2014年02月27日
またまたドクターイエロー
17時32分40秒、豊橋駅をドクターイエローが東京方面へ通過しました。
この前と時間が違います。この前は雪の影響で遅れていたのかな?
豊橋駅ホームにはカメラを持った数人のマニアとスマホを構えている母子連れもいました。どこで情報を仕入れるのかしら?
この前と時間が違います。この前は雪の影響で遅れていたのかな?
豊橋駅ホームにはカメラを持った数人のマニアとスマホを構えている母子連れもいました。どこで情報を仕入れるのかしら?
2014年02月12日
2014年01月24日
東海道新幹線 米原-京都間 彦根付近の謎の構造物
この前、新幹線の車窓について語りましたが、米原-京都間の彦根付近にある謎の構造物について詳しく書きます。
まずは写真を。
こういう構造物です。
新幹線の高架橋の柱と同じようで、かなり頑丈そうです。
まわりには、何もなくこの覆い被さったコンクリートだけ異様です。
新幹線に乗っていると本当に一瞬でこの下を通過します。
通勤で毎日乗っていて、一瞬、何かの下をくぐっているなと気がついたものです。
現地に行ってみると車内から感じていたのより、かなり大きいと感じました。
隣接して、冬期のスプリンクラー散水用の水を汲みあげる小野ポンプ場もあります。
最初は、この消雪に関連するものかとも思いましたが、違います。
ネットで調べるとヒントがありました。
周囲の南東側の山に住友大阪セメントの多賀鉱山があり、そこからの採取物を彦根側にあった彦根工場へ搬出する索道があったらしいです。
近くを併走している名神高速にも道路を覆う構造物があり、新幹線のそれと鉱山跡とが地図上で一直線となるのです。
セメント山か採石山と、その搬出先の工場とを結ぶ索道が上空を通過していて、万が一の落下に備えた施設ではないかという結論となったのです。
これで正解なのか、またいつ頃まで、その索道があったのか、情報が欲しいです。
新幹線で前面展望ができたら、この構造物は誰でも気がつくでしょう。
列車の前面展望ビデオは数多く市販されているけれど、東海道新幹線の前面展望ビデオだけは見たことがありません。
東海道新幹線は重要なインフラだから、テロとかの対象にもなり得る訳で、前面展望が公開されるとそういう犯罪のヒントにもなる可能性からよろしくないとの判断で、JR東海が許可しないのかなと勘ぐっています。
山陽新幹線の前面展望ビデオはあるんですけどね。
トンネルばかりでつまらないと思います。
2023年8月 追記
現在はこのように紹介されています。
まずは写真を。
こういう構造物です。
新幹線の高架橋の柱と同じようで、かなり頑丈そうです。
まわりには、何もなくこの覆い被さったコンクリートだけ異様です。
新幹線に乗っていると本当に一瞬でこの下を通過します。
通勤で毎日乗っていて、一瞬、何かの下をくぐっているなと気がついたものです。
現地に行ってみると車内から感じていたのより、かなり大きいと感じました。
隣接して、冬期のスプリンクラー散水用の水を汲みあげる小野ポンプ場もあります。
最初は、この消雪に関連するものかとも思いましたが、違います。
ネットで調べるとヒントがありました。
周囲の南東側の山に住友大阪セメントの多賀鉱山があり、そこからの採取物を彦根側にあった彦根工場へ搬出する索道があったらしいです。
近くを併走している名神高速にも道路を覆う構造物があり、新幹線のそれと鉱山跡とが地図上で一直線となるのです。
セメント山か採石山と、その搬出先の工場とを結ぶ索道が上空を通過していて、万が一の落下に備えた施設ではないかという結論となったのです。
これで正解なのか、またいつ頃まで、その索道があったのか、情報が欲しいです。
新幹線で前面展望ができたら、この構造物は誰でも気がつくでしょう。
列車の前面展望ビデオは数多く市販されているけれど、東海道新幹線の前面展望ビデオだけは見たことがありません。
東海道新幹線は重要なインフラだから、テロとかの対象にもなり得る訳で、前面展望が公開されるとそういう犯罪のヒントにもなる可能性からよろしくないとの判断で、JR東海が許可しないのかなと勘ぐっています。
山陽新幹線の前面展望ビデオはあるんですけどね。
トンネルばかりでつまらないと思います。
2023年8月 追記
現在はこのように紹介されています。
2014年01月19日
新幹線の車窓
写真を随時、追加しています。
なかなか探すのに苦労します。
名古屋-熱海間はこの前乗ったときに、改めてブログを意識して撮りまくりました。
ふだん乗っている新幹線。
車内の過ごし方は人それぞれです。
本を読んでいる人、酒を飲んでいる人、寝ているひと、外を見ている人、パソコンをいじっている人。
私が感じる限り、寝ている、目を閉じている人が一番多くいるように感じます。
最近は平日夕方から夜にかけて乗っても、酒を飲んでいる人はあまりいないと感じます。
私の場合は、圧倒的に酒を飲みながら、外の景色を見ていることが多いです。もちろん仕事へ行くときは酒は飲みません。いずれにしても、外を見ているのが9割です。夜でも外を見ています。東海道新幹線は沿線が明るいし馴染みがあるから、夜でも景色はよくわかります。残り1割は酒を飲みすぎて気絶しています。
大阪通勤時は、大阪で飲んだあとに乗車して、爆睡して名古屋停車時の客の入れ替わりの喧騒で気がついてあわてて降りたのが一回と、名古屋止まりの列車で名古屋に到着したときに親切な乗客に一回、乗務員に起こされたことが二回あるだけです。寝過ごして名古屋で降り損なったことは一度もありません。
山陽新幹線はトンネルばかりだし、東北系は馴染みがないので、車窓も楽しくありません。
外を見ているのが楽しいしおもしろいし、いろいろ考えながら風景を楽しんでいいます。
そういうものだから、かなり新幹線の風景は覚えています。
この前、新幹線内では本ばかり読んでいて、車窓には一切興味がなく一切見ないという友人から、何か見るべきポイントはあるかという言葉を受けたことをきっかけに、新幹線車窓の自分の視点を書き綴ってみます。
東京~新横浜
東京駅を出て山手線、京浜東北線、東海道線と併走する。その車内を上から目線でのぞき込む。
朝晩(昼でも)のラッシュのすし詰めの電車内の客を、酒を飲みながら見る。
品川駅手前で、品川折り返し用の簡易な非常用ホームがある。先日の有楽町の火災でマヒした際に、活用できなかった。
火災現場です。
品川を出て、大田区内を高架橋で走る。この辺りの地形はかなりの起伏があるが、新幹線はだいたい5階建ての建物と同じ高さを走っている。3階建てくらいの建物を見下ろす景色に、建設時の苦労がしのばれる。また、建物はびっしりと高架橋際まで建っているので、沿線はかなり圧迫感があると思う。
多摩川を渡る前後は、新幹線は急Sカーブを描いている。新幹線の車体が大きく傾く。
多摩川を渡ると、直線になるので、ここから以前は猛加速を開始したのだが、今は全列車が新横浜に停車するので、今はトロトロ走りで新横浜に停車する。
新横浜~小田原
新横浜を出てすぐ左には、未だに山林が少し残っている。この前の川崎検察逃走犯は、この付近の山で捕まった。
在来線平塚駅北西約3キロ地点、(上りの新幹線だとちょうどこのあたりで新横浜到着のアナウンスが始まる地点)に、新幹線を俯瞰できるように斜面に同じデザインの住宅がたくさん建っている。テレビでも新幹線が眺められることを売りにしていると紹介された。新幹線線路と住宅との距離もほどよく離れていて、テレビ放映されたそこから見る新幹線は美しかった。新幹線から見てもデザインが統一されていてきれいな住宅街。住んでみたいけれど、駅からは遠くて不便だろう。
小田原の手前10キロ付近は、新幹線開通前の走行実験区間(鴨宮実験線)だったので、本当に初期に建設された区間だ。
小田原~熱海
ほとんどトンネル区間となり、景色は見えない。
谷間を渡るときだけ、トンネルから一瞬出るときに海が見える。東海道線の根府川鉄橋もよほど注意して見ていれば確認できる。
熱海駅通過前でかなり減速する。熱海駅は急カーブand通過線がなく本線にホームがあるから。
熱海~三島
熱海を通過するとすぐに短いトンネルを抜けて、来宮駅と熱海温泉街、遠くに海も左手に見て、新丹那トンネルに入る。戦前の弾丸列車計画で建設されたトンネルをそのまま流用した。東海道線の丹那トンネルは難工事、出水も多く工事犠牲者も多かった。このトンネル工事の影響で直上の丹那盆地は水が枯れたという。
新丹那トンネルを抜けるとすぐ左側の、東海道線の脇に丹那トンネル工事犠牲者の慰霊碑がある。
三島の手前で大きく左へカーブして、三島駅を通過する。カーブのため少し減速し、直線となった三島駅構内手前から加速する。
三島駅通過中、車窓右側に大きく富士山が見え始まる。
