2012年05月02日
バス事故
今回の事故は、起こるべくして起きたといっても過言ではないだろう。
高速バスの運賃は、競争のレベルをとおり越している。
今回の事故は、路線バスという公共輸送サービスではなく、あくまでツアーという「団体旅行」の形式をとっている。
このような運賃(企画旅行のツアーの場合は旅行代金)は、大手の路線バスとは金額を違い、はるかに安い。
大手のバス事業者は、安全面からも夜行便は2名乗務が当然で、途中で交代している。
しかし、旅行会社(それも中小の)が企画するこのようなツアーバスは、中小零細のバス事業者にバス運行を委託する形式の団体旅行である。団体旅行だから規制もないに等しい。
旅行会社は、バス会社に低価格を要求し、過当競争に陥っているバス業界は貸切バス料金を極限まで下げる。
大手の路線バス業者は、安全面も一定のレベルを維持しているため、価格面ではまったくかなわない。
金沢-東京間が3500円なんて、正常な価格設定ではない。
世の中、物でもサービスでも、一定以上のレベルは維持しなければならない。
昨今は、民間の価格競争で物が安くなりサービスも向上するという理論が当たり前のようにまかり通っている。
不当な価格競争などを制御するために、法律や規制というものは存在する。
しかし、小泉改革以降、それらの類のものは、競争性や新規参入を阻むという理屈で、ことごとく撤廃してきた。国民もそれを歓迎し、選挙の結果となってきた。その流れは今も変わっていない。
バス事業や、タクシー業界の新規参入などがそうだ。
それでよくなったのだろうか。
近視眼的には、目の前の価格が下がったといういことで、みんなが喜ぶ。しかし、そのためのコスト削減のために、人件費や安全コストもどんどん切り落としてきたのが、現在の状況だ。負の部分、都合の悪い部分には目を向けず気づこうともしない。マスコミも目を背ける。だから国民は気がつかない。
正常な対価を支払わなくなった日本は、労働者の切捨て、派遣の増加、給与の削減と、景気はどんどん悪くなってきている。
そのことに気がつかず、よりいっそうの競争や更なるコスト縮減、無駄の削減が叫ばれている。それで景気がよくなるはずはない。そうやって国民が皆、足の引っ張り合いをやっている。役所の仕事も更なるコスト縮減をと、バカのひとつ覚えにマスコミは騒ぐ。
どっかの市長はバカの一つ覚えに、民間活力だ民間の仕事は優秀だと、役所をバカにして敵にまわすことで人気を得ている。
無駄とはなんだろうか。私は以前から何度も「無駄イコール余裕」であると言っている。コスト縮減と言う言葉は大嫌いである。そのセリフを聞くとイラっとする。しかし、企業も役所もその言葉が正義だ。反論すれば否定される。上から・・・・
余裕があれば、正常の対価が支払われる世の中であれば、給与が上がり、その金が世の中をまわり、景気もよくなっていくというものだ。
無駄が極限まで切り落とされていけば、それは糸がどんどん張り詰めるような世の中になっていくことと思う。張り詰めた糸はやがて切れる。自殺率が上がったり、会社がたくさん倒産したり、正社員が減り雇用が不安定になっている現代は、まさに余裕のない、張り詰め緊張しきった状態である。
バス会社は生き残りのために極限までコストを下げた結果が、今回の事故原因である。しかし、バス会社やましてや運転手を単純に責めることはできない。コスト削減のツケが、現場の末端の運転手にすべてのしわ寄せが回ったのである。
責任は、適正な価格よりも、競争による極限までのコスト削減の結果の価格を認めてきた、歓迎してきた、政治と国民にある。
バス料金も、ここはこんなに安いから利用したみたいなことを平気で自慢する人を何人も見てきた。人は誰でも安い買い物をすると自慢するものだ。
私は、あまりにも安い交通サービスには疑問をもってきた。JRや大手の運賃も努力の結果、抑えられているのは事実である。しかし、一定の基準を守るための最低限の原価というものは割ることはできない。しかし、中小零細企業は生き残りのため無茶をしてきた。
人の命を直接預かる、公共輸送サービスの分野にはしっかりした規制が必要で、無秩序な新規参入や価格競争は法律で縛るべきである。レベルの低い業者は、規制により淘汰されていくべきである。
東京-金沢の輸送サービスが3500円で成り立つということに疑問を持つべきである。新幹線や大手バスの運賃を高すぎると否定するのが間違っているのである。
