2013年07月20日

選挙のマイク その3

 選挙カーの上の候補者や党首、応援弁士は、何本ものマイクを束ねてしゃべっているいると書きました。あれはダサイと。
 それが、今日の中日新聞朝刊の記事で、みんなの党、共産党、維新の会の写真が載っています。白いガーゼは変わらないけれど、全員がマイク1本だけです。共産党の志位さんだけは、ガーゼではなくてちゃんと風防付きのマイクです。
 まさか私のこのブログを見て変えたなんて万に一つもありえないけれど、なんででしょうかね。不思議です。何本ものマイクはハッタリにしか見えないから、みっともないないと感じてしまいます。
 ところで、維新の松井幹事長が、どう見てもコック、シェフにしか見えません。  

Posted by よっぱらいくま at 16:44Comments(1)TrackBack(0)政治・社会

2013年07月20日

日本食堂

 新幹線の食堂車のことを書いていて、こちらのこともいろいろと思い出されます。
 「日本食堂」、読み方は「にっぽんしょくどう」だ。
 往時の国鉄の食堂車営業はほとんどが日本食堂だった。東北本線をはじめとする、在来線の特急に食堂車が必ず連結されていた昭和40年代までは、全国を日本食堂が走っていた。
 ネットで見たら、現在は略称NRE、日本レストランエンタプライズという会社名で、JR東の子会社で主にJR東の車販をやっているとか。だから、東海道新幹線の車販はやっていないのかな。
 国鉄時代は列車の食堂車と車販はイコール、日本食堂というものだった。
 その他に国鉄駅構内の食堂営業も多くやっていて、各地を旅していて安心して入れるレストランであった。
 私は小学生の頃、池袋の日本食堂に、母に連れられてよく行ったものだ。今では懐かしのメニューともいえる「ナポリタン」をいつも食べていたと記憶する。テーブルには三角に折られたナプキンに、塩と爪楊枝、しょうゆ差しと、独特な形態のソース入れが必ずあった。また、100円コインを入れると運勢みたいなのを書いた小さい巻物が出てくる灰皿も必ずあった。星座か生年月ごとにコイン投入口がたくさんあったが、中に入れば同じなんだと思ったものだ。
 メニューはきわめて普通で、なんでもあるけど味も普通みたいな。でも、あのナポリタンの味は、今でも自分では再現できません。今、各地にある、「懐かしの」とか「昭和の」ナポリタンというものも、あの頃の、あの時代の、あの年頃に食べた味とは違います。たとえ違わなくても、その時代、そのときの自分の年齢、あの頃でなければ同じ味にはならないのです。あの味は永遠に二度と味わえないのかもしれません。たぶん当時は、日本食堂などはオリジナルの味で料理などはしてなくて、味付けは業務用の調味料を使っているだけなのだろうけれど。
 日本食堂は各地の拠点駅には必ずありました。店員の愛想とかも平均するとあまりよくなかったような気もします。昔の大衆食堂、デパートの大食堂とかも、店員の態度はあまりよくなかったような。なんとなく、食べさせていただいてますみたいな雰囲気でした。
 デパートの大食堂とかは、まず入口のところにずらっと並んでいる見本を家族全員で見て決めてからから、窓口で食券を買い、案内させた席へ行って(自分で勝手に空いているテーブルへ行くだったかな?)、食券をテーブルへ置いて、ウエーター、ウエートレスが来るのを待つみたいな方式でした。私がすごいなと思ったのは、食券を半分にもぎって注文を通すのだけど、そのもぎりを片方の手で握って「パチリ」と鮮やかにやるのがとても格好よく見えました。概して、そういうデパートの大食堂とかも店員の愛想はあまりよくありませんでした。
 日本食堂も昔はすべて、食券を買ってから着席後にもぎってもらう方式でした。それがいつの頃からか、オーダーを聞いてから伝票を置いて、最後に精算する方式になっていきました。今でも、観光地の大食堂みたいなところは食券の事前購入をするようなレストランもありますね。
 食堂車の話しに戻して、在来線の食堂車にはあまり思い出がありません。食堂車全盛期は私自身幼かった頃から、せいぜい学生時代までで、その後は衰退の一途をたどっていったから。学生の頃までは九州ブルトレにも必ず食堂車があったけれど、やはり値段が高いというのがネックでした。それに酒を飲む習慣もなかったから、つまみを食べながらビールを飲むということもなかったし。今だったら、絶対そういうことするだろうけれど。
 ちなみに、東海道新幹線の車販は、JR海の子会社の株式会社ジェイアール東海パッセンジャーズが一手にやっているようです。