三島~新富士
だいたい右側に富士山が見え隠れしている。
日本坂トンネルを抜けた直後の辺りは、一瞬だが車窓左後方に富士山が見える。基本、富士山は山側に見えるが、この付近だけ海側に見える。
新富士駅付近は製紙工場が多い。最新のN700車両だとほとんど感じなくなったが、0系時代は車内に、工場から出る独特の異臭が必ず入ってきた。今でもタンクに入っているドロドロの処理水が見える。
新富士駅通過中も右真横に富士山が見える。
新富士~静岡
新富士を通過すると東海道本線と直角に交差する。双方とも同じ方向を目指しているのに不思議な感じだ。新幹線が限りなく一直線だからとわかってはいるが。
そして富士川を渡る。富士川越しに見えるここからの富士山が一番の見所だろう。車内からも写真を撮るシャッター音が聞こえる。
在来線の東静岡を過ぎて静岡駅が近くなると沿線に様々な看板が見えるが、左側に「ここは静岡 テンジンヤ」の赤い看板も見える。静岡が本拠の惣菜など作っている食品会社だ。私はテンジンヤの惣菜が好きだ。最近はまわりに建物が増えてテンジンヤの看板もよほど注意していないと見失う。
静岡に停車するこだまに乗ったときは、必ず静岡駅の東海軒のシュウマイを買うことにしている。
静岡~掛川
左手、焼津の街とはるか遠くに海が見える辺りに、サッポロビール静岡工場がある。昔、職場の旅行で先輩がベロベロに出来上がって工場見学したことをいつも思い出す。
静岡を過ぎると、徐々に関東から中京地区の雰囲気がしてくる。中部が本拠のスーパー「ピアゴ」や葬儀の「愛昇殿」の看板が見え始める。名古屋人は静岡まで無口だが、浜松を過ぎるあたりから中部地方色が出てきて、縄張りに帰ってきた安心感から饒舌になるなどと揶揄されている。実際、中部の人はこのあたりの景色を見ると地元へ帰ってきたとの安心感を得るらしい。
幅の広い大井川を渡る。この辺り、味の素など有名大企業の工場も多い。
掛川~浜松
幅の広い天竜川を渡るともうすぐ浜松だ。この辺りもユニチャーム、ソニーなど有名大企業の工場が多い。
浜松駅は大きく左にカーブしている。そのため浜松が近づくと車体が大きく左に傾く。そして浜松を通過すると今度は右に大きくカーブするので、車体は右に傾く。浜松駅の前後は大きなSカーブとなっている。
ダイヤが乱れたときに、浜松駅通過線に臨時停車すると、車内は相当傾いた状態になり不快だ。
カメラを傾けているわけではありません。浜松駅手前、上りこだま号車内です。
この日のこだま号はガラガラでした。
名古屋-掛川間、2号車は貸切でした。掛川から1人、浜松からは2~3人くらいしか乗りませんでした。
浜松~豊橋
浜松を通過してすぐに右手にJR在来線の車両基地が見えて、たくさんの車両が留置されている。廃車解体待ちの懐かしい車両もよく見ることがある。
そしてすぐに、新幹線浜松工場からの単線の引込線が右側から寄り添ってくる。
以前テレビのクイズ番組で「新幹線に踏切はあるか?」という問題が出て、正解は「ある」だった。真相はこの引込線の途中に道路と交差する踏切があるのだが、ただ工場入りするために新幹線車両が通るだけのこの引込線を、新幹線と称してよいのか疑問だ。新幹線の営業線としては認可もされていないから、乗客を乗せた新幹線車両は走れない。物理的に新幹線車両が通る踏切ではあるが、ここを新幹線の踏切と定義できるのだろうか。この引込線が、線路に入ったりしたら罰せられるなどを規定した新幹線特例法の適用対象となっているのかも疑問だ。この引込線が新幹線特例法の適用外で営業認可されていない「ただの線路」であれば、新幹線に踏切はあるかの正解は「ない」だと思う。私はテレビを観ていて「ない」と答えた。ただし、JR東日本の山形新幹線など、在来線を走るミニ新幹線もあるので、設問に条件をつけたらきりがないし、こういう問題はふさわしくないと思うが。
浜名湖は豊橋-浜松間で見える。
浜松-豊橋間の線路は、アップダウンがかなり多い。車内をよく見ていると車両の前後の高さが違うことや前後どちらかに傾いていることもわかるのだが、よほど神経を傾けて注意していないとわからない。
スーパーの「ヤマナカ」が見えると、二川駅横を通過する。
豊橋駅が近づくと右手に「ミユキステーションホテル」が見える。ステーションホテルを名乗っているが、歩くと駅からはかなり遠い。今は「ミユキ」が取れて、「豊橋ステーションホテル」となっている。昔は「ミユキ」だった。
豊橋~三河安城
豊橋駅右手に「オーエスジー」の電光看板が見える。「オーエスジー」、「気温」、「時刻」を交互に表示している。駅に停車するこだまに乗っていれば全部見ることが出来るが、通過列車だと大概は3つのうちひとつしか見ることはできない。いつも気温が見たいのだが、なかなか果たせない。
豊川と豊川放水路を渡ると、まもなく左手、在来線の三河大塚付近にラグーナ蒲郡の広大な埋立地が見える。昔は海岸線が間近にあったのだが。
この辺りからトンネルを3つほど通過する。そのうちのひとつが「坂野坂トンネル」だ。このトンネルは幽霊が出ると開業当初からかなり有名なうわさがあった。食堂車のウエートレスが窓の外を見て気絶したとかなんやら。坂野坂トンネルの入口付近は映画の「動脈列島」の最終場面の舞台にもなった。犯人役の近藤正臣と警察の田宮二郎との緊迫したやりとりの場面だ。原作本ではブルドーザーを線路に落下させることに成功したが、映画では間一髪で止められて失敗となるのであった。
蒲郡付近でも左手に海を見ることができる。三谷温泉街も遠くに見えて、海の対岸の陸地は渥美半島だ。
東海道線の幸田駅が右手に見えて、東海道本線と斜めに交差する。
三河安城~名古屋
三河安城駅を過ぎてすぐに「ニチバン」の工場、研究所がある。ここに知る人ぞ知る有名な看板が新幹線の方を向いている。内容は「無くしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ」。本当にその通りだとしみじみ思う。ニチバン、上手い、座布団一枚。結構、一部の人たちには有名な看板だ。
境川を渡ると、三河から尾張になる。
丘陵地帯を切り通しで線路は通っている。伊勢湾岸道その他が交錯する高速道路の高架橋をくぐり、左手に水主が池を見ると「イオンモール大高店」がある。新しいイオンに併せて東海道本線にも南大高駅が新設された。
右手に「林テレンプ」の看板が見えるとまもなく名古屋到着の案内放送が始まる。
名古屋駅のセントラルタワーが右斜め前方に見えているが、線路は名古屋駅に近づくにつれ右にカーブしていくので、セントラルタワーはほぼ進行方向正面になっていき見えなくなる。
金山の全日空ホテルを右手に見ると、やがて東海道本線、中央線、名鉄が併走する。
出雲殿、オンワードの看板、レジャック、名鉄バスセンターから出てきてスロープで信号待ちのバスの群れなどを右手に見ながら、名古屋駅に到着する。
名古屋駅手前で上り坂となり、名古屋駅進入直前で下り坂となるので、ブレーキ操作が難しいらしい。
ホームのきしめん屋「住よし」は、金曜の夕方など大混雑している。外まで長い行列が出来ている。
名古屋~岐阜羽島
名古屋を出てしばらくは東海道本線と併走する。名鉄の栄生駅を過ぎると名鉄は右に急カーブして消えていく。そして西枇杷島駅で新幹線と直角に交差する。この辺りの名鉄の路線は曲がりくねっている。
キリンビール名古屋工場を右手に見て、清洲城が見える辺りから新幹線は左にカーブしていく。
今ある清洲城は観光用の偽物だ。本物の城跡地は新幹線の線路下らしい。
稲沢付近で右手遠くに「アピタ稲沢店」などが見える。
木曽川を渡る手前から名神高速が併走する。新幹線から見るとクルマは止まっているように見える。この区間も前に書いた映画「動脈列島」で、近藤正臣が運転するスポーツカーを新幹線と併走させて、改造無線機から新幹線のATCゼロ信号を発信して、見事新幹線を停車させるのに成功したシーンの場所だ。実際、ゼロ信号の周波数は、専門書には書いてあった。本当に可能であったのかわからないが理論上は間違ってはいないと思う。今はどうか知らないが。
岐阜羽島近くで名神高速の上を通り交差して、ラブホテルが何軒かと左手に「東横イン」が見えてくると、岐阜羽島駅だ。右手に「サンホテル」と「ホテルルートイン」が並んでいる。
岐阜羽島~米原
岐阜羽島を出てすぐに長良川を渡る。右手に元「SANYO」、現「PANASONIC」の工場が見える。「SOLER ARK」と書いてある太陽光パネルが相当昔から設置してある。元サンヨーの社宅も見える。
すぐに揖斐川を渡ると大垣市内を通過する。右手遠目に大垣市街が見える。大垣工業高校、大垣市民病院などが見える。
元近鉄養老線、現養老鉄道と交差する。
杭瀬川を渡ると、ここからスプリンクラー設置区間だ。冬期、積雪時はスプリンクラーの水を浴び始める。