さて、最近は格安航空会社、LCCというのがはやってきている。しかし、根本の部分は過当競争にある高速バスと同じと思う。零細バス会社よりも、格安航空会社の方がはるかにまともだとは思うけれど、乗務員に清掃から窓口からなんでもやらせてコストを抑えていますとニュースでも言っていた。今回のバスの運転手と同じではないか。マスコミはそんなサービス競争を賞賛する。疑問の声は出ない。疑問の声があってもそれは放送しない、掲載しない。高い価格サービスに対しては「無駄がないのか」と文句は言うが。
格安航空の輸送サービスの価格が適正であるのか、不当な設定であるのかは、今後、答えが出てくるだろう。
公共輸送サービスを、ユニクロなどの物のサービスと同列で、競争やコスト削減を求めてそれを正義だとするのは大間違いであると声を大にして言いたい。
もっともユニクロのやり方も、人件費の安い途上国で生産し、最近は店員もグローバル化だとか言って外国人も分け隔てなく採用するなど、国内の雇用や経済にはまったく貢献していないといえる。私は、正社員になりたい日本の若者を積極的に採用する企業を応援したい。
英語を社内公用語にするなどと宣言するような企業には、公共サービスの分野には参入して欲しくない。コスト削減と競争こそが正義だ、正当な権利行使みたいなことを言って、結果として弱者が苦しめられることに気がついていないから。
最後に、このようなバスの事故がおきても、乗用車での移動よりは死傷率はるかに低いであろうし、バスは鉄道と相対しても価格が安く、車と比べれば安全な乗り物であることは変わらないだろう。
バスという輸送サービス分野が、今後も健全に発展していくことを祈っている。
高速バスの運賃は、競争のレベルをとおり越している。
今回の事故は、路線バスという公共輸送サービスではなく、あくまでツアーという「団体旅行」の形式をとっている。
このような運賃(企画旅行のツアーの場合は旅行代金)は、大手の路線バスとは金額を違い、はるかに安い。
大手のバス事業者は、安全面からも夜行便は2名乗務が当然で、途中で交代している。
しかし、旅行会社(それも中小の)が企画するこのようなツアーバスは、中小零細のバス事業者にバス運行を委託する形式の団体旅行である。団体旅行だから規制もないに等しい。
旅行会社は、バス会社に低価格を要求し、過当競争に陥っているバス業界は貸切バス料金を極限まで下げる。
大手の路線バス業者は、安全面も一定のレベルを維持しているため、価格面ではまったくかなわない。
金沢-東京間が3500円なんて、正常な価格設定ではない。
世の中、物でもサービスでも、一定以上のレベルは維持しなければならない。
昨今は、民間の価格競争で物が安くなりサービスも向上するという理論が当たり前のようにまかり通っている。
不当な価格競争などを制御するために、法律や規制というものは存在する。
しかし、小泉改革以降、それらの類のものは、競争性や新規参入を阻むという理屈で、ことごとく撤廃してきた。国民もそれを歓迎し、選挙の結果となってきた。その流れは今も変わっていない。
バス事業や、タクシー業界の新規参入などがそうだ。
それでよくなったのだろうか。
近視眼的には、目の前の価格が下がったといういことで、みんなが喜ぶ。しかし、そのためのコスト削減のために、人件費や安全コストもどんどん切り落としてきたのが、現在の状況だ。負の部分、都合の悪い部分には目を向けず気づこうともしない。マスコミも目を背ける。だから国民は気がつかない。
正常な対価を支払わなくなった日本は、労働者の切捨て、派遣の増加、給与の削減と、景気はどんどん悪くなってきている。
そのことに気がつかず、よりいっそうの競争や更なるコスト縮減、無駄の削減が叫ばれている。それで景気がよくなるはずはない。そうやって国民が皆、足の引っ張り合いをやっている。役所の仕事も更なるコスト縮減をと、バカのひとつ覚えにマスコミは騒ぐ。
どっかの市長はバカの一つ覚えに、民間活力だ民間の仕事は優秀だと、役所をバカにして敵にまわすことで人気を得ている。
無駄とはなんだろうか。私は以前から何度も「無駄イコール余裕」であると言っている。コスト縮減と言う言葉は大嫌いである。そのセリフを聞くとイラっとする。しかし、企業も役所もその言葉が正義だ。反論すれば否定される。上から・・・・
余裕があれば、正常の対価が支払われる世の中であれば、給与が上がり、その金が世の中をまわり、景気もよくなっていくというものだ。
無駄が極限まで切り落とされていけば、それは糸がどんどん張り詰めるような世の中になっていくことと思う。張り詰めた糸はやがて切れる。自殺率が上がったり、会社がたくさん倒産したり、正社員が減り雇用が不安定になっている現代は、まさに余裕のない、張り詰め緊張しきった状態である。