  

Posted by よっぱらいくま at 16:11Comments(1)TrackBack(0)食べ物

2013年07月20日

新幹線 食堂車の思い出

 先週木曜日は新幹線こだま号に乗って東京へ行きました。
 そういえばこだま号からは車販は撤退したんだよなと思いながら、不便なのかどうなのか考えていました。新幹線のホームからも以前と比べて売店、キオスクもかなり撤退しています。儲からないから、その一言につきるのだろうけれど、なんかなあと思ってました。
 さて、新幹線から食堂車がなくなってからも久しいです。
 いったい平成何年だったのだろうか、食堂車の廃止は。ネットで調べればすぐにわかるだろうけれど。
 食堂車は博多開業に合わせて当時の国鉄が、長時間乗車に対処するため、旅客の食事を考慮して食堂車導入を決めた経緯がある。今のJRなら、採算絶対だからそんな配慮はしないだろうけれど。当時だって車販は現在に比べればずっと充実していたし、駅で弁当を買うこともいくらでもできた。だけど、国鉄は採算よりも旅客の利便性も重視したのだ。そういう経営効率よりも公共性を優先していたから赤字体質であった面も否めない。一部分の側面ではあるが・・・
 当時、0系の食堂車が画期的だったのは、新幹線が1435mmの広い線路幅による車両の幅の広さを活かし、在来線の食堂車と違い通路を側面に設置して、通過する客が食堂車内を通らなくてもよい構造としたことだ。その構造は、2階建てとなった100系でも通過客は1階を通ることにより引き継がれた。
 営業形態も、国鉄の食堂車営業を一手にやっていた日本食堂をはじめ、都ホテル、帝国ホテル列車食堂、ビュッフェとうきょうの4社で営業していた。
 食堂車のメニューや雰囲気にも各社の個性があり、乗客の中にはどこそこが営業しているひかり号を選んで乗っていたなんて人も結構いました。
 実は私、大学生のときにバイトで新幹線の車販をやったことがあります。大学の鉄道研究会の先輩の紹介で働くことができました。そこは帝国ホテル列車食堂です。食堂車の評判は一番良く、選んで乗ってくれるお客さんが一番多かったのも、帝国ホテルでした。
 スタッフとしての新幹線の乗務は、当時の形態はひかり組とこだま組があり、基本はその組のメンバーで乗車していました。当然、食堂車を擁するひかり組が人数も多く職人気質のコックもいるので、華やかであり、厳しくもありました。対してこだま組はビュッフェはあるものの少人数で、なんとなく家庭的な雰囲気でした。私は最初はひかり組でした。たしか32組だったかな。初乗車のときもいきなり、安倍川餅とういろうを持たされて売りに行きました。当時は、今みたいにワゴンだけではなく、みやげものだけや、弁当だけを持ち歩いて売る形態がかなりありました。ワゴンは品数も多く、今みたいにバーコードを機械で読み取り精算するのではなく、手計算、記憶だけで販売していたから、ワゴン販売はベテランの正社員がやっていました。バイトでも経験長い人は任されていたけれど。
 慣れないうちはみやげもの(特にういろうは重くてつらかった)を持って車内を何往復もしたあとは腕がぱんぱんになって、乗務後の食事も腕が震えてできなかったくらいだ。あれはコツがあって、腕を曲げて抱えると無駄に負担が増すが、腕をピンと伸ばして持てば良いということを自然に覚えた。
 帝国ホテル列車食堂は、全然覚えていなかったけれど、東西線の茅場町にあったことをネットで確認しました。それで新大阪と岡山と博多にそれぞれ食堂車従業員用の滞在施設があった。だから帝国ホテルが担当するひかり号は、新大阪、岡山、博多どまりに限定されていた。要するに広島発着のひかり号は帝国ホテルが担当することはなかった。
 博多ひかりの場合は基本、片道のみ仕事の泊まり、一泊二日勤務だった。新大阪は時間帯により日帰り往復勤務か夜遅い到着列車だと一泊二日勤務でした。
