、長らく「加越」だった。線路状態が最高の重量級の北陸本線の条件が良いところだけ走っていたから。今でも、北陸本線の特急は、昔ながらに疾走しています。だけど車両の総合的な性能がアップして乗り心地も良いので、乗っている分にはたいしてスピード感がありません。
なかなか北海道方面まで進めません。時刻表を順番にめくっていく特性上で・・・
今回はこの辺で。
東北日本海側、奥羽本線や北海道も見どころはたくさんあるので、続きも書きたいです。
以前古本屋で買った、1975年、昭和50年の時刻表を引っ張り出した。
ダイヤ改正の3月号で、新幹線博多開業時のもので画期的改正号でもある。
表紙には0系4編成が並び、背景に富士山が写る、三島の車両基地での撮影のものだ。
手元の時刻表は国鉄内部用のもので、背表紙に日本交通公社の表示ではなく、「日本国有鉄道」とある。これはみどりの窓口など、駅の窓口できっぷを買う人が調べるためにも置いてあったので、ふだんから手にはしていたものだ。だから内容は若干違っていて、表紙をめくると「新幹線の新しいサービス」という表題で職員用の説明書が記載してある。
ダイヤ改正のあらましのページを見ているといろいろと改正された点がよくわかる。
新幹線が博多まで伸びたことにより、岡山ー九州間の昼行優等列車が全滅している。これは、東海道新幹線が開業後もこの時点でも、東海道本線は東京ー静岡の東海号や名古屋ー大阪の比叡号などの昼行急行が存続しているのとまるで違っている。当時の国鉄の雰囲気からすると、昼行急行を多少は残してもおかしくない気がするが・・・。
夜行の寝台特急や急行はほとんど存続している。
「新幹線の新しいサービス」のページには、新幹線は夜行がないので早朝からの活動ができないので云々・・という説明もあり、朝、目的地へ着く必要性を重視して、すべての旅客を新幹線に移行させるという思想ではなく、利用者の選択肢を幅広く維持するためにも、東海道・山陽の夜行列車は存続させていたようだ。
国鉄はこの頃からさんざんに言われていたが、今よりも根本の部分で旅客サービスを配慮していたのだ。
この改正から、東京ー米子の寝台特急「いなば」と東京ー紀伊勝浦の「紀伊」が登場している。案外新しい列車だったんだと思う。また、東京ー西鹿児島の急行「桜島・高千穂」が廃止されている。「はやぶさ」は西鹿児島編成と長崎編成が併結されていたが、長崎編成は熊本行(止まり)と変わっている。
私が小学生の頃、「はやぶさ」の長崎編成に乗って佐賀まで帰省した記憶が鮮明に残っている。20系の最後尾は展望車のようになっていて、ずっと後ろに流れる景色を見ていた。そんな小学生だった私に車掌さんが話しかけてくれた。寝台特急に乗ることが、自分にとって年に一度の大イベントで、最高の楽しみだった。鉄道に国鉄に憧れていた。
大阪から北陸方面はこの改正から優等列車は基本、前年度に開業した湖西線経由となった。
同じく、東京方面から北陸本線への寝台特急「北陸」がこの改正で誕生している。これまで、上野駅を発着する北陸方面の夜行はすべて急行だったのだ。上野発の夜行急行「能登」「越前」この後ながらく存続した。
北陸本線には、懐かしい急行がたくさん走っている。「立山」「くずりゅう」「ゆのくに」など。「きたぐに」はつい最近まで生き残っていた。特急「加越」もむこのとき誕生し、寝台特急「つるぎ」もある。
寝台専用列車としては、走行距離の短さでは「つるぎ」、「北陸」と並ぶ、東北方面には最短走行距離であった寝台急行「新星」もある。
欄外の駅弁コーナーには、名古屋駅、とりごはん300円、お茶付三色弁当200円、守口漬、ういろう、納屋橋饅頭なんて記載もある。駅弁と並んで名産も記載していた。
瀬戸大橋は当然ない時代、四国へと結ぶ宇野線、宇高航路も元気だった。
山陰本線には長距離鈍行がたくさん走っている。
長崎本線にはまだ電化開業前で、昼行の特急はなく、すべて気動車急行だった。「出島」「弓張」、佐賀線経由で熊本から来る「ちくご」、別府からやってくる「西九州」懐かしい名前ばかりだ。急行気動車は分割併合を繰り返し、とても複雑だった。乗車する際も、目的地へ行く編成の列を確かめて並ばなければと、とても注意したものだ。
東北方面は新幹線などなく、東北本線、常磐線は特急、急行が入り乱れて走っている。また、この頃の在来線特急は、本当に気が狂ったようなスピードで走っていたものだ。「はつかり」、「やまびこ」、「ひばり」、上越線の「とき」などなど、8M4Tの485系、181系のフル編成が1秒たりとも無駄にしないぞというような気迫で疾走していた。
ちなみに在来線の表定速度ナンバーワンは、長らく「加越」だった。線路状態が最高の重量級の北陸本線の条件が良いところだけ走っていたから。今でも、北陸本線の特急は、昔ながらに疾走しています。だけど車両の総合的な性能がアップして乗り心地も良いので、乗っている分にはたいしてスピード感がありません。
なかなか北海道方面まで進めません。時刻表を順番にめくっていく特性上で・・・
今回はこの辺で。
東北日本海側、奥羽本線や北海道も見どころはたくさんあるので、続きも書きたいです。
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