バス会社は生き残りのために極限までコストを下げた結果が、今回の事故原因である。しかし、バス会社やましてや運転手を単純に責めることはできない。コスト削減のツケが、現場の末端の運転手にすべてのしわ寄せが回ったのである。
責任は、適正な価格よりも、競争による極限までのコスト削減の結果の価格を認めてきた、歓迎してきた、政治と国民にある。
バス料金も、ここはこんなに安いから利用したみたいなことを平気で自慢する人を何人も見てきた。人は誰でも安い買い物をすると自慢するものだ。
私は、あまりにも安い交通サービスには疑問をもってきた。JRや大手の運賃も努力の結果、抑えられているのは事実である。しかし、一定の基準を守るための最低限の原価というものは割ることはできない。しかし、中小零細企業は生き残りのため無茶をしてきた。
人の命を直接預かる、公共輸送サービスの分野にはしっかりした規制が必要で、無秩序な新規参入や価格競争は法律で縛るべきである。レベルの低い業者は、規制により淘汰されていくべきである。
東京-金沢の輸送サービスが3500円で成り立つということに疑問を持つべきである。新幹線や大手バスの運賃を高すぎると否定するのが間違っているのである。
さて、最近は格安航空会社、LCCというのがはやってきている。しかし、根本の部分は過当競争にある高速バスと同じと思う。零細バス会社よりも、格安航空会社の方がはるかにまともだとは思うけれど、乗務員に清掃から窓口からなんでもやらせてコストを抑えていますとニュースでも言っていた。今回のバスの運転手と同じではないか。マスコミはそんなサービス競争を賞賛する。疑問の声は出ない。疑問の声があってもそれは放送しない、掲載しない。高い価格サービスに対しては「無駄がないのか」と文句は言うが。
格安航空の輸送サービスの価格が適正であるのか、不当な設定であるのかは、今後、答えが出てくるだろう。
公共輸送サービスを、ユニクロなどの物のサービスと同列で、競争やコスト削減を求めてそれを正義だとするのは大間違いであると声を大にして言いたい。
もっともユニクロのやり方も、人件費の安い途上国で生産し、最近は店員もグローバル化だとか言って外国人も分け隔てなく採用するなど、国内の雇用や経済にはまったく貢献していないといえる。私は、正社員になりたい日本の若者を積極的に採用する企業を応援したい。
英語を社内公用語にするなどと宣言するような企業には、公共サービスの分野には参入して欲しくない。コスト削減と競争こそが正義だ、正当な権利行使みたいなことを言って、結果として弱者が苦しめられることに気がついていないから。
最後に、このようなバスの事故がおきても、乗用車での移動よりは死傷率はるかに低いであろうし、バスは鉄道と相対しても価格が安く、車と比べれば安全な乗り物であることは変わらないだろう。
バスという輸送サービス分野が、今後も健全に発展していくことを祈っている。
2012年02月07日
名古屋市営バス事故
市営バスが事故報告がなかったとかで、バスの使用停止処分を受けたとか、ニュースになっていました。
事故そのものは困ったことですが、最近は市営バスなどは民間委託とかやっていて、実際に事故を起こしたのは、名古屋市交通局の純粋な職員なのか、それともそういう外部委託の職員なのか、そのあたりはまったく報道されません。
身分と給与が保証された立場の人間と、外部委託で来年度はどうなるかわからない立場の、派遣職員みたいな立場の人間と、どちらが公共交通機関に携わる人間としてふさわしいか、それは明白だと思います。
最近は公共機関にも指定管理者だとか競争原理でコスト削減とか、同じサービスなら安いところへ、みたいなことばかりです。
それで公共交通の安定した安全とサービスが提供されるのか、私は少し、疑問があります。
事故そのものは困ったことですが、最近は市営バスなどは民間委託とかやっていて、実際に事故を起こしたのは、名古屋市交通局の純粋な職員なのか、それともそういう外部委託の職員なのか、そのあたりはまったく報道されません。
身分と給与が保証された立場の人間と、外部委託で来年度はどうなるかわからない立場の、派遣職員みたいな立場の人間と、どちらが公共交通機関に携わる人間としてふさわしいか、それは明白だと思います。
最近は公共機関にも指定管理者だとか競争原理でコスト削減とか、同じサービスなら安いところへ、みたいなことばかりです。