 車販は重労働ですよ。私は当時、女性の仕事では、看護婦と車販が一番大変だと確信しました。
 何しろ、新幹線の中を何往復も歩きっぱなしです。当時は混んでいることも多く、立ち客を掻き分けながらの販売は大変でした。お盆の大混雑のときは、ワゴン販売を断念し、各自手持ちで販売したこともありました。
 班の中でも、16両の新幹線を食堂車を中心に、こだまはビュッフェ車を中心に博多寄りをA車、東京寄りをB車と分けて分担していました。基本、自由席のあるA車担当の方がきつかったです。立ち客が多くいる場合が多いので。ひかり組のときは、バイトの私は基本、A車担当でした。グリーン車を含むB車は正社員担当が多かったです。こだま組になったときは、A車もB車もまんべんなく担当しました。
 一度は読売ジャイアンツの選手がグリーン車に乗っていたこともあった。私は芸能人とか有名人に疎かったが、王さんや長島さんくらいはわかった。私に声をかけて何か買ってくれたような記憶がある。なんか関係ないことまで話しかけられもされたのだが、よく覚えていない。なにしろ当時は、プロ野球にまったく興味がなかったから。だから別になんとも思いませんでした。
 当時、弁当は起点駅での積込が原則だったが、うなぎ弁当だけは車内で調製していた。調製といっても、真空パックのうなぎをチンして暖かいごはんに載せて、弁当箱に詰めたものだったが。でも箸をつけて包み紙をかけたりといった作業があった。私は箸を付け忘れるというミスをやらかしたことがある。気がついたときは急いで、売った客のところへ記憶を頼りに届けにいったものだ。うなぎ弁当は車内でいくらでも調製できたので、(ご飯は炊いたものをたくさん積んでいた、なくなることはまずなかった)駅積み込みの幕の内弁当などすべて売り切れたときに、弁当を所望する乗客の要望で作ったのだ。でもうなぎは苦手、午前中から食べたくないみたいなことを言われて、「うなぎしか出来ないならいらない」と言われたことも結構あった。うなぎ弁当は真空パックのものだけど、味はたしかでしたよ。ちゃんとタレもかけて、、暖かいから冷たい積み込み弁当よりもはるかにおいしかったはずです。高かったけれど。
 あと、ビールはその日その日で積み込む銘柄が異なっていたけれど、一時、バドワイザーを積み込んでいたこともあった。一度、ビールを所望する客にバドワイザーを出したら、「それしかないのか?」と言われ、これしかないと言うと、「じゃ、いらない」と言われたことがあった。そのときの私は、今と比べて、まったくプライベートでは酒を飲まず興味もなかった。今となっては、その客の気持ちがよ~くわかります。私も、車販でモルツやドライだと「いらない」と言いたくなるので。ビールはサッポロとキリン派です。でもバドワイザーは特殊ですよね。
 終着駅が近づき、ひと段落しているときに、さきほどのうなぎ弁当用のご飯が大量に余っているときなどたまに、ご飯にうなぎのタレだけをかけて食べさせてもらったこともありました。それのうまかったこと、重労働のあとでもありまだ二十歳くらいの食べ盛りのこと、あんなにうまい食べ物は記憶にありません。
 泊まり勤務では乗務のあと、さきほど書いた宿泊所に行きます。到着後は、好きな人は夜の街に繰り出す人もいました。
 新大阪は駅から少し遠くて、送迎のワゴン車に乗って行きました。新大阪駅構内の職員専用通路を通って外へ出るのだけど、私が4年前の新幹線通勤で新大阪に通い始めて、いつも通る通路にその職員用通路入り口を見つけて、感慨にふけったものです。
 岡山と博多はたしか、駅から歩ける距離でした。たまにはバイト仲間と缶ビールを飲みながら、宿泊所で語り合ったものです。もう名前も顔も覚えていないけれど。