白髭神社の社を囲む森を見ると、
まもなく遠くに東海道本線垂井駅と駅前通にある唯一あるマンションが見える。
この辺りから関ヶ原へ向けての20‰の急坂となる。旧0系はこの勾配では出力不足で210キロで走れなかった。
日本板ガラスなどの工場とかが沿線を連なるが、工場の水平に建っている建物と新幹線の線路構造物とを見比べると、明らかに傾いている、新幹線が上り坂を上っていることがよくわかる。
降雪期はどんどん雪深くなっていく区間だ。
関ヶ原市街地を過ぎるとすぐに東海道本線と直交する。
東海道本線の電車から撮った、新幹線の線路。
関ヶ原トンネルを抜けると、右手に伊吹山がよく見える。
かつて近江長岡駅と結ばれていた大阪セメントの専用線跡が見える。現在は遊歩道となっていて、ときおり通学の高校生が自転車で通っているのを見る。
東海道本線で言うと近江長岡付近、この辺りが東海道新幹線では一番平均気温が低いのではないかと思う。伊吹山の麓でもあるこの付近がもっとも雪が多く、かつ、もっとも遅くまで雪が溶けずに残っているからだ。
「ユタカドラッグ」やパチンコ屋が見えると、米原駅だ。米原駅は駅構内に唯一、スプリンクラーが設置してある。雪の中、猛スピード通過する新幹線にスプリンクラーの水がかけられていく様は迫力がある。停車列車が進入してくるとそのホーム側のスプリンクラーは自動的に停止する。
スプリンクラー、フル稼働中。
列車が進入すると、そのホーム側のスプリンクラーは停止する。
米原~京都
米原を出ると左手に鉄道総合技術研究所があり、新幹線試作車両が展示してある。
続いてヤンマーの研究所の大きな建物があり、そこに温度表示がされている。新幹線通勤時は必ずチェックしていて、気温を確認していた。雪の季節はマイナス3℃くらいにいつもなっていた。
すぐ東海道本線が斜めに交差し右手に分かれていく。
30秒ほどで、高架の新幹線高架橋を覆っている謎の構造物を一瞬くぐる。毎日新幹線に乗っていてこれに気がついた。
疑問は高まり、一度沿線の散歩を兼ねて現地を歩いてみた。そこには何も意味のないようにしか見えない立派なコンクリート構造物が、たしかにある。高架橋のコンクリートにさらに高架橋をかぶせたような構造物だ。その後ネットなどでもいろいろ調べたが、正解は出てこなかったが、昔、この周囲の山に採石場があったとのヒントがあった。鉱山かセメント山かわからないが採掘地とトラックなどに乗せる搬出場所とを結ぶ採取物を運ぶ索道がこの新幹線の頭上を横断真上を通っていたのではと推測している。地図上でもその採石地跡地と搬出場所跡地とを一直線に結ぶ間に新幹線の謎の構造物があり、さらに名神高速道路にも構造は違うが道路を覆う構造物があるのだ。万が一索道の積載物が落下してきた場合の安全施設ということだ。
右手に豊郷町で以前物議を醸した解体問題で揺れた小学校が見える。今は保存が決まり、アニメオタクの聖地となつて賑わっているらしい。
近江鉄道が右側に併走する。新幹線からもよく見える近江鉄道の愛知川の鉄橋は、とても歴史の古い桁が今でも現存して使用されている。
近江鉄道の五個荘駅を真下に見て、五個荘の町を右手に見る。遠目に「マクドナルド」や「餃子の王将」が見える。
やがてはるか遠くに「安土城」の看板も見えて、近江八幡の市街地や八幡山が遠目に見えてくる。あの山の麓には近江牛が食べられる店がいくつかある。
日野川を渡った地点右手に東海道本線の築堤が見える。篠原駅の辺りだ。
東海道本線の築堤が少しずつ下っていくと小さな家棟川が交差する。この家棟川は、以前は東海道本線の上を交差していた天井川であったが、大規模な河道改修により天井川は消滅し、河道は大きく移動した。
遠くに「ダイハツ工業」の社宅が見える地点がスプリンクラー設置の終点だ。
ここまでは線路脇の防音壁が赤黒く錆色になっているが、ここから一気に真っ白な壁になる。滋賀県の琵琶湖の湖東は地下水にたくさんの鉄分が含まれているため、地下水を使用しているスプリンクラーの水も鉄分が多く含まれているため、撒かれた水の鉄分が錆びて壁に付着しているのだ。夏は目立たなくなるが、冬ははっきりとわかる。
スプリンクラーの水の鉄分で赤茶けている。
ここがちょうどスプリンクラー設置区間終点。防音壁の右端が赤茶けているが、ここから防音壁は左側のように白くなる。
このスプリンクラー設置区間を過ぎても雪がたくさん降っていると、スプリンクラー設置区間よりも線路上の雪が増えてしまい、速度もスプリンクラー設置区間よりも落ちる。
すぐに、右手に野洲の車両基地が見える。たくさんの221系や223系が留置されている。ちょっと前までは、113系などの姿もあったが。
野洲駅前を通過するとき右手に「シティ野洲ホテル」が見える。昔は単に「野洲ホテル」という看板だったと記憶する。口頭で言うと「やすホテル」、「安ホテル」になっちゃうなと、一人揶揄していたが、いつの間にか「野洲」の前に「シティ」の文字を付け加えている。
野洲川を渡ると守山の市街地が右手に見え、守山駅周辺を高層建築物が囲んでいる。
どこかの工場に温度計の表示がある。ここでもいつも気温をチェックしていた。だいたい米原よりもプラス2℃くらいあった。
草津の市街地が右手に見える。ここも駅周辺にはマンションなどの高層ビルが林立している。
この辺りから遠くに琵琶湖の湖面を見ることができる。湖岸にあるイオンモール草津の建物も一瞬だが、確認できる。
やがて線路は右にカーブし始める。瀬田工業高校を右手に見ると、瀬田川を渡る。右手に瀬田の唐橋が見える。
音羽山トンネルに突入すると、冬期、激しい雪の中を走行してきたときは、トンネル内の温度変化により車体の付着した雪がバサバサと激しく落ちる。
山科駅南側の国道1号線と併走する。沿道には外食チェーン店がたくさん見える。「餃子の王将」、「ロイヤルホスト」、「すき家」、「ちゃんぽん亭」、「くら寿司」など。以前はこの次に全品380円と謳った看板の居酒屋があっが、閉店してしまったみたいだ。
一号線が右手に上りながら分かれると、東山トンネルに入り、そこを抜けると京都だ。
鴨川を渡り東海道本線が寄り添い、京都タワーが見えると京都駅に到着だ。
京都~新大阪
京都を出ると温度表示のあるビルが右手にある。ここでも毎回気温をチェックしていた。米原、守山、京都といつもそれぞれ2℃くらい違いがあった。名古屋-新大阪間の山側、DE席側で温度計があるのは、私が知る限りこの3ヶ所だ。
梅小路機関車館には煙を吐いている蒸気機関車が見える。
「ユアサ」の工場が右手にある。毎日乗るこだま号から見る道路には、通勤客がいつもたくさん歩いていた。
桂川を渡る。冬期、岐阜、滋賀県内の大雪の中を走行してきた場合、快晴となったここからでもなかなかスピードを上げないときがある。雪が車体にまだ付着しているので、それが落ちて跳ねる危険性があるのだろう。
向日町の車両基地の照明灯が右手遠くに見える。留置車両は残念ながら新幹線からは見えない。
名神高速と交差する地点は、岐阜羽島駅の手前と同様、名神高速を新幹線が跨ぐのだが、この跨線橋は岐阜羽島の箇所の設計をそのまま流用したとのことだ。工期が厳しいので新たな設計は間に合わなかったのだ。
「三菱電機」の工場などが右手に見える。このあたり工場や企業の流通基地建物が多い。
東海道本線の山崎駅近くのサントリーの工場も遠くに見える。
東海道本線や阪急と併走していく区間がある。阪急の駅は新幹線の真横にある。一度この駅に降りてみたい。
鳥飼基地の手前にも、新幹線を跨ぐ謎のコンクリート構造物があるが、これの正体は有名だ。新幹線建設開始時点では、貨物新幹線も走らす構想があっため、ここで貨物線を分岐させる予定だったのだ。建設が始まると貨物構想は中止となるのだが、世界銀行から新幹線の建設資金を借りるための計画、約束では貨物設備も作ることになっていたので、とりあえずこの貨物線分岐用の施設は作ったらしい。
そして広大な鳥飼基地の横を通る。車窓から見える、基地の門へ徒歩で入る人へのセキュリテイーチェックは厳しいみたいだ。
たくさんの新幹線が留置されている。私が大阪通勤を始めた頃はまだ300系も多かったが、2年間のうちに300系はほとんど消えた。
そして、工場で製作され道路を陸送されてきたN700系が搬入される風景を何度も見た。
阪急の下新庄駅、城東貨物線と「延原倉庫」を右手に見ると新大阪駅もまもなくだ。
右手のビルにちょうど新幹線の車窓目線の位置にどこかの企業の寮か何かの食堂が見える。毎朝、数人がテレビの方向に同じ向きに並んで朝食を食べている風景を目にしていた。たまに研修か何か入ったのか、満員状態のときもあった。
最近できた東横インが見えると、新大阪駅に到着だ。