それで公共交通の安定した安全とサービスが提供されるのか、私は少し、疑問があります。
2012年01月29日
福知山線尼崎事故2
今朝の新聞を読んでいて、ある弁護士のコラムが載っていた。
事故の防止を意識して危険性を洗い出し最善の努力をしていた鉄道会社の社長Aと、事故防止は意識せず努力もしていない社長Bのどちらが、今回の事故の裁判にあてはまめると有罪になるのかと。
心情的にはBであるが法的にはAになってしまうとのこと。
危険性を予見していたから有罪となると。
事故原因の究明には、刑事裁判は無意味であると前回、私は書いた。
そして、コラムでは、今回社長が起訴されたことにより、経営陣は危険な現場を知ろうとしなくなると危惧する。危険性を予測して予防策をとる努力をすればするほど、その対策が追いつかなかったときには、危険性を知っていたということで有罪とされてしまうということである。
「原因究明を裁判に求める気持ちはわかるが、それは刑事裁判本来の目的ではない。こうした起訴は事故防止の面ではまったく逆の結果をもたらしかねないということを知っておく必要がある。」と結んでいる。
まったくそのとおりである。法律と事故の現実の両方を熟知している弁護士だと思う。
新聞紙上にこのような記事が載ることは非常に少ない。
マスコミで報道されることは、遺族感情を前面に出し、遺族側に立つ内容がほとんどである。
だれかのせいにしたい、誰が悪いそれを決めることで恨みを晴らす、事故を起こした会社のトップが罰せられて当然、みたいな論調ばかりである。
別の日の新聞に載った芸能人のコラムで、人は悲惨な出来事にあったり、大切な人を突然失ったときにとる反応は通常、(1)パニックになる。(2)泣き悲しむ。(3)誰が悪い誰のせいだと追求する。(4)それを乗り越えて前に進めるようになる。と段階を踏んでいくと書いてあった。
事故の遺族、被害者には申し訳ないが、多くの被害者や遺族はまだ(3)の状態にあるのだと思う。
早く立ち直って、前へ進んで欲しい。
だれかのせいにしたい、という気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、事故の真相究明や防止策を推進させるためには、だれかを悪者と決めるだけでは何もよくならないのだ。弁護士の意見は、誰を悪いと決める裁判では、その逆の結果になってしまうと指摘している。再発防止には逆に後退してしまうと、そこまでは私も気がつかなかった。
今回の事故で誰が悪いかは明白である。事故を引き起こした運転士そのものである。
高度な運転規則を守れなかった運転士である。
カーブが急だったとか、防護策であるATSを設置しなかったとかいった理由で有罪にできるはずがない。
控訴をあきらめた最高検の判断は間違っていない。
運転士の判断操作ミスを招いた遠因は、日勤教育などの人事制度である。直前に起こしたオーバランを罰せられると緊張状態になり、通常の操作と判断ができなくなってあせりを招き、事故につながった。
鉄道の事業者にしても、安全策をとらなかったら罰せられると裁判で決まったら、運転士と同じ精神状態になって、この社会はまわっていかないだろう。
日勤教育などの人事制度を良しとしてきた経営陣の責任追及は必要だ。しかし、それは刑事裁判では無理なのだ。原因究明と再発防止には、誰を罰する誰が悪いということを決めつける前提では、絶対に進まないのだ。
そういう意味で、日勤教育などは当事者に見せしめ的罰を負わせることが主目的であるから、事故やミスの防止策としてはまったく機能していなかったということも、また明白である。
事故の防止を意識して危険性を洗い出し最善の努力をしていた鉄道会社の社長Aと、事故防止は意識せず努力もしていない社長Bのどちらが、今回の事故の裁判にあてはまめると有罪になるのかと。
心情的にはBであるが法的にはAになってしまうとのこと。
危険性を予見していたから有罪となると。
事故原因の究明には、刑事裁判は無意味であると前回、私は書いた。
そして、コラムでは、今回社長が起訴されたことにより、経営陣は危険な現場を知ろうとしなくなると危惧する。危険性を予測して予防策をとる努力をすればするほど、その対策が追いつかなかったときには、危険性を知っていたということで有罪とされてしまうということである。
「原因究明を裁判に求める気持ちはわかるが、それは刑事裁判本来の目的ではない。こうした起訴は事故防止の面ではまったく逆の結果をもたらしかねないということを知っておく必要がある。」と結んでいる。
