2014年05月08日
JR東海 徘徊老人の事故
徘徊老人が電車にひかれて死亡、JR東海が家族に損害賠償を求めた裁判について、議論となっている。
私は、介護の問題と、線路内に人が立ち入ったために列車の運行妨害となり損害が発生したこととは切り離して考えるべきと思う。
何人たりとも、みだりに線路内に立ち入って事故に遭った場合、鉄道会社側は基本、損害賠償請求権を持つ。
それは相手が大人でも子供でも、認知症患者でも変わりない。
刑事事件であれば、精神疾患を患っていれば責任能力はないとして免責されるが、民事事件であれば、当人に責任能力がなければ家族等に賠償責任が生じるという考えが一般的だろう。
今回の件に当てはめれば、認知症を患った老人が線路に入ったため死亡。
それにより鉄道会社側は当人へ損害賠償を請求したいが本人死亡につき、当人に代わり法定相続人である家族に損害賠償を請求するという形であればすっきりする。
そして、損害賠償を求められた家族は、それでは相続権を放棄するという形にすれば、家族も金銭負担も逃れられる。
JR東海側も一定の判決を得られ納得できる、という形に出来なかったのだろうか。
死亡した当人に多大な財産があり、損害賠償分を払っても十分お釣りが来るというのならば、相続を受けて支払えばよい。
だが、今回の徘徊老人に財産があるとは考えにくい。あったらたぶん、そういう手法で解決していただろう。
今回の件では本人の責任よりも、介護する立場の家族に監督責任がある、それを怠ったから事故が起きた、だから家族が損害を賠償しろという理論だ。
これでは、老人介護という困難な問題に直面している現代の日本では、世間の理解は得られないだろう。
私もそう思う。
しかも、今回は老老介護である。高齢の夫を介護している妻も80歳代である。心情的に80歳代の妻に365日、24時間、認知症の夫を管理監督する義務があり、 それを怠ったから賠償責任があるという理屈では、あまりにも気の毒すぎる。
介護の現場、実情をあまりにも知らないのではないかと思う。
カギをかけるのを怠ったとか、もう本当に小さいことを非難して責任を認めている。
介護者の心労はどれくらい大きなものか、まったく理解していないのではないか。
簡単に監督責任があるなとど言ってはいけない。
裁判官は、介護の現場とか、身内や裁判官本人自身が、自分の両親や配偶者の義父母の介護に直面したこともないのだろうか。
もし、裁判官自身や配偶者が老人を介護する立場に直面していて、それでも今回のような判決を出したのならば、それはそれで言い換えれば立派である。
しかし、たぶん、そんなことはないのだろう。
病人や老人の看護、介護など経験したことも、考えたこともないのだろう。
裁判官をはじめ法曹界に育つものは、一般社会経験に乏しく、世間の常識が備わっていない者も多いという。
特別養護施設への入所は何年待ち、有料老人ホームは金持ちしか入れないのが、今の日本の実態だ。
そのような大問題を抱えている日本で、認知症の老人の管理監督責任をすべて、介護する家族に求めるというのは、あまりにも理不尽だ。
今回の件が、子供が起こした事故に対して親が賠償責任を持つという考えと同一にしていることが問題だ。
子供と老人では、監督責任の内容も重さも、直面する苦労もまったく違う。
子供の面倒を見て子供の行動に責任を負うことは、親の責務だ。
しかし、老人介護を同列にしてはいけない。
子供は育っていけば負担は軽くなる一方であり、一時的な苦労はあってもその先の明るい未来が見えている。
老人介護は悪くなる一方でありいつ終わるかわからない、先の見えない未来のない闘いだ。そして最後は死だ。
法律の世界では、そのような理屈は通らない、冷たい世界であるのも事実だが。
監督責任、このような理屈なら賠償を勝ち取れるという考えで、JR東海が裁判を進めたのであれば、情けない。
リニアを建設する力のある企業が、こんなことで勝ってどうするのか。
JR東海の立場も理解できる。鉄道会社側としても事故の度に、これは賠償を求める、これはかわいそうだから賠償は求めないと、あいまいな扱いは出来ないだろう。
だから、画一的に事故当事者に損害賠償を求めること、手続きを踏むことは理解できる。平等な扱いである。
しかし、もう一歩踏み込んで、情というものをうまく取り込んでほしい。
最初に書いたとおり、本人に請求したいけど死んだので本人に代わり本人の債権債務を承継する相続人が払ってねと。
そういうように監督義務とかは問わないという形にすれば、家族は相続放棄で逃げられるのだ。
JR東海が建前上、裁判を起こす必要があるならば、JR東海にはそういう理屈でやってほしかった。
認知症患者の事故に対して、介護で苦しむ家族の監督責任を認めさせるのでは、介護に関わるすべての人が、これから嫌でもそういう立場になり得るすべての人の理解は得られないだろう。
JR東海の法務担当者だって、いつ、両親を、家族を介護する立場になるのかわからないのだ。
そういう立場になった時、家族にすべての監督管理責任があるのだから、私は365日24時間、要介護者の面倒を見られると、自信を持って答えられるのだろうか。
今の日本で、あまりにも重く切ない問題である。
介護の負担を軽くするための施設の拡充、人材の確保のために国が動き、その財源として消費税が上がるのならば、喜んで10%でも払いたい。
このブログをアップした直後、NHKのニュースで、判決を不服としてJR東海が上告したとのこと。
家族側はまだ、二審判決に対して上告などしていない。
家族の苦しみを思うと、涙が出てくる。
いい加減、JR東海よ、やめろよ。
それ以上、介護に苦しんだ人間を責めるなよ。
もうやめてくれ。
私は、介護の問題と、線路内に人が立ち入ったために列車の運行妨害となり損害が発生したこととは切り離して考えるべきと思う。