私が通勤していたとき、反対ホームから鳥飼基地への回送新幹線がちょうど発車していった。その回送は、新大阪駅から鳥飼基地勤務の人の通勤用電車も兼ねていた。東京寄り16号車の一番前運転席隣のドアだけを開けていて、通勤客が乗り込む形だった。乗車は16、15、14号車まで限定で、座席のリクライニングの使用は禁止されているようで、全員が直立した座席に座っているという、妙な風景だった。
ダイヤが改正されてからは、自分が乗った新幹線が鳥飼基地脇を通過する時間に、その回送通勤新幹線がちょうど鳥飼基地に到着したところとなり、16号車から降りた人たちが1列になって建物へ向かって歩いているところを毎日見ることができた。
新大阪駅で、たまにドクターイエローが停車しているところを見た。
いつも、だいたい昼の12時30分頃に停車するダイヤだった。
名古屋ー新大阪間が、新幹線通勤で毎日見てきた景色なので、記憶は多い。基本、E席に座るので、海側の景色には疎いです。
東京ー名古屋間の新幹線で海が見えるのは、小田原ー熱海間、熱海駅先の来宮駅付近、焼津付近、三河大塚付近、最後に蒲郡付近だけだと思います。名古屋ー新大阪間では海は見えません。琵琶湖は見えますが。
車窓を見ながら、今まで書いてきたようなこんなことばかり考えていると、本当に時間が過ぎるのは早く、見所を見ようと構えていると気が抜けません。
車内でメールとか打っていると、見所を一瞬にして通過してしまい、見逃してしまいます。
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なかなか探すのに苦労します。
名古屋-熱海間はこの前乗ったときに、改めてブログを意識して撮りまくりました。
ふだん乗っている新幹線。
車内の過ごし方は人それぞれです。
本を読んでいる人、酒を飲んでいる人、寝ているひと、外を見ている人、パソコンをいじっている人。
私が感じる限り、寝ている、目を閉じている人が一番多くいるように感じます。
最近は平日夕方から夜にかけて乗っても、酒を飲んでいる人はあまりいないと感じます。
私の場合は、圧倒的に酒を飲みながら、外の景色を見ていることが多いです。もちろん仕事へ行くときは酒は飲みません。いずれにしても、外を見ているのが9割です。夜でも外を見ています。東海道新幹線は沿線が明るいし馴染みがあるから、夜でも景色はよくわかります。残り1割は酒を飲みすぎて気絶しています。
大阪通勤時は、大阪で飲んだあとに乗車して、爆睡して名古屋停車時の客の入れ替わりの喧騒で気がついてあわてて降りたのが一回と、名古屋止まりの列車で名古屋に到着したときに親切な乗客に一回、乗務員に起こされたことが二回あるだけです。寝過ごして名古屋で降り損なったことは一度もありません。
山陽新幹線はトンネルばかりだし、東北系は馴染みがないので、車窓も楽しくありません。
外を見ているのが楽しいしおもしろいし、いろいろ考えながら風景を楽しんでいいます。
そういうものだから、かなり新幹線の風景は覚えています。
この前、新幹線内では本ばかり読んでいて、車窓には一切興味がなく一切見ないという友人から、何か見るべきポイントはあるかという言葉を受けたことをきっかけに、新幹線車窓の自分の視点を書き綴ってみます。
東京~新横浜
東京駅を出て山手線、京浜東北線、東海道線と併走する。その車内を上から目線でのぞき込む。
朝晩(昼でも)のラッシュのすし詰めの電車内の客を、酒を飲みながら見る。
品川駅手前で、品川折り返し用の簡易な非常用ホームがある。先日の有楽町の火災でマヒした際に、活用できなかった。
火災現場です。
品川を出て、大田区内を高架橋で走る。この辺りの地形はかなりの起伏があるが、新幹線はだいたい5階建ての建物と同じ高さを走っている。3階建てくらいの建物を見下ろす景色に、建設時の苦労がしのばれる。また、建物はびっしりと高架橋際まで建っているので、沿線はかなり圧迫感があると思う。
多摩川を渡る前後は、新幹線は急Sカーブを描いている。新幹線の車体が大きく傾く。
多摩川を渡ると、直線になるので、ここから以前は猛加速を開始したのだが、今は全列車が新横浜に停車するので、今はトロトロ走りで新横浜に停車する。
新横浜~小田原
新横浜を出てすぐ左には、未だに山林が少し残っている。この前の川崎検察逃走犯は、この付近の山で捕まった。
在来線平塚駅北西約3キロ地点、(上りの新幹線だとちょうどこのあたりで新横浜到着のアナウンスが始まる地点)に、新幹線を俯瞰できるように斜面に同じデザインの住宅がたくさん建っている。テレビでも新幹線が眺められることを売りにしていると紹介された。新幹線線路と住宅との距離もほどよく離れていて、テレビ放映されたそこから見る新幹線は美しかった。新幹線から見てもデザインが統一されていてきれいな住宅街。住んでみたいけれど、駅からは遠くて不便だろう。
小田原の手前10キロ付近は、新幹線開通前の走行実験区間(鴨宮実験線)だったので、本当に初期に建設された区間だ。
小田原~熱海
ほとんどトンネル区間となり、景色は見えない。
谷間を渡るときだけ、トンネルから一瞬出るときに海が見える。東海道線の根府川鉄橋もよほど注意して見ていれば確認できる。
熱海駅通過前でかなり減速する。熱海駅は急カーブand通過線がなく本線にホームがあるから。
熱海~三島
熱海を通過するとすぐに短いトンネルを抜けて、来宮駅と熱海温泉街、遠くに海も左手に見て、新丹那トンネルに入る。戦前の弾丸列車計画で建設されたトンネルをそのまま流用した。東海道線の丹那トンネルは難工事、出水も多く工事犠牲者も多かった。このトンネル工事の影響で直上の丹那盆地は水が枯れたという。
新丹那トンネルを抜けるとすぐ左側の、東海道線の脇に丹那トンネル工事犠牲者の慰霊碑がある。
三島の手前で大きく左へカーブして、三島駅を通過する。カーブのため少し減速し、直線となった三島駅構内手前から加速する。
三島駅通過中、車窓右側に大きく富士山が見え始まる。
三島~新富士
だいたい右側に富士山が見え隠れしている。
日本坂トンネルを抜けた直後の辺りは、一瞬だが車窓左後方に富士山が見える。基本、富士山は山側に見えるが、この付近だけ海側に見える。
新富士駅付近は製紙工場が多い。最新のN700車両だとほとんど感じなくなったが、0系時代は車内に、工場から出る独特の異臭が必ず入ってきた。今でもタンクに入っているドロドロの処理水が見える。
新富士駅通過中も右真横に富士山が見える。
新富士~静岡
新富士を通過すると東海道本線と直角に交差する。双方とも同じ方向を目指しているのに不思議な感じだ。新幹線が限りなく一直線だからとわかってはいるが。
そして富士川を渡る。富士川越しに見えるここからの富士山が一番の見所だろう。車内からも写真を撮るシャッター音が聞こえる。
在来線の東静岡を過ぎて静岡駅が近くなると沿線に様々な看板が見えるが、左側に「ここは静岡 テンジンヤ」の赤い看板も見える。静岡が本拠の惣菜など作っている食品会社だ。私はテンジンヤの惣菜が好きだ。最近はまわりに建物が増えてテンジンヤの看板もよほど注意していないと見失う。
静岡に停車するこだまに乗ったときは、必ず静岡駅の東海軒のシュウマイを買うことにしている。
静岡~掛川
左手、焼津の街とはるか遠くに海が見える辺りに、サッポロビール静岡工場がある。昔、職場の旅行で先輩がベロベロに出来上がって工場見学したことをいつも思い出す。
静岡を過ぎると、徐々に関東から中京地区の雰囲気がしてくる。中部が本拠のスーパー「ピアゴ」や葬儀の「愛昇殿」の看板が見え始める。名古屋人は静岡まで無口だが、浜松を過ぎるあたりから中部地方色が出てきて、縄張りに帰ってきた安心感から饒舌になるなどと揶揄されている。実際、中部の人はこのあたりの景色を見ると地元へ帰ってきたとの安心感を得るらしい。
幅の広い大井川を渡る。この辺り、味の素など有名大企業の工場も多い。
掛川~浜松
幅の広い天竜川を渡るともうすぐ浜松だ。この辺りもユニチャーム、ソニーなど有名大企業の工場が多い。
浜松駅は大きく左にカーブしている。そのため浜松が近づくと車体が大きく左に傾く。そして浜松を通過すると今度は右に大きくカーブするので、車体は右に傾く。浜松駅の前後は大きなSカーブとなっている。
ダイヤが乱れたときに、浜松駅通過線に臨時停車すると、車内は相当傾いた状態になり不快だ。
カメラを傾けているわけではありません。浜松駅手前、上りこだま号車内です。
この日のこだま号はガラガラでした。
名古屋-掛川間、2号車は貸切でした。掛川から1人、浜松からは2~3人くらいしか乗りませんでした。
浜松~豊橋
浜松を通過してすぐに右手にJR在来線の車両基地が見えて、たくさんの車両が留置されている。廃車解体待ちの懐かしい車両もよく見ることがある。
そしてすぐに、新幹線浜松工場からの単線の引込線が右側から寄り添ってくる。