まったくそのとおりである。法律と事故の現実の両方を熟知している弁護士だと思う。
新聞紙上にこのような記事が載ることは非常に少ない。
マスコミで報道されることは、遺族感情を前面に出し、遺族側に立つ内容がほとんどである。
だれかのせいにしたい、誰が悪いそれを決めることで恨みを晴らす、事故を起こした会社のトップが罰せられて当然、みたいな論調ばかりである。
別の日の新聞に載った芸能人のコラムで、人は悲惨な出来事にあったり、大切な人を突然失ったときにとる反応は通常、(1)パニックになる。(2)泣き悲しむ。(3)誰が悪い誰のせいだと追求する。(4)それを乗り越えて前に進めるようになる。と段階を踏んでいくと書いてあった。
事故の遺族、被害者には申し訳ないが、多くの被害者や遺族はまだ(3)の状態にあるのだと思う。
早く立ち直って、前へ進んで欲しい。
だれかのせいにしたい、という気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、事故の真相究明や防止策を推進させるためには、だれかを悪者と決めるだけでは何もよくならないのだ。弁護士の意見は、誰を悪いと決める裁判では、その逆の結果になってしまうと指摘している。再発防止には逆に後退してしまうと、そこまでは私も気がつかなかった。
今回の事故で誰が悪いかは明白である。事故を引き起こした運転士そのものである。
高度な運転規則を守れなかった運転士である。
カーブが急だったとか、防護策であるATSを設置しなかったとかいった理由で有罪にできるはずがない。
控訴をあきらめた最高検の判断は間違っていない。
運転士の判断操作ミスを招いた遠因は、日勤教育などの人事制度である。直前に起こしたオーバランを罰せられると緊張状態になり、通常の操作と判断ができなくなってあせりを招き、事故につながった。
鉄道の事業者にしても、安全策をとらなかったら罰せられると裁判で決まったら、運転士と同じ精神状態になって、この社会はまわっていかないだろう。
日勤教育などの人事制度を良しとしてきた経営陣の責任追及は必要だ。しかし、それは刑事裁判では無理なのだ。原因究明と再発防止には、誰を罰する誰が悪いということを決めつける前提では、絶対に進まないのだ。
そういう意味で、日勤教育などは当事者に見せしめ的罰を負わせることが主目的であるから、事故やミスの防止策としてはまったく機能していなかったということも、また明白である。
2012年01月11日
福知山線尼崎事故判決
前社長が無罪とのこと。
私は、こういった鉄道事故や航空機事故に際しては、当事者や関係者を罰することよりも、再発防止のための徹底的な原因調査を優先するべきと、常々思っていた。
日本の伝統的風潮として、重大事故が起こったら、その責任は誰にある、誰が悪い、どう罰する、そういったことに重点が置かれていると思う。
しかし、それでは事故の真相究明の障害になってくると思う。
事故を起こした当事者や関係者は、自分が罰せられることになれば、真実ではなくとも自分に有利な証言しかしなくなる可能性がある。
自分のミスがどのような要因でそうなったかを正直に語ることが、そのヒューマンエラーを防止するためにはどのような対策をとればよいのか、原因究明と防止策を策定するためには重要なことだ。
遺族感情は、という側面もあるが、罰することよりも悲惨な事故を二度と起こさないためにどうするべきかを優先するべきと思う。誰が悪いと決めただけで終わらせるのではダメだ。結局、事故の真相究明を裁判に求めることに無理があるのであって、裁判は誰が悪いを決める場でしかないということだ。
当事者や関係者から真実を語らせて原因を究明して再発を防止するためには、重大な鉄道や航空機事故の当事者を免責するなどして身分保障をするくらいのことが必要と思う。
もちろん故意に事故を起こしたなどといった場合は、犯罪として罪を問うべきことは言うまでもない。
今回の事故は組織のトップの事故発生の予見性とその対策を怠った過失を問うているものだが、私はその理論にはもともと無理があったと思う。
法律ですべてのカーブに速度照査型のATSを設置する義務が鉄道会社に課せられていたのなら処罰は当然だが、当然、そんなことはない。安全に関する設備充実は所詮努力義務だ。
ローカル鉄道では、一昔前まではATSすら整備されていなかった。今でも整備されていない鉄道もあるはずだ。
