2012年01月11日
福知山線尼崎事故判決
前社長が無罪とのこと。
私は、こういった鉄道事故や航空機事故に際しては、当事者や関係者を罰することよりも、再発防止のための徹底的な原因調査を優先するべきと、常々思っていた。
日本の伝統的風潮として、重大事故が起こったら、その責任は誰にある、誰が悪い、どう罰する、そういったことに重点が置かれていると思う。
しかし、それでは事故の真相究明の障害になってくると思う。
事故を起こした当事者や関係者は、自分が罰せられることになれば、真実ではなくとも自分に有利な証言しかしなくなる可能性がある。
自分のミスがどのような要因でそうなったかを正直に語ることが、そのヒューマンエラーを防止するためにはどのような対策をとればよいのか、原因究明と防止策を策定するためには重要なことだ。
遺族感情は、という側面もあるが、罰することよりも悲惨な事故を二度と起こさないためにどうするべきかを優先するべきと思う。誰が悪いと決めただけで終わらせるのではダメだ。結局、事故の真相究明を裁判に求めることに無理があるのであって、裁判は誰が悪いを決める場でしかないということだ。
当事者や関係者から真実を語らせて原因を究明して再発を防止するためには、重大な鉄道や航空機事故の当事者を免責するなどして身分保障をするくらいのことが必要と思う。
もちろん故意に事故を起こしたなどといった場合は、犯罪として罪を問うべきことは言うまでもない。
今回の事故は組織のトップの事故発生の予見性とその対策を怠った過失を問うているものだが、私はその理論にはもともと無理があったと思う。
法律ですべてのカーブに速度照査型のATSを設置する義務が鉄道会社に課せられていたのなら処罰は当然だが、当然、そんなことはない。安全に関する設備充実は所詮努力義務だ。
ローカル鉄道では、一昔前まではATSすら整備されていなかった。今でも整備されていない鉄道もあるはずだ。
私は何度か現場を、先頭車両の運転士の後ろで前面展望して通過したことがある。はっきり言って、どこにでもある鉄道のカーブである。その手前までが直線で120キロの最高速度で走り、いきなり70キロ制限だから危険だとか言うのは無謀だ。そんなカーブは日本中いたるところにある。運転士は厳格に速度を守るというい前提で鉄道は運行されているのだ。
私は現場を通ったときの印象は、こんなカーブはどこにでもある、特に危険だとかいう印象はまったく感じなかった。
JR西を擁護するつもりはまったくない。日勤教育などの余裕のない懲罰的人事教育や利益と効率重視の社風、そういったことが事故の遠因であったことはまったくそのとおりと思う。そういう面では管理責任を問うてもよいと思う。しかし、事故の予見性とその対策を怠ったという理由で罰することは無理がありすぎる。何度も言うがそんなカーブは日本中の鉄道に無数にある。
安全面でプラスになる行為を怠ったから処罰するでは、社会はまわっていかない。それを危険の放置だから処罰するというのなら、鉄道は今後、1センチたりとも進むことはできなくなるだろう。
鉄道はその運用は厳格である。
制限速度は絶対であり、逆に制限速度いっぱいに走ってダイヤを守らなければならないという側面もある。制限速度以内で走りましょうなどというでいい加減な自動車交通とはまったくレベルが違う高次元の巨大システムである。
信号に対する基本的考えも車と鉄道では根本的にちがう。
自動車交通では、青は「進んでもよい」であるが、鉄道の世界では青は「進め」である。前方の信号が青ならば鉄道の運転士は、目の前に障害がない限り進まなければならないのである。
これは信楽高原鉄道の正面衝突事故でも議論となったが、単線で列車がすれ違う信号所で信号が青だったから運転士は進んだけれど、結果として正面衝突事故が起こった、通常はその信号所ですれ違うのだから運転士には信号がたとえ青でも、反対から列車がくるという事故の予見性を問うて運転士の責任も問うべきだとの議論だ。
この議論は鉄道システムをまったく理解していない者の発想だ。
運転士にはその場に障害がなければ、青ならば進まなければいけない義務があるのだ。信号故障などを想定して運転などできないし、してはいけないのだ。
鉄道・航空機事故に際しては、誰が悪い、誰を罰するという考えから、事故の真相を究明し再発を防止することを優先するという発想に法律や社会の仕組みがならないものだろうか。