以前テレビのクイズ番組で「新幹線に踏切はあるか?」という問題が出て、正解は「ある」だった。真相はこの引込線の途中に道路と交差する踏切があるのだが、ただ工場入りするために新幹線車両が通るだけのこの引込線を、新幹線と称してよいのか疑問だ。新幹線の営業線としては認可もされていないから、乗客を乗せた新幹線車両は走れない。物理的に新幹線車両が通る踏切ではあるが、ここを新幹線の踏切と定義できるのだろうか。この引込線が、線路に入ったりしたら罰せられるなどを規定した新幹線特例法の適用対象となっているのかも疑問だ。この引込線が新幹線特例法の適用外で営業認可されていない「ただの線路」であれば、新幹線に踏切はあるかの正解は「ない」だと思う。私はテレビを観ていて「ない」と答えた。ただし、JR東日本の山形新幹線など、在来線を走るミニ新幹線もあるので、設問に条件をつけたらきりがないし、こういう問題はふさわしくないと思うが。
浜名湖は豊橋-浜松間で見える。
浜松-豊橋間の線路は、アップダウンがかなり多い。車内をよく見ていると車両の前後の高さが違うことや前後どちらかに傾いていることもわかるのだが、よほど神経を傾けて注意していないとわからない。
スーパーの「ヤマナカ」が見えると、二川駅横を通過する。
豊橋駅が近づくと右手に「ミユキステーションホテル」が見える。ステーションホテルを名乗っているが、歩くと駅からはかなり遠い。今は「ミユキ」が取れて、「豊橋ステーションホテル」となっている。昔は「ミユキ」だった。
豊橋~三河安城
豊橋駅右手に「オーエスジー」の電光看板が見える。「オーエスジー」、「気温」、「時刻」を交互に表示している。駅に停車するこだまに乗っていれば全部見ることが出来るが、通過列車だと大概は3つのうちひとつしか見ることはできない。いつも気温が見たいのだが、なかなか果たせない。
豊川と豊川放水路を渡ると、まもなく左手、在来線の三河大塚付近にラグーナ蒲郡の広大な埋立地が見える。昔は海岸線が間近にあったのだが。
この辺りからトンネルを3つほど通過する。そのうちのひとつが「坂野坂トンネル」だ。このトンネルは幽霊が出ると開業当初からかなり有名なうわさがあった。食堂車のウエートレスが窓の外を見て気絶したとかなんやら。坂野坂トンネルの入口付近は映画の「動脈列島」の最終場面の舞台にもなった。犯人役の近藤正臣と警察の田宮二郎との緊迫したやりとりの場面だ。原作本ではブルドーザーを線路に落下させることに成功したが、映画では間一髪で止められて失敗となるのであった。
蒲郡付近でも左手に海を見ることができる。三谷温泉街も遠くに見えて、海の対岸の陸地は渥美半島だ。
東海道線の幸田駅が右手に見えて、東海道本線と斜めに交差する。
三河安城~名古屋
三河安城駅を過ぎてすぐに「ニチバン」の工場、研究所がある。ここに知る人ぞ知る有名な看板が新幹線の方を向いている。内容は「無くしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ」。本当にその通りだとしみじみ思う。ニチバン、上手い、座布団一枚。結構、一部の人たちには有名な看板だ。
境川を渡ると、三河から尾張になる。
丘陵地帯を切り通しで線路は通っている。伊勢湾岸道その他が交錯する高速道路の高架橋をくぐり、左手に水主が池を見ると「イオンモール大高店」がある。新しいイオンに併せて東海道本線にも南大高駅が新設された。
右手に「林テレンプ」の看板が見えるとまもなく名古屋到着の案内放送が始まる。
名古屋駅のセントラルタワーが右斜め前方に見えているが、線路は名古屋駅に近づくにつれ右にカーブしていくので、セントラルタワーはほぼ進行方向正面になっていき見えなくなる。
金山の全日空ホテルを右手に見ると、やがて東海道本線、中央線、名鉄が併走する。
出雲殿、オンワードの看板、レジャック、名鉄バスセンターから出てきてスロープで信号待ちのバスの群れなどを右手に見ながら、名古屋駅に到着する。
名古屋駅手前で上り坂となり、名古屋駅進入直前で下り坂となるので、ブレーキ操作が難しいらしい。
ホームのきしめん屋「住よし」は、金曜の夕方など大混雑している。外まで長い行列が出来ている。
名古屋~岐阜羽島
名古屋を出てしばらくは東海道本線と併走する。名鉄の栄生駅を過ぎると名鉄は右に急カーブして消えていく。そして西枇杷島駅で新幹線と直角に交差する。この辺りの名鉄の路線は曲がりくねっている。
キリンビール名古屋工場を右手に見て、清洲城が見える辺りから新幹線は左にカーブしていく。
今ある清洲城は観光用の偽物だ。本物の城跡地は新幹線の線路下らしい。
稲沢付近で右手遠くに「アピタ稲沢店」などが見える。
木曽川を渡る手前から名神高速が併走する。新幹線から見るとクルマは止まっているように見える。この区間も前に書いた映画「動脈列島」で、近藤正臣が運転するスポーツカーを新幹線と併走させて、改造無線機から新幹線のATCゼロ信号を発信して、見事新幹線を停車させるのに成功したシーンの場所だ。実際、ゼロ信号の周波数は、専門書には書いてあった。本当に可能であったのかわからないが理論上は間違ってはいないと思う。今はどうか知らないが。
岐阜羽島近くで名神高速の上を通り交差して、ラブホテルが何軒かと左手に「東横イン」が見えてくると、岐阜羽島駅だ。右手に「サンホテル」と「ホテルルートイン」が並んでいる。
岐阜羽島~米原
岐阜羽島を出てすぐに長良川を渡る。右手に元「SANYO」、現「PANASONIC」の工場が見える。「SOLER ARK」と書いてある太陽光パネルが相当昔から設置してある。元サンヨーの社宅も見える。
すぐに揖斐川を渡ると大垣市内を通過する。右手遠目に大垣市街が見える。大垣工業高校、大垣市民病院などが見える。
元近鉄養老線、現養老鉄道と交差する。
杭瀬川を渡ると、ここからスプリンクラー設置区間だ。冬期、積雪時はスプリンクラーの水を浴び始める。
白髭神社の社を囲む森を見ると、
まもなく遠くに東海道本線垂井駅と駅前通にある唯一あるマンションが見える。
この辺りから関ヶ原へ向けての20‰の急坂となる。旧0系はこの勾配では出力不足で210キロで走れなかった。
日本板ガラスなどの工場とかが沿線を連なるが、工場の水平に建っている建物と新幹線の線路構造物とを見比べると、明らかに傾いている、新幹線が上り坂を上っていることがよくわかる。
降雪期はどんどん雪深くなっていく区間だ。
関ヶ原市街地を過ぎるとすぐに東海道本線と直交する。
東海道本線の電車から撮った、新幹線の線路。
関ヶ原トンネルを抜けると、右手に伊吹山がよく見える。
かつて近江長岡駅と結ばれていた大阪セメントの専用線跡が見える。現在は遊歩道となっていて、ときおり通学の高校生が自転車で通っているのを見る。
東海道本線で言うと近江長岡付近、この辺りが東海道新幹線では一番平均気温が低いのではないかと思う。伊吹山の麓でもあるこの付近がもっとも雪が多く、かつ、もっとも遅くまで雪が溶けずに残っているからだ。
「ユタカドラッグ」やパチンコ屋が見えると、米原駅だ。米原駅は駅構内に唯一、スプリンクラーが設置してある。雪の中、猛スピード通過する新幹線にスプリンクラーの水がかけられていく様は迫力がある。停車列車が進入してくるとそのホーム側のスプリンクラーは自動的に停止する。
スプリンクラー、フル稼働中。
列車が進入すると、そのホーム側のスプリンクラーは停止する。
米原~京都
米原を出ると左手に鉄道総合技術研究所があり、新幹線試作車両が展示してある。
続いてヤンマーの研究所の大きな建物があり、そこに温度表示がされている。新幹線通勤時は必ずチェックしていて、気温を確認していた。雪の季節はマイナス3℃くらいにいつもなっていた。
すぐ東海道本線が斜めに交差し右手に分かれていく。
30秒ほどで、高架の新幹線高架橋を覆っている謎の構造物を一瞬くぐる。毎日新幹線に乗っていてこれに気がついた。
疑問は高まり、一度沿線の散歩を兼ねて現地を歩いてみた。そこには何も意味のないようにしか見えない立派なコンクリート構造物が、たしかにある。高架橋のコンクリートにさらに高架橋をかぶせたような構造物だ。その後ネットなどでもいろいろ調べたが、正解は出てこなかったが、昔、この周囲の山に採石場があったとのヒントがあった。鉱山かセメント山かわからないが採掘地とトラックなどに乗せる搬出場所とを結ぶ採取物を運ぶ索道がこの新幹線の頭上を横断真上を通っていたのではと推測している。地図上でもその採石地跡地と搬出場所跡地とを一直線に結ぶ間に新幹線の謎の構造物があり、さらに名神高速道路にも構造は違うが道路を覆う構造物があるのだ。万が一索道の積載物が落下してきた場合の安全施設ということだ。