私は何度か現場を、先頭車両の運転士の後ろで前面展望して通過したことがある。はっきり言って、どこにでもある鉄道のカーブである。その手前までが直線で120キロの最高速度で走り、いきなり70キロ制限だから危険だとか言うのは無謀だ。そんなカーブは日本中いたるところにある。運転士は厳格に速度を守るというい前提で鉄道は運行されているのだ。
私は現場を通ったときの印象は、こんなカーブはどこにでもある、特に危険だとかいう印象はまったく感じなかった。
JR西を擁護するつもりはまったくない。日勤教育などの余裕のない懲罰的人事教育や利益と効率重視の社風、そういったことが事故の遠因であったことはまったくそのとおりと思う。そういう面では管理責任を問うてもよいと思う。しかし、事故の予見性とその対策を怠ったという理由で罰することは無理がありすぎる。何度も言うがそんなカーブは日本中の鉄道に無数にある。
安全面でプラスになる行為を怠ったから処罰するでは、社会はまわっていかない。それを危険の放置だから処罰するというのなら、鉄道は今後、1センチたりとも進むことはできなくなるだろう。
鉄道はその運用は厳格である。
制限速度は絶対であり、逆に制限速度いっぱいに走ってダイヤを守らなければならないという側面もある。制限速度以内で走りましょうなどというでいい加減な自動車交通とはまったくレベルが違う高次元の巨大システムである。
信号に対する基本的考えも車と鉄道では根本的にちがう。
自動車交通では、青は「進んでもよい」であるが、鉄道の世界では青は「進め」である。前方の信号が青ならば鉄道の運転士は、目の前に障害がない限り進まなければならないのである。
これは信楽高原鉄道の正面衝突事故でも議論となったが、単線で列車がすれ違う信号所で信号が青だったから運転士は進んだけれど、結果として正面衝突事故が起こった、通常はその信号所ですれ違うのだから運転士には信号がたとえ青でも、反対から列車がくるという事故の予見性を問うて運転士の責任も問うべきだとの議論だ。
この議論は鉄道システムをまったく理解していない者の発想だ。
運転士にはその場に障害がなければ、青ならば進まなければいけない義務があるのだ。信号故障などを想定して運転などできないし、してはいけないのだ。
鉄道・航空機事故に際しては、誰が悪い、誰を罰するという考えから、事故の真相を究明し再発を防止することを優先するという発想に法律や社会の仕組みがならないものだろうか。
私は、こういった鉄道事故や航空機事故に際しては、当事者や関係者を罰することよりも、再発防止のための徹底的な原因調査を優先するべきと、常々思っていた。
日本の伝統的風潮として、重大事故が起こったら、その責任は誰にある、誰が悪い、どう罰する、そういったことに重点が置かれていると思う。
しかし、それでは事故の真相究明の障害になってくると思う。
事故を起こした当事者や関係者は、自分が罰せられることになれば、真実ではなくとも自分に有利な証言しかしなくなる可能性がある。
自分のミスがどのような要因でそうなったかを正直に語ることが、そのヒューマンエラーを防止するためにはどのような対策をとればよいのか、原因究明と防止策を策定するためには重要なことだ。
遺族感情は、という側面もあるが、罰することよりも悲惨な事故を二度と起こさないためにどうするべきかを優先するべきと思う。誰が悪いと決めただけで終わらせるのではダメだ。結局、事故の真相究明を裁判に求めることに無理があるのであって、裁判は誰が悪いを決める場でしかないということだ。
当事者や関係者から真実を語らせて原因を究明して再発を防止するためには、重大な鉄道や航空機事故の当事者を免責するなどして身分保障をするくらいのことが必要と思う。
もちろん故意に事故を起こしたなどといった場合は、犯罪として罪を問うべきことは言うまでもない。
今回の事故は組織のトップの事故発生の予見性とその対策を怠った過失を問うているものだが、私はその理論にはもともと無理があったと思う。
法律ですべてのカーブに速度照査型のATSを設置する義務が鉄道会社に課せられていたのなら処罰は当然だが、当然、そんなことはない。安全に関する設備充実は所詮努力義務だ。
ローカル鉄道では、一昔前まではATSすら整備されていなかった。今でも整備されていない鉄道もあるはずだ。
私は何度か現場を、先頭車両の運転士の後ろで前面展望して通過したことがある。はっきり言って、どこにでもある鉄道のカーブである。その手前までが直線で120キロの最高速度で走り、いきなり70キロ制限だから危険だとか言うのは無謀だ。そんなカーブは日本中いたるところにある。運転士は厳格に速度を守るというい前提で鉄道は運行されているのだ。
