2012年01月29日

アニソン

酒を飲みながら歌番組を聴いていたら、昔のアニメソングがやたらと頭の中を流れていきます。

思いつくまま、歌ってしまいます。
歌詞を覚えている限り。間違っている箇所も多々あると思います。

「バビル2世」
砂の嵐にかくされた、バビルの塔に住んでいる超能力少年バビル2世。
地球の平和を守るため、3つのしもべに命令だー(ヤー)
怪鳥ロプロス空を飛べー、ポセイドンは海を行け、ロデム変身地をかけろー

「マジンガーZ」
空にそびえるくろがねの城ー、スーパーロボット、マジンガーZー
無敵の力は僕らのためにー、正義の心をパイルダーオン、
飛ばせ鉄拳ロケットパンチ、今だ出すんだブレストファイアーー
マジンゴー、マジンゴー、マジンガーZー

「銀河鉄道999」
汽車は闇を抜けて光の海へ、夢が散らばる無限の軌道だ
星の架け橋渡ってゆこう
澄んだ瞳は幸せ探す旅人のようなものー
希望の星へめぐりあうため歩いていくのだろう
きっといつかは君も出会うさ青い小鳥にー

「宇宙戦艦ヤマト」
さらばー地球よ、旅立つ船は、宇宙戦艦ーヤーマートー。
宇宙のかなたイスカンダルへ、運命背負い今飛び立つー。
必ずここへ帰ってくると、手を振る人へ笑顔で応えー
銀河を離れイスカンダルへ、はるばる望む宇宙戦艦ヤマトー

「スーパージェッター」
未来の国からやってきた、夢と希望と勇気の子
進めジェッター  嵐をついて、進め流星まっしぐらー
マッハ15のスピードだー
ジェッター、ジェッター、スーパージェッター、我らのスーパージェッター

「スペクトルマン」
スペークトルマーン、スペークトルマン、ゴーゴーゴーゴーゴゴー。
ららららー

「宇宙猿人ゴリ」
~宇宙猿人ゴリーなのだー

「オバケのQ太郎」
Q、Q、Q、オバケーのQ
僕はオバケのQ太郎
頭のてっぺんに、毛が3本、毛が3本
だけども僕は飛べるんだー
8キロ10キロ20キロ、
ひと休み、ひと休み、空から降りたら犬がいた
ワンワンワン
僕は犬には弱いんだ、弱いんだ

「新・オバケのQ太郎」
あのねQ太郎はねー(オバケのQ太郎はね)
頭に毛が3本しかないんだよ(ないんだよ)
QQQQQ、Q太郎はねー
オーバケなんだ、オーバケなんだー、オーバケなんだーけれど
ずっこけなんだかわいいやつさ、いーつも失敗ばっかりしてるんだー
だけどかっこいいつもりなんだってさー

「ジャイアントロボ」
ダッダッダッダ、ダッダッダッダ
輝く太陽、背に受けて、鉄の巨人を大空へ
勝利の凱歌だ、正義の旗だー
進めジャイアントロボ、立てー、ジャイアントロボ
(繰り返し)

酔っ払っています。
歌詞を書くと著作権とか問題になるのかな。
でも、たぶん歌詞、間違っているから良しとしよう。



  

Posted by よっぱらいくま at 19:23Comments(0)TrackBack(0)音楽・映画・テレビ

2012年01月29日

福知山線尼崎事故2

今朝の新聞を読んでいて、ある弁護士のコラムが載っていた。
事故の防止を意識して危険性を洗い出し最善の努力をしていた鉄道会社の社長Aと、事故防止は意識せず努力もしていない社長Bのどちらが、今回の事故の裁判にあてはまめると有罪になるのかと。
心情的にはBであるが法的にはAになってしまうとのこと。
危険性を予見していたから有罪となると。
事故原因の究明には、刑事裁判は無意味であると前回、私は書いた。
そして、コラムでは、今回社長が起訴されたことにより、経営陣は危険な現場を知ろうとしなくなると危惧する。危険性を予測して予防策をとる努力をすればするほど、その対策が追いつかなかったときには、危険性を知っていたということで有罪とされてしまうということである。
「原因究明を裁判に求める気持ちはわかるが、それは刑事裁判本来の目的ではない。こうした起訴は事故防止の面ではまったく逆の結果をもたらしかねないということを知っておく必要がある。」と結んでいる。
まったくそのとおりである。法律と事故の現実の両方を熟知している弁護士だと思う。
新聞紙上にこのような記事が載ることは非常に少ない。
マスコミで報道されることは、遺族感情を前面に出し、遺族側に立つ内容がほとんどである。
だれかのせいにしたい、誰が悪いそれを決めることで恨みを晴らす、事故を起こした会社のトップが罰せられて当然、みたいな論調ばかりである。

別の日の新聞に載った芸能人のコラムで、人は悲惨な出来事にあったり、大切な人を突然失ったときにとる反応は通常、(1)パニックになる。(2)泣き悲しむ。(3)誰が悪い誰のせいだと追求する。(4)それを乗り越えて前に進めるようになる。と段階を踏んでいくと書いてあった。
事故の遺族、被害者には申し訳ないが、多くの被害者や遺族はまだ(3)の状態にあるのだと思う。
早く立ち直って、前へ進んで欲しい。
だれかのせいにしたい、という気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、事故の真相究明や防止策を推進させるためには、だれかを悪者と決めるだけでは何もよくならないのだ。弁護士の意見は、誰を悪いと決める裁判では、その逆の結果になってしまうと指摘している。再発防止には逆に後退してしまうと、そこまでは私も気がつかなかった。

今回の事故で誰が悪いかは明白である。事故を引き起こした運転士そのものである。
高度な運転規則を守れなかった運転士である。
カーブが急だったとか、防護策であるATSを設置しなかったとかいった理由で有罪にできるはずがない。
控訴をあきらめた最高検の判断は間違っていない。
運転士の判断操作ミスを招いた遠因は、日勤教育などの人事制度である。直前に起こしたオーバランを罰せられると緊張状態になり、通常の操作と判断ができなくなってあせりを招き、事故につながった。
鉄道の事業者にしても、安全策をとらなかったら罰せられると裁判で決まったら、運転士と同じ精神状態になって、この社会はまわっていかないだろう。
日勤教育などの人事制度を良しとしてきた経営陣の責任追及は必要だ。しかし、それは刑事裁判では無理なのだ。原因究明と再発防止には、誰を罰する誰が悪いということを決めつける前提では、絶対に進まないのだ。
そういう意味で、日勤教育などは当事者に見せしめ的罰を負わせることが主目的であるから、事故やミスの防止策としてはまったく機能していなかったということも、また明白である。  

Posted by よっぱらいくま at 14:55Comments(0)TrackBack(0)事故・災害