右手に豊郷町で以前物議を醸した解体問題で揺れた小学校が見える。今は保存が決まり、アニメオタクの聖地となつて賑わっているらしい。
近江鉄道が右側に併走する。新幹線からもよく見える近江鉄道の愛知川の鉄橋は、とても歴史の古い桁が今でも現存して使用されている。
近江鉄道の五個荘駅を真下に見て、五個荘の町を右手に見る。遠目に「マクドナルド」や「餃子の王将」が見える。
やがてはるか遠くに「安土城」の看板も見えて、近江八幡の市街地や八幡山が遠目に見えてくる。あの山の麓には近江牛が食べられる店がいくつかある。
日野川を渡った地点右手に東海道本線の築堤が見える。篠原駅の辺りだ。
東海道本線の築堤が少しずつ下っていくと小さな家棟川が交差する。この家棟川は、以前は東海道本線の上を交差していた天井川であったが、大規模な河道改修により天井川は消滅し、河道は大きく移動した。
遠くに「ダイハツ工業」の社宅が見える地点がスプリンクラー設置の終点だ。
ここまでは線路脇の防音壁が赤黒く錆色になっているが、ここから一気に真っ白な壁になる。滋賀県の琵琶湖の湖東は地下水にたくさんの鉄分が含まれているため、地下水を使用しているスプリンクラーの水も鉄分が多く含まれているため、撒かれた水の鉄分が錆びて壁に付着しているのだ。夏は目立たなくなるが、冬ははっきりとわかる。
スプリンクラーの水の鉄分で赤茶けている。
ここがちょうどスプリンクラー設置区間終点。防音壁の右端が赤茶けているが、ここから防音壁は左側のように白くなる。
このスプリンクラー設置区間を過ぎても雪がたくさん降っていると、スプリンクラー設置区間よりも線路上の雪が増えてしまい、速度もスプリンクラー設置区間よりも落ちる。
すぐに、右手に野洲の車両基地が見える。たくさんの221系や223系が留置されている。ちょっと前までは、113系などの姿もあったが。
野洲駅前を通過するとき右手に「シティ野洲ホテル」が見える。昔は単に「野洲ホテル」という看板だったと記憶する。口頭で言うと「やすホテル」、「安ホテル」になっちゃうなと、一人揶揄していたが、いつの間にか「野洲」の前に「シティ」の文字を付け加えている。
野洲川を渡ると守山の市街地が右手に見え、守山駅周辺を高層建築物が囲んでいる。
どこかの工場に温度計の表示がある。ここでもいつも気温をチェックしていた。だいたい米原よりもプラス2℃くらいあった。
草津の市街地が右手に見える。ここも駅周辺にはマンションなどの高層ビルが林立している。
この辺りから遠くに琵琶湖の湖面を見ることができる。湖岸にあるイオンモール草津の建物も一瞬だが、確認できる。
やがて線路は右にカーブし始める。瀬田工業高校を右手に見ると、瀬田川を渡る。右手に瀬田の唐橋が見える。
音羽山トンネルに突入すると、冬期、激しい雪の中を走行してきたときは、トンネル内の温度変化により車体の付着した雪がバサバサと激しく落ちる。
山科駅南側の国道1号線と併走する。沿道には外食チェーン店がたくさん見える。「餃子の王将」、「ロイヤルホスト」、「すき家」、「ちゃんぽん亭」、「くら寿司」など。以前はこの次に全品380円と謳った看板の居酒屋があっが、閉店してしまったみたいだ。
一号線が右手に上りながら分かれると、東山トンネルに入り、そこを抜けると京都だ。
鴨川を渡り東海道本線が寄り添い、京都タワーが見えると京都駅に到着だ。
京都~新大阪
京都を出ると温度表示のあるビルが右手にある。ここでも毎回気温をチェックしていた。米原、守山、京都といつもそれぞれ2℃くらい違いがあった。名古屋-新大阪間の山側、DE席側で温度計があるのは、私が知る限りこの3ヶ所だ。
梅小路機関車館には煙を吐いている蒸気機関車が見える。
「ユアサ」の工場が右手にある。毎日乗るこだま号から見る道路には、通勤客がいつもたくさん歩いていた。
桂川を渡る。冬期、岐阜、滋賀県内の大雪の中を走行してきた場合、快晴となったここからでもなかなかスピードを上げないときがある。雪が車体にまだ付着しているので、それが落ちて跳ねる危険性があるのだろう。
向日町の車両基地の照明灯が右手遠くに見える。留置車両は残念ながら新幹線からは見えない。
名神高速と交差する地点は、岐阜羽島駅の手前と同様、名神高速を新幹線が跨ぐのだが、この跨線橋は岐阜羽島の箇所の設計をそのまま流用したとのことだ。工期が厳しいので新たな設計は間に合わなかったのだ。
「三菱電機」の工場などが右手に見える。このあたり工場や企業の流通基地建物が多い。
東海道本線の山崎駅近くのサントリーの工場も遠くに見える。
東海道本線や阪急と併走していく区間がある。阪急の駅は新幹線の真横にある。一度この駅に降りてみたい。
鳥飼基地の手前にも、新幹線を跨ぐ謎のコンクリート構造物があるが、これの正体は有名だ。新幹線建設開始時点では、貨物新幹線も走らす構想があっため、ここで貨物線を分岐させる予定だったのだ。建設が始まると貨物構想は中止となるのだが、世界銀行から新幹線の建設資金を借りるための計画、約束では貨物設備も作ることになっていたので、とりあえずこの貨物線分岐用の施設は作ったらしい。
そして広大な鳥飼基地の横を通る。車窓から見える、基地の門へ徒歩で入る人へのセキュリテイーチェックは厳しいみたいだ。
たくさんの新幹線が留置されている。私が大阪通勤を始めた頃はまだ300系も多かったが、2年間のうちに300系はほとんど消えた。
そして、工場で製作され道路を陸送されてきたN700系が搬入される風景を何度も見た。
阪急の下新庄駅、城東貨物線と「延原倉庫」を右手に見ると新大阪駅もまもなくだ。
右手のビルにちょうど新幹線の車窓目線の位置にどこかの企業の寮か何かの食堂が見える。毎朝、数人がテレビの方向に同じ向きに並んで朝食を食べている風景を目にしていた。たまに研修か何か入ったのか、満員状態のときもあった。
最近できた東横インが見えると、新大阪駅に到着だ。
私が通勤していたとき、反対ホームから鳥飼基地への回送新幹線がちょうど発車していった。その回送は、新大阪駅から鳥飼基地勤務の人の通勤用電車も兼ねていた。東京寄り16号車の一番前運転席隣のドアだけを開けていて、通勤客が乗り込む形だった。乗車は16、15、14号車まで限定で、座席のリクライニングの使用は禁止されているようで、全員が直立した座席に座っているという、妙な風景だった。
ダイヤが改正されてからは、自分が乗った新幹線が鳥飼基地脇を通過する時間に、その回送通勤新幹線がちょうど鳥飼基地に到着したところとなり、16号車から降りた人たちが1列になって建物へ向かって歩いているところを毎日見ることができた。
新大阪駅で、たまにドクターイエローが停車しているところを見た。
いつも、だいたい昼の12時30分頃に停車するダイヤだった。
名古屋ー新大阪間が、新幹線通勤で毎日見てきた景色なので、記憶は多い。基本、E席に座るので、海側の景色には疎いです。
東京ー名古屋間の新幹線で海が見えるのは、小田原ー熱海間、熱海駅先の来宮駅付近、焼津付近、三河大塚付近、最後に蒲郡付近だけだと思います。名古屋ー新大阪間では海は見えません。琵琶湖は見えますが。
車窓を見ながら、今まで書いてきたようなこんなことばかり考えていると、本当に時間が過ぎるのは早く、見所を見ようと構えていると気が抜けません。
車内でメールとか打っていると、見所を一瞬にして通過してしまい、見逃してしまいます。
≘ᒹ⊀ᒹ
2014年01月11日
新幹線車内の自販機と冷水器
今度の3月の改正から新幹線車内の自販機がなくなるそうです。すでに新製しているN700は最初から自販機は設置していないようです。
乗車前に駅で飲み物を購入している人がほとんどだし、利用者も減っているのでしょう。
しかし、水すら車内で手に入らないというのはちょっと問題ではないでしょうか。
昔は、300系までは、デッキの洗面所のところに冷水器があって、水は自由にいつでも飲めました。しかし、700系から冷水器は設置されなくなり、併せて300系からも冷水器は撤去されました。サービス低下を統一させたようなものでした。昔の特急車両には必ず冷水器があったけれど、今はありません。残っているのは今や風前の灯の寝台車くらいです。
時代はペットボトルになって、冷水器の必要性も薄れてきたのは事実です。また、あのような冷水器の利用を避けるような人も増えました。
新幹線に乗って水が飲みたくなったら金を出してペットボトルを買わざるを得ないのも、私としては不満でしたが、自販機までなくしてしまうとは。
水だけは、薬を飲む必要がある人や、急に気分が悪くなった人のためにも、また、事故などで長時間車内に缶詰にされるような場合など非常時のためにも、水は常に手に入れられるようにしておく必要があると思います。
車販があるのぞみやひかりなら、どうにか買うこともできるけれど、車販はなかなか来ないのが現状です。自販機の方がいつでも安易に手に入ります。