私は現場を通ったときの印象は、こんなカーブはどこにでもある、特に危険だとかいう印象はまったく感じなかった。
JR西を擁護するつもりはまったくない。日勤教育などの余裕のない懲罰的人事教育や利益と効率重視の社風、そういったことが事故の遠因であったことはまったくそのとおりと思う。そういう面では管理責任を問うてもよいと思う。しかし、事故の予見性とその対策を怠ったという理由で罰することは無理がありすぎる。何度も言うがそんなカーブは日本中の鉄道に無数にある。
安全面でプラスになる行為を怠ったから処罰するでは、社会はまわっていかない。それを危険の放置だから処罰するというのなら、鉄道は今後、1センチたりとも進むことはできなくなるだろう。
鉄道はその運用は厳格である。
制限速度は絶対であり、逆に制限速度いっぱいに走ってダイヤを守らなければならないという側面もある。制限速度以内で走りましょうなどというでいい加減な自動車交通とはまったくレベルが違う高次元の巨大システムである。
信号に対する基本的考えも車と鉄道では根本的にちがう。
自動車交通では、青は「進んでもよい」であるが、鉄道の世界では青は「進め」である。前方の信号が青ならば鉄道の運転士は、目の前に障害がない限り進まなければならないのである。
これは信楽高原鉄道の正面衝突事故でも議論となったが、単線で列車がすれ違う信号所で信号が青だったから運転士は進んだけれど、結果として正面衝突事故が起こった、通常はその信号所ですれ違うのだから運転士には信号がたとえ青でも、反対から列車がくるという事故の予見性を問うて運転士の責任も問うべきだとの議論だ。
この議論は鉄道システムをまったく理解していない者の発想だ。
運転士にはその場に障害がなければ、青ならば進まなければいけない義務があるのだ。信号故障などを想定して運転などできないし、してはいけないのだ。
鉄道・航空機事故に際しては、誰が悪い、誰を罰するという考えから、事故の真相を究明し再発を防止することを優先するという発想に法律や社会の仕組みがならないものだろうか。
2011年06月12日
居眠り
またまたJR北がやらかしました。
運転中の居眠りをバッチリ撮影されるとは。
まあ、たるんでますね。26歳の運転士なんて、まだなったばかりだろうに。
JRは全般的に年齢構成がいびつで、国鉄分割民営化の影響で40代くらいの働き盛りの現場のベテラン層がまったくいません。
だから現場の駅員、運転士、車掌らは若年層ばかりです。
そういう下積み期間が短い層が新幹線の運転士から何から何までいきなり第一線の現場にいると思います。
昔がいいか悪いかわかりませんが、駅員から始めて何年もかかってやっと車掌に、そして在来線の運転士にやっとなれて、それから経験を積んで、新幹線の運転士とかになれるのは、入社から相当の年月を要したはずです。でも今はいきなり新幹線の運転士にもなれるのではないかと思えるような年齢・容姿の運転士ばかりです。
今回の顛末は、運転席がまる見えの普通電車でしたが、新幹線や特急なら運転席は見えないから、こんなことは結構おきているのではとも思います。
今はネットやらで、携帯で撮影されて、公開されてしまう。
居眠り運転は悪いことだけど、撮影自体は一種の盗撮ではとも思ってしまいます。
これはこれで、なんか嫌な世の中です。
むか〜し、私が小学校一年生か二年生の頃、国鉄京浜東北線に乗って先頭の運転席後ろで前方を見ていたときのことです。
まだこの頃までは運転席後ろのブラインドは下ろしていませんでした。
その後の国鉄時代は、運転席のブラインドは、昼間でも完全に降ろされて、前方展望は一切できない時代が続きました。国鉄の分割民営化後、JRになってから、運転席のブラインドは昼間は開けられるようになりました。
それで、まだ小さい子供だった私が前を見ていたら、横から運転士の顔見知りの男がやってきて、運転席後ろの窓を叩いて運転士に声をかけたのです。そしたらなんと運転士は走行中にもかかわらず、席を立って運転席後ろの客室との境の窓を開けて、その男と会話を始めたのです。それも男と対面しながら。ということは、前方は見ていません。5秒おきくらいに後ろを振り返って、要するに前方をちらちら見ながら会話を続けて、駅に着く前に運転席に戻ってブレーキ操作をして電車を止めました。
いやー、幼心にもびっくりしましたね、あれは。今なら大スクープものでしょうな。
そんなこともあったので、居眠りくらいじゃ驚きません。それでいいのか?