私は、こういった鉄道事故や航空機事故に際しては、当事者や関係者を罰することよりも、再発防止のための徹底的な原因調査を優先するべきと、常々思っていた。
日本の伝統的風潮として、重大事故が起こったら、その責任は誰にある、誰が悪い、どう罰する、そういったことに重点が置かれていると思う。
しかし、それでは事故の真相究明の障害になってくると思う。
事故を起こした当事者や関係者は、自分が罰せられることになれば、真実ではなくとも自分に有利な証言しかしなくなる可能性がある。
自分のミスがどのような要因でそうなったかを正直に語ることが、そのヒューマンエラーを防止するためにはどのような対策をとればよいのか、原因究明と防止策を策定するためには重要なことだ。
遺族感情は、という側面もあるが、罰することよりも悲惨な事故を二度と起こさないためにどうするべきかを優先するべきと思う。誰が悪いと決めただけで終わらせるのではダメだ。結局、事故の真相究明を裁判に求めることに無理があるのであって、裁判は誰が悪いを決める場でしかないということだ。
当事者や関係者から真実を語らせて原因を究明して再発を防止するためには、重大な鉄道や航空機事故の当事者を免責するなどして身分保障をするくらいのことが必要と思う。
もちろん故意に事故を起こしたなどといった場合は、犯罪として罪を問うべきことは言うまでもない。
今回の事故は組織のトップの事故発生の予見性とその対策を怠った過失を問うているものだが、私はその理論にはもともと無理があったと思う。
法律ですべてのカーブに速度照査型のATSを設置する義務が鉄道会社に課せられていたのなら処罰は当然だが、当然、そんなことはない。安全に関する設備充実は所詮努力義務だ。
ローカル鉄道では、一昔前まではATSすら整備されていなかった。今でも整備されていない鉄道もあるはずだ。
私は何度か現場を、先頭車両の運転士の後ろで前面展望して通過したことがある。はっきり言って、どこにでもある鉄道のカーブである。その手前までが直線で120キロの最高速度で走り、いきなり70キロ制限だから危険だとか言うのは無謀だ。そんなカーブは日本中いたるところにある。運転士は厳格に速度を守るというい前提で鉄道は運行されているのだ。
私は現場を通ったときの印象は、こんなカーブはどこにでもある、特に危険だとかいう印象はまったく感じなかった。
JR西を擁護するつもりはまったくない。日勤教育などの余裕のない懲罰的人事教育や利益と効率重視の社風、そういったことが事故の遠因であったことはまったくそのとおりと思う。そういう面では管理責任を問うてもよいと思う。しかし、事故の予見性とその対策を怠ったという理由で罰することは無理がありすぎる。何度も言うがそんなカーブは日本中の鉄道に無数にある。
安全面でプラスになる行為を怠ったから処罰するでは、社会はまわっていかない。それを危険の放置だから処罰するというのなら、鉄道は今後、1センチたりとも進むことはできなくなるだろう。
鉄道はその運用は厳格である。
制限速度は絶対であり、逆に制限速度いっぱいに走ってダイヤを守らなければならないという側面もある。制限速度以内で走りましょうなどというでいい加減な自動車交通とはまったくレベルが違う高次元の巨大システムである。
信号に対する基本的考えも車と鉄道では根本的にちがう。
自動車交通では、青は「進んでもよい」であるが、鉄道の世界では青は「進め」である。前方の信号が青ならば鉄道の運転士は、目の前に障害がない限り進まなければならないのである。
これは信楽高原鉄道の正面衝突事故でも議論となったが、単線で列車がすれ違う信号所で信号が青だったから運転士は進んだけれど、結果として正面衝突事故が起こった、通常はその信号所ですれ違うのだから運転士には信号がたとえ青でも、反対から列車がくるという事故の予見性を問うて運転士の責任も問うべきだとの議論だ。
この議論は鉄道システムをまったく理解していない者の発想だ。
運転士にはその場に障害がなければ、青ならば進まなければいけない義務があるのだ。信号故障などを想定して運転などできないし、してはいけないのだ。
鉄道・航空機事故に際しては、誰が悪い、誰を罰するという考えから、事故の真相を究明し再発を防止することを優先するという発想に法律や社会の仕組みがならないものだろうか。