車販のないこだまでは、車内で水は手に入らなくなります。通過待ちの停車駅でどうにか買えるくらいです。本当に事故等でこだま号が駅間に長時間停車となって、急病人とか気分の悪い人が出ても、水すら飲ませることができなくなります。
乗車前に買えばよいのだろうけれど、水くらいいつでも飲みたくなったら飲めるようにあってほしい。
自販機をなくすなら、非常時のためにも、昔の冷水器の再登場を願います。コストは多少かかるだろうけれど、リニア新幹線を自力で作れる力のあるJR東海さんなら、そのくらいのサービスはしてほしいです。
高齢者や子供や病人のためにも、新幹線車内では水はいつでも飲めるようにしてほしいです。
もっとも、私にとっては新幹線車内では水やお茶よりもアルコールばかり飲んでいるので、もともとビール等アルコール類を扱っていない自販機はほとんど利用したことはありませんが・・・
乗車前に駅で飲み物を購入している人がほとんどだし、利用者も減っているのでしょう。
しかし、水すら車内で手に入らないというのはちょっと問題ではないでしょうか。
昔は、300系までは、デッキの洗面所のところに冷水器があって、水は自由にいつでも飲めました。しかし、700系から冷水器は設置されなくなり、併せて300系からも冷水器は撤去されました。サービス低下を統一させたようなものでした。昔の特急車両には必ず冷水器があったけれど、今はありません。残っているのは今や風前の灯の寝台車くらいです。
時代はペットボトルになって、冷水器の必要性も薄れてきたのは事実です。また、あのような冷水器の利用を避けるような人も増えました。
新幹線に乗って水が飲みたくなったら金を出してペットボトルを買わざるを得ないのも、私としては不満でしたが、自販機までなくしてしまうとは。
水だけは、薬を飲む必要がある人や、急に気分が悪くなった人のためにも、また、事故などで長時間車内に缶詰にされるような場合など非常時のためにも、水は常に手に入れられるようにしておく必要があると思います。
車販があるのぞみやひかりなら、どうにか買うこともできるけれど、車販はなかなか来ないのが現状です。自販機の方がいつでも安易に手に入ります。
車販のないこだまでは、車内で水は手に入らなくなります。通過待ちの停車駅でどうにか買えるくらいです。本当に事故等でこだま号が駅間に長時間停車となって、急病人とか気分の悪い人が出ても、水すら飲ませることができなくなります。
乗車前に買えばよいのだろうけれど、水くらいいつでも飲みたくなったら飲めるようにあってほしい。
自販機をなくすなら、非常時のためにも、昔の冷水器の再登場を願います。コストは多少かかるだろうけれど、リニア新幹線を自力で作れる力のあるJR東海さんなら、そのくらいのサービスはしてほしいです。
高齢者や子供や病人のためにも、新幹線車内では水はいつでも飲めるようにしてほしいです。
もっとも、私にとっては新幹線車内では水やお茶よりもアルコールばかり飲んでいるので、もともとビール等アルコール類を扱っていない自販機はほとんど利用したことはありませんが・・・
2014年01月11日
N700A
新幹線もN700がずいぶんと増えました。
N700Aもよく見るようになりました。
しかし、N700AとただのN700は、車内も外見も、さっぱり違いがわかりません。
外見のN700Aと書いたデザイン以外、見た目の違いはゼロ。
この写真のようにN700AのAが大きい表示と、最近はAの字が小さい表示の編成もありますが、ちがいは何でしょうか。
最初からAとして新製された編成が大きくて、既存のN700をA改造されたのが小さいのか、N700A初期車が大きい表示で、増備車は小さくなったのか、そんな違いかと想像しました。
ネットで調べればわかるだろうけれど、それも味気ないので調べていません。
700系自体、つい最近出てきたような気がするけれど、700系試作車が廃車となり、リニア鉄道館入りしてしまうくらい、時代の変化は速いです。
窓の小さいN700も、いつの間にか慣れてしまいました。
N700Aもよく見るようになりました。
しかし、N700AとただのN700は、車内も外見も、さっぱり違いがわかりません。
外見のN700Aと書いたデザイン以外、見た目の違いはゼロ。
この写真のようにN700AのAが大きい表示と、最近はAの字が小さい表示の編成もありますが、ちがいは何でしょうか。
最初からAとして新製された編成が大きくて、既存のN700をA改造されたのが小さいのか、N700A初期車が大きい表示で、増備車は小さくなったのか、そんな違いかと想像しました。
ネットで調べればわかるだろうけれど、それも味気ないので調べていません。
700系自体、つい最近出てきたような気がするけれど、700系試作車が廃車となり、リニア鉄道館入りしてしまうくらい、時代の変化は速いです。
窓の小さいN700も、いつの間にか慣れてしまいました。
2013年11月05日
2013年08月15日
新幹線食堂車の思い出続き 帝国ホテル列車食堂
新幹線食堂車の思い出 ←前回のです。
帝国ホテル列車食堂でバイトしたのは、昭和59年の夏休みの2ヶ月間だけでした。
最初はお盆休み対応で採用され、8月はひかり組での乗務でした。当時は埼玉に住んでいましたので、東京の会社まで通勤、出勤して制服に着替えてから、黒革靴だけは自前で、東京駅までバスで移動しました。
東京駅発が早朝の場合など、本社には宿泊施設もあって前泊していたような記憶もありますが、何時頃に出勤していたのかまったく覚えていません。
東京駅のどこから入場したのか、さっぱり覚えていません。
仕事は主に土産物と弁当の販売でした。
当時はまだペットボトルというものは存在しませんでした。弁当といっしょに、ビニール袋に包まれたプラスチック容器のお茶も販売しました。保温ケースに入っているお茶も持てるだけ持って車内を歩きました。基本は弁当とお茶をセットで売りたいのだけど、お茶だけ買う客もいました。だから弁当を買う客にお茶を求められて売り切れでは申し訳ないので、お茶は多めに持っていたのです。それでもお茶だけ売れゆきが良いときもあり、残り少なくなってくると、「頼む、茶だけ買わないで~」って心の底では叫んでいました。
おみやげは、東京駅積み込みの基本は、東京の雷おこしに草加煎餅(埼玉だけど・・)、静岡の安倍川餅にわさび漬け、名古屋のういろう、大阪の塩こんぶ、広島のもみじまんじゅう、博多の辛子明太子などが定番でした。新大阪行きの列車内でも、広島や博多みやげも売っていたような気がします。だから「その駅は通らないだろう」と客から突っ込まれたこともあったような・・・
おみやげは途中駅積み込みのものもあって、岡山駅でマスカットや白桃を積み込んでいました。結構高くて、たしか1500円くらいだったと記憶しています。そんなに数は売れませんでしたが、それでも積み込んだ分はたいてい売れました。そんな時代でした。
帝国ホテル独自サービスだったのかどうかは知りませんが、バーワゴンサービスというものもありました。お酒類専門のワゴンで、午後から列車限定だったかな。ウイスキーの水割からなんでも揃っていました。新幹線の中で本格的に酒が飲めたあの時代がうらやましいです。
車内販売ではたいしておつり用の現金も持っていませんでした。おつりがないときに高額紙幣を出された場合は、お客さんの降車駅を確認して、号車と席番をメモして、のちの販売巡回のときに渡したりもしていました。手持ちしていない弁当のオーダーがあったときも、あとから席番をメモしてあとで持っていったりもしました。私は冷水器用の紙コップにメモしていました。あれは重宝しました。
0系、100系、300系までは洗面所に必ず冷水器がありました。700系以降はなくなって、300系も700系に合わせて冷水器は撤去されてしまいました。車内で水がタダで飲めなくするというのは明らかにサービスダウンだと思いますが、JRに対する苦情的な声は聞こえませんでした。マスコミはそういうことには興味がないからでしょうね。その頃からペットボトル飲料が全盛期となっていきます。
車内で水が飲みたければ、自動販売機でお金を出さなければならない現在よりも、昔の方が良いと思いませんか。
車販のバイトは8月いっぱいの予定でした。8月いっぱいで円満退社して、毎年9月の初めには鉄道研究会の合宿があり、それに合わせて個人的鉄道大旅行を組み合わせて、1週間くらい全国の国鉄を乗りまくっていました。
帰宅後に帝国ホテルから連絡があり、9月も働いてくれないかと依頼がありました。特に問題はなかったので、大学が始まる10月まで、9月いっぱい再びバイトとなりました。
9月の乗務はこだま組でした。たしか12組だったかな?