昔は昔で、今よりもとてもひどいこともあって、別の意味でおおらかでした。
しかし、電車は、少なくてもJRの列車なら、EB装置が付いているから、1分間操作しなければブザーがなって、それでも操作しなければ非常ブレーキが作動するから、居眠りしていても車に比べればずっと安全ではありますが・・・
運転中の居眠りをバッチリ撮影されるとは。
まあ、たるんでますね。26歳の運転士なんて、まだなったばかりだろうに。
JRは全般的に年齢構成がいびつで、国鉄分割民営化の影響で40代くらいの働き盛りの現場のベテラン層がまったくいません。
だから現場の駅員、運転士、車掌らは若年層ばかりです。
そういう下積み期間が短い層が新幹線の運転士から何から何までいきなり第一線の現場にいると思います。
昔がいいか悪いかわかりませんが、駅員から始めて何年もかかってやっと車掌に、そして在来線の運転士にやっとなれて、それから経験を積んで、新幹線の運転士とかになれるのは、入社から相当の年月を要したはずです。でも今はいきなり新幹線の運転士にもなれるのではないかと思えるような年齢・容姿の運転士ばかりです。
今回の顛末は、運転席がまる見えの普通電車でしたが、新幹線や特急なら運転席は見えないから、こんなことは結構おきているのではとも思います。
今はネットやらで、携帯で撮影されて、公開されてしまう。
居眠り運転は悪いことだけど、撮影自体は一種の盗撮ではとも思ってしまいます。
これはこれで、なんか嫌な世の中です。
むか〜し、私が小学校一年生か二年生の頃、国鉄京浜東北線に乗って先頭の運転席後ろで前方を見ていたときのことです。
まだこの頃までは運転席後ろのブラインドは下ろしていませんでした。
その後の国鉄時代は、運転席のブラインドは、昼間でも完全に降ろされて、前方展望は一切できない時代が続きました。国鉄の分割民営化後、JRになってから、運転席のブラインドは昼間は開けられるようになりました。
それで、まだ小さい子供だった私が前を見ていたら、横から運転士の顔見知りの男がやってきて、運転席後ろの窓を叩いて運転士に声をかけたのです。そしたらなんと運転士は走行中にもかかわらず、席を立って運転席後ろの客室との境の窓を開けて、その男と会話を始めたのです。それも男と対面しながら。ということは、前方は見ていません。5秒おきくらいに後ろを振り返って、要するに前方をちらちら見ながら会話を続けて、駅に着く前に運転席に戻ってブレーキ操作をして電車を止めました。
いやー、幼心にもびっくりしましたね、あれは。今なら大スクープものでしょうな。
そんなこともあったので、居眠りくらいじゃ驚きません。それでいいのか?
昔は昔で、今よりもとてもひどいこともあって、別の意味でおおらかでした。
しかし、電車は、少なくてもJRの列車なら、EB装置が付いているから、1分間操作しなければブザーがなって、それでも操作しなければ非常ブレーキが作動するから、居眠りしていても車に比べればずっと安全ではありますが・・・
2011年06月08日
JR北海道列車火災事故
ネタがなく、書き込みは久しぶりです。
北海道の列車火災事故、大惨事にならなくて良かったです。
最初は火災で列車をトンネル内で止めるなんて、なんて大バカ者かと思いましたが、脱線が原因となると難しいところです。
しかし、煙が出ているにも関わらず、指令に判断を仰ぐことを優先させる現場に危機感を感じます。現代の組織病だと思います。現場が勝手なことをやると処分する風潮は、各人の判断力を低下させ、責任感も喪失させていくでしょう。
トンネル内の火災なら、防護無線を発信させて、現場判断で緊急避難させることができる能力のある人材を育てることが大事です。
今回は乗客の判断で避難して無事でしたが、乗務員を信じて待っていたら大変なことになっていたのでしょう。
JRは、乗務員は、プロとして最低です。面目丸つぶれです。
でも、なんでも上部組織にお伺いを立てて、上の顔をたてる人のほうが組織内では出世するみたいですが。人の命に関わることの判断ができない、させないような人の育て方、やり方が、最近の風潮のような気がします。
北海道の列車火災事故、大惨事にならなくて良かったです。
最初は火災で列車をトンネル内で止めるなんて、なんて大バカ者かと思いましたが、脱線が原因となると難しいところです。
しかし、煙が出ているにも関わらず、指令に判断を仰ぐことを優先させる現場に危機感を感じます。現代の組織病だと思います。現場が勝手なことをやると処分する風潮は、各人の判断力を低下させ、責任感も喪失させていくでしょう。
トンネル内の火災なら、防護無線を発信させて、現場判断で緊急避難させることができる能力のある人材を育てることが大事です。
今回は乗客の判断で避難して無事でしたが、乗務員を信じて待っていたら大変なことになっていたのでしょう。
JRは、乗務員は、プロとして最低です。面目丸つぶれです。
でも、なんでも上部組織にお伺いを立てて、上の顔をたてる人のほうが組織内では出世するみたいですが。人の命に関わることの判断ができない、させないような人の育て方、やり方が、最近の風潮のような気がします。
2010年11月04日
オーバーラン
埼玉の東武東上線に乗ってます。いや〜久しぶりに電車が派手にオーバーランしました。JRや地下鉄ではまず最近はあり得ないんで、本当に久しぶりでした。さすが東武。私が学生の頃から変わってませんね。