2012年01月29日

福知山線尼崎事故2

今朝の新聞を読んでいて、ある弁護士のコラムが載っていた。
事故の防止を意識して危険性を洗い出し最善の努力をしていた鉄道会社の社長Aと、事故防止は意識せず努力もしていない社長Bのどちらが、今回の事故の裁判にあてはまめると有罪になるのかと。
心情的にはBであるが法的にはAになってしまうとのこと。
危険性を予見していたから有罪となると。
事故原因の究明には、刑事裁判は無意味であると前回、私は書いた。
そして、コラムでは、今回社長が起訴されたことにより、経営陣は危険な現場を知ろうとしなくなると危惧する。危険性を予測して予防策をとる努力をすればするほど、その対策が追いつかなかったときには、危険性を知っていたということで有罪とされてしまうということである。
「原因究明を裁判に求める気持ちはわかるが、それは刑事裁判本来の目的ではない。こうした起訴は事故防止の面ではまったく逆の結果をもたらしかねないということを知っておく必要がある。」と結んでいる。
まったくそのとおりである。法律と事故の現実の両方を熟知している弁護士だと思う。
新聞紙上にこのような記事が載ることは非常に少ない。
マスコミで報道されることは、遺族感情を前面に出し、遺族側に立つ内容がほとんどである。
だれかのせいにしたい、誰が悪いそれを決めることで恨みを晴らす、事故を起こした会社のトップが罰せられて当然、みたいな論調ばかりである。

別の日の新聞に載った芸能人のコラムで、人は悲惨な出来事にあったり、大切な人を突然失ったときにとる反応は通常、(1)パニックになる。(2)泣き悲しむ。(3)誰が悪い誰のせいだと追求する。(4)それを乗り越えて前に進めるようになる。と段階を踏んでいくと書いてあった。
事故の遺族、被害者には申し訳ないが、多くの被害者や遺族はまだ(3)の状態にあるのだと思う。
早く立ち直って、前へ進んで欲しい。
だれかのせいにしたい、という気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、事故の真相究明や防止策を推進させるためには、だれかを悪者と決めるだけでは何もよくならないのだ。弁護士の意見は、誰を悪いと決める裁判では、その逆の結果になってしまうと指摘している。再発防止には逆に後退してしまうと、そこまでは私も気がつかなかった。

今回の事故で誰が悪いかは明白である。事故を引き起こした運転士そのものである。
高度な運転規則を守れなかった運転士である。
カーブが急だったとか、防護策であるATSを設置しなかったとかいった理由で有罪にできるはずがない。
控訴をあきらめた最高検の判断は間違っていない。
運転士の判断操作ミスを招いた遠因は、日勤教育などの人事制度である。直前に起こしたオーバランを罰せられると緊張状態になり、通常の操作と判断ができなくなってあせりを招き、事故につながった。
鉄道の事業者にしても、安全策をとらなかったら罰せられると裁判で決まったら、運転士と同じ精神状態になって、この社会はまわっていかないだろう。
日勤教育などの人事制度を良しとしてきた経営陣の責任追及は必要だ。しかし、それは刑事裁判では無理なのだ。原因究明と再発防止には、誰を罰する誰が悪いということを決めつける前提では、絶対に進まないのだ。
そういう意味で、日勤教育などは当事者に見せしめ的罰を負わせることが主目的であるから、事故やミスの防止策としてはまったく機能していなかったということも、また明白である。


Posted by よっぱらいくま at 14:55│Comments(0)TrackBack(0)事故・災害

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