 特筆する出来事は、営業運転中の新幹線の運転室に入り、運転台から前方の景色を見たことです。当時は新幹線運転士へコーヒーをサービスするという決まりがありました。当時の新幹線は運転士は2人乗務でした。東京ー新大阪間の中間地点を走行中に運転を交替していました。だから運転士が二人、運転室にいました。それで、コーヒーを持って行って、運転室のドアをノックして、運転していない方がドアを開けて受け取ってくれました。運転室へは入ってはいけない決まりでした。一度だけ、ノックすると運転士が「入ってきていいよ」と言って、中に入れてくれました。そして、こっちに持ってきてって言いました。運転室に入り0系の運転台ははるか高い位置にあります。階段を上り運転席に近づきました。そして一瞬だけだけど運転室から見える前方の流れる景色に圧倒されました。在来線とは別次元の世界でした。感動でした。私は立場上冷静を装いながらも、そのときの人生で最高の出来事に感動で震えてしまいました。運転士からすれば、取りにいくのが面倒臭かっただけだったと思うけれど。
 こんなこともありました。コーヒーは起点駅からポットに入れたものを何本も積み込んでいましたが、売れ行きが良いとなくなってしまいます。ビュッフェにはコーヒーメーカーもあって、なくなったらそれで作って補充していました。あるとき、コーヒーを作ろうとコーヒーメーカーの水の注ぎ口のフタを明けると、なんと、ゴキブリが大量に出てきたのです。これには他のスタッフもびっくり。さすがにこの日は、コーヒーの継続販売を断念しました。新幹線って、結構ゴキブリの巣窟だと、なんかテレビかなんかでやっていました。今は、供食スペースがないし、車内のゴミも乗客がきれいに持ち帰りゴミ箱に捨ててくれるから、そんなことはないと思います。
 そういえば300系にも簡易な販売スペースがありましたね。
 100系時代になり、食堂車のない車両も増えて、食堂車営業列車も徐々に減っていきました。
 新幹線の車販は良い経験でした。私は鉄道マニアだから、高校生の頃から鉄道ばかり乗ってましたから、乗客の気持ちはよくわかっているつもりでした。車内をゆっくり歩き、買いたそうな客、迷っていそうな客、声をかけるタイミングを計っていそうな客、などなど、自分なりに目配りして工夫していました(マニュアルにも似たようなことが書いてあったけど)。自分で言うのもなんだけど、売り上げは決して悪くなかったと思います。
 今となっては、新幹線に食堂車はおろか、こだま号からは車販すら撤退した新幹線はつまらないものです。
 車販も乗務する人数も少なく、のぞみの自由席1号車にでも乗った日には、混んでいるときなど名古屋から乗って東京に向かっていて、車販が来るのは三島通過する頃にやっと初めてきて、それで終わりなんてことばかりです。通常でも2往復しか来ません。私が乗務していたときは、東京ー名古屋だけで4往復はしていました。ワゴンではないけれど。混んでいたから、土産を売った後は、次は弁当を抱えて、それが終わったらビールだけ持ってと、次から次へと売って、車内を往復していました。
 それにしても、今の車販のお姉さんたちは、みんなきれいでスタイルが良い人ばかりですね。私が車販をしていた頃は・・・。でも今の車販のお姉さんたちよりも当時は逞しかったかなあ。格好というかユニフォームもぜんぜん違いますよね。
 帝国ホテル列車食堂も、都ホテルも、ビュッフェとうきょうも、食堂車営業から撤退し、日本食堂も縮小してのちにJダイナーとかいう会社名になって、今はなんでしたっけ?
 新幹線は車販のみで、新幹線パッセンジャーサービスとJダイナーの営業となり、時刻表にも営業会社が表記されていた時代もあったけれど、今は何も書いていません。現在、車販を営業している会社ってどこでしたっけ?
 朝のサンドイッチとコーヒーの500円セットは重宝しています。車販のコーヒーも本当においしくなりました。


続きです
新幹線食堂車 帝国ホテル列車食堂  

Posted by よっぱらいくま at 10:40Comments(3)TrackBack(0)新幹線