何人たりとも、みだりに線路内に立ち入って事故に遭った場合、鉄道会社側は基本、損害賠償請求権を持つ。
それは相手が大人でも子供でも、認知症患者でも変わりない。
刑事事件であれば、精神疾患を患っていれば責任能力はないとして免責されるが、民事事件であれば、当人に責任能力がなければ家族等に賠償責任が生じるという考えが一般的だろう。
今回の件に当てはめれば、認知症を患った老人が線路に入ったため死亡。
それにより鉄道会社側は当人へ損害賠償を請求したいが本人死亡につき、当人に代わり法定相続人である家族に損害賠償を請求するという形であればすっきりする。
そして、損害賠償を求められた家族は、それでは相続権を放棄するという形にすれば、家族も金銭負担も逃れられる。
JR東海側も一定の判決を得られ納得できる、という形に出来なかったのだろうか。
死亡した当人に多大な財産があり、損害賠償分を払っても十分お釣りが来るというのならば、相続を受けて支払えばよい。
だが、今回の徘徊老人に財産があるとは考えにくい。あったらたぶん、そういう手法で解決していただろう。
今回の件では本人の責任よりも、介護する立場の家族に監督責任がある、それを怠ったから事故が起きた、だから家族が損害を賠償しろという理論だ。
これでは、老人介護という困難な問題に直面している現代の日本では、世間の理解は得られないだろう。
私もそう思う。
しかも、今回は老老介護である。高齢の夫を介護している妻も80歳代である。心情的に80歳代の妻に365日、24時間、認知症の夫を管理監督する義務があり、 それを怠ったから賠償責任があるという理屈では、あまりにも気の毒すぎる。
介護の現場、実情をあまりにも知らないのではないかと思う。
カギをかけるのを怠ったとか、もう本当に小さいことを非難して責任を認めている。
介護者の心労はどれくらい大きなものか、まったく理解していないのではないか。
簡単に監督責任があるなとど言ってはいけない。
裁判官は、介護の現場とか、身内や裁判官本人自身が、自分の両親や配偶者の義父母の介護に直面したこともないのだろうか。
もし、裁判官自身や配偶者が老人を介護する立場に直面していて、それでも今回のような判決を出したのならば、それはそれで言い換えれば立派である。
しかし、たぶん、そんなことはないのだろう。
病人や老人の看護、介護など経験したことも、考えたこともないのだろう。
裁判官をはじめ法曹界に育つものは、一般社会経験に乏しく、世間の常識が備わっていない者も多いという。
特別養護施設への入所は何年待ち、有料老人ホームは金持ちしか入れないのが、今の日本の実態だ。
そのような大問題を抱えている日本で、認知症の老人の管理監督責任をすべて、介護する家族に求めるというのは、あまりにも理不尽だ。
今回の件が、子供が起こした事故に対して親が賠償責任を持つという考えと同一にしていることが問題だ。
子供と老人では、監督責任の内容も重さも、直面する苦労もまったく違う。
子供の面倒を見て子供の行動に責任を負うことは、親の責務だ。
しかし、老人介護を同列にしてはいけない。
子供は育っていけば負担は軽くなる一方であり、一時的な苦労はあってもその先の明るい未来が見えている。
老人介護は悪くなる一方でありいつ終わるかわからない、先の見えない未来のない闘いだ。そして最後は死だ。
法律の世界では、そのような理屈は通らない、冷たい世界であるのも事実だが。
監督責任、このような理屈なら賠償を勝ち取れるという考えで、JR東海が裁判を進めたのであれば、情けない。
リニアを建設する力のある企業が、こんなことで勝ってどうするのか。
JR東海の立場も理解できる。鉄道会社側としても事故の度に、これは賠償を求める、これはかわいそうだから賠償は求めないと、あいまいな扱いは出来ないだろう。
だから、画一的に事故当事者に損害賠償を求めること、手続きを踏むことは理解できる。平等な扱いである。
しかし、もう一歩踏み込んで、情というものをうまく取り込んでほしい。
最初に書いたとおり、本人に請求したいけど死んだので本人に代わり本人の債権債務を承継する相続人が払ってねと。
そういうように監督義務とかは問わないという形にすれば、家族は相続放棄で逃げられるのだ。
JR東海が建前上、裁判を起こす必要があるならば、JR東海にはそういう理屈でやってほしかった。
認知症患者の事故に対して、介護で苦しむ家族の監督責任を認めさせるのでは、介護に関わるすべての人が、これから嫌でもそういう立場になり得るすべての人の理解は得られないだろう。
JR東海の法務担当者だって、いつ、両親を、家族を介護する立場になるのかわからないのだ。
そういう立場になった時、家族にすべての監督管理責任があるのだから、私は365日24時間、要介護者の面倒を見られると、自信を持って答えられるのだろうか。
今の日本で、あまりにも重く切ない問題である。
介護の負担を軽くするための施設の拡充、人材の確保のために国が動き、その財源として消費税が上がるのならば、喜んで10%でも払いたい。
このブログをアップした直後、NHKのニュースで、判決を不服としてJR東海が上告したとのこと。
家族側はまだ、二審判決に対して上告などしていない。
家族の苦しみを思うと、涙が出てくる。
いい加減、JR東海よ、やめろよ。
それ以上、介護に苦しんだ人間を責めるなよ。
もうやめてくれ。
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この記事へのコメント
土曜日にケアマネージャーと話した時、これからは、団塊の世代が介護施設を利用することになるので、介護予防に力を入れないと、施設が足りなくなってしまうと心配していました。介護予防は、家族が、中心になって出来ることだと思います。
Posted by さよなら「ながさき号」門司港行 at 2014年05月12日 21:39