こだま組は人数も少なく、基本新大阪までなので楽でした。それにお盆休み、夏休みのピークも終わり、新幹線自由席も立ち客がほとんどいなくなります。ひかり組で立ち客をかき分けての販売は本当に辛かったです。
私もそれなりに慣れてきているし、こだま号の乗務の方が、のびのび楽しんで仕事ができました。
そんなこだま号から、今は車販すらなくなって、寂しい限りです。
そんなこだま号でも、4年前の新幹線通勤のときは、帰りはたまに車販からビールを買ったりしました。今日は禁酒しようと新大阪ホームではビールを買わずに乗り込んでも、車販の誘惑にいつも負けていました。
ひかり号では、新大阪から乗り込んで京都で降りるビールしか売っていない車販の人もいました。あれはすぐに回ってくるので重宝(禁酒が破られるので迷惑?)な存在でした。
追記2015.02.15
旅行収集品の箱の中から出てきました。
「サービス読本」実習生用 帝国ホテル列車食堂株式会社
バイト用の車販マニュアルです
必要部分だけなのか、ページ数は飛んでいます。
mg src="http://www.mediacat-blog.jp/usr/kumatetsu/%E8%BB%8A%E8%B2%A9%EF%BC%91%EF%BC%94.jpg" alt="" >
帝国ホテル列車食堂でバイトしたのは、昭和59年の夏休みの2ヶ月間だけでした。
最初はお盆休み対応で採用され、8月はひかり組での乗務でした。当時は埼玉に住んでいましたので、東京の会社まで通勤、出勤して制服に着替えてから、黒革靴だけは自前で、東京駅までバスで移動しました。
東京駅発が早朝の場合など、本社には宿泊施設もあって前泊していたような記憶もありますが、何時頃に出勤していたのかまったく覚えていません。
東京駅のどこから入場したのか、さっぱり覚えていません。
仕事は主に土産物と弁当の販売でした。
当時はまだペットボトルというものは存在しませんでした。弁当といっしょに、ビニール袋に包まれたプラスチック容器のお茶も販売しました。保温ケースに入っているお茶も持てるだけ持って車内を歩きました。基本は弁当とお茶をセットで売りたいのだけど、お茶だけ買う客もいました。だから弁当を買う客にお茶を求められて売り切れでは申し訳ないので、お茶は多めに持っていたのです。それでもお茶だけ売れゆきが良いときもあり、残り少なくなってくると、「頼む、茶だけ買わないで~」って心の底では叫んでいました。
おみやげは、東京駅積み込みの基本は、東京の雷おこしに草加煎餅(埼玉だけど・・)、静岡の安倍川餅にわさび漬け、名古屋のういろう、大阪の塩こんぶ、広島のもみじまんじゅう、博多の辛子明太子などが定番でした。新大阪行きの列車内でも、広島や博多みやげも売っていたような気がします。だから「その駅は通らないだろう」と客から突っ込まれたこともあったような・・・
おみやげは途中駅積み込みのものもあって、岡山駅でマスカットや白桃を積み込んでいました。結構高くて、たしか1500円くらいだったと記憶しています。そんなに数は売れませんでしたが、それでも積み込んだ分はたいてい売れました。そんな時代でした。
帝国ホテル独自サービスだったのかどうかは知りませんが、バーワゴンサービスというものもありました。お酒類専門のワゴンで、午後から列車限定だったかな。ウイスキーの水割からなんでも揃っていました。新幹線の中で本格的に酒が飲めたあの時代がうらやましいです。
車内販売ではたいしておつり用の現金も持っていませんでした。おつりがないときに高額紙幣を出された場合は、お客さんの降車駅を確認して、号車と席番をメモして、のちの販売巡回のときに渡したりもしていました。手持ちしていない弁当のオーダーがあったときも、あとから席番をメモしてあとで持っていったりもしました。私は冷水器用の紙コップにメモしていました。あれは重宝しました。
0系、100系、300系までは洗面所に必ず冷水器がありました。700系以降はなくなって、300系も700系に合わせて冷水器は撤去されてしまいました。車内で水がタダで飲めなくするというのは明らかにサービスダウンだと思いますが、JRに対する苦情的な声は聞こえませんでした。マスコミはそういうことには興味がないからでしょうね。その頃からペットボトル飲料が全盛期となっていきます。
車内で水が飲みたければ、自動販売機でお金を出さなければならない現在よりも、昔の方が良いと思いませんか。
車販のバイトは8月いっぱいの予定でした。8月いっぱいで円満退社して、毎年9月の初めには鉄道研究会の合宿があり、それに合わせて個人的鉄道大旅行を組み合わせて、1週間くらい全国の国鉄を乗りまくっていました。
帰宅後に帝国ホテルから連絡があり、9月も働いてくれないかと依頼がありました。特に問題はなかったので、大学が始まる10月まで、9月いっぱい再びバイトとなりました。
9月の乗務はこだま組でした。たしか12組だったかな?
こだま組は人数も少なく、基本新大阪までなので楽でした。それにお盆休み、夏休みのピークも終わり、新幹線自由席も立ち客がほとんどいなくなります。ひかり組で立ち客をかき分けての販売は本当に辛かったです。
私もそれなりに慣れてきているし、こだま号の乗務の方が、のびのび楽しんで仕事ができました。
そんなこだま号から、今は車販すらなくなって、寂しい限りです。
そんなこだま号でも、4年前の新幹線通勤のときは、帰りはたまに車販からビールを買ったりしました。今日は禁酒しようと新大阪ホームではビールを買わずに乗り込んでも、車販の誘惑にいつも負けていました。
ひかり号では、新大阪から乗り込んで京都で降りるビールしか売っていない車販の人もいました。あれはすぐに回ってくるので重宝(禁酒が破られるので迷惑?)な存在でした。
追記2015.02.15
旅行収集品の箱の中から出てきました。
「サービス読本」実習生用 帝国ホテル列車食堂株式会社
バイト用の車販マニュアルです
必要部分だけなのか、ページ数は飛んでいます。
mg src="http://www.mediacat-blog.jp/usr/kumatetsu/%E8%BB%8A%E8%B2%A9%EF%BC%91%EF%BC%94.jpg" alt="" >
2013年07月20日
新幹線 食堂車の思い出
先週木曜日は新幹線こだま号に乗って東京へ行きました。
そういえばこだま号からは車販は撤退したんだよなと思いながら、不便なのかどうなのか考えていました。新幹線のホームからも以前と比べて売店、キオスクもかなり撤退しています。儲からないから、その一言につきるのだろうけれど、なんかなあと思ってました。
さて、新幹線から食堂車がなくなってからも久しいです。
いったい平成何年だったのだろうか、食堂車の廃止は。ネットで調べればすぐにわかるだろうけれど。
食堂車は博多開業に合わせて当時の国鉄が、長時間乗車に対処するため、旅客の食事を考慮して食堂車導入を決めた経緯がある。今のJRなら、採算絶対だからそんな配慮はしないだろうけれど。当時だって車販は現在に比べればずっと充実していたし、駅で弁当を買うこともいくらでもできた。だけど、国鉄は採算よりも旅客の利便性も重視したのだ。そういう経営効率よりも公共性を優先していたから赤字体質であった面も否めない。一部分の側面ではあるが・・・
当時、0系の食堂車が画期的だったのは、新幹線が1435mmの広い線路幅による車両の幅の広さを活かし、在来線の食堂車と違い通路を側面に設置して、通過する客が食堂車内を通らなくてもよい構造としたことだ。その構造は、2階建てとなった100系でも通過客は1階を通ることにより引き継がれた。
営業形態も、国鉄の食堂車営業を一手にやっていた日本食堂をはじめ、都ホテル、帝国ホテル列車食堂、ビュッフェとうきょうの4社で営業していた。
食堂車のメニューや雰囲気にも各社の個性があり、乗客の中にはどこそこが営業しているひかり号を選んで乗っていたなんて人も結構いました。
実は私、大学生のときにバイトで新幹線の車販をやったことがあります。大学の鉄道研究会の先輩の紹介で働くことができました。そこは帝国ホテル列車食堂です。食堂車の評判は一番良く、選んで乗ってくれるお客さんが一番多かったのも、帝国ホテルでした。
スタッフとしての新幹線の乗務は、当時の形態はひかり組とこだま組があり、基本はその組のメンバーで乗車していました。当然、食堂車を擁するひかり組が人数も多く職人気質のコックもいるので、華やかであり、厳しくもありました。対してこだま組はビュッフェはあるものの少人数で、なんとなく家庭的な雰囲気でした。私は最初はひかり組でした。たしか32組だったかな。初乗車のときもいきなり、安倍川餅とういろうを持たされて売りに行きました。当時は、今みたいにワゴンだけではなく、みやげものだけや、弁当だけを持ち歩いて売る形態がかなりありました。ワゴンは品数も多く、今みたいにバーコードを機械で読み取り精算するのではなく、手計算、記憶だけで販売していたから、ワゴン販売はベテランの正社員がやっていました。バイトでも経験長い人は任されていたけれど。
慣れないうちはみやげもの(特にういろうは重くてつらかった)を持って車内を何往復もしたあとは腕がぱんぱんになって、乗務後の食事も腕が震えてできなかったくらいだ。あれはコツがあって、腕を曲げて抱えると無駄に負担が増すが、腕をピンと伸ばして持てば良いということを自然に覚えた。
帝国ホテル列車食堂は、全然覚えていなかったけれど、東西線の茅場町にあったことをネットで確認しました。それで新大阪と岡山と博多にそれぞれ食堂車従業員用の滞在施設があった。だから帝国ホテルが担当するひかり号は、新大阪、岡山、博多どまりに限定されていた。要するに広島発着のひかり号は帝国ホテルが担当することはなかった。
博多ひかりの場合は基本、片道のみ仕事の泊まり、一泊二日勤務だった。新大阪は時間帯により日帰り往復勤務か夜遅い到着列車だと一泊二日勤務でした。
車販は重労働ですよ。私は当時、女性の仕事では、看護婦と車販が一番大変だと確信しました。
何しろ、新幹線の中を何往復も歩きっぱなしです。当時は混んでいることも多く、立ち客を掻き分けながらの販売は大変でした。お盆の大混雑のときは、ワゴン販売を断念し、各自手持ちで販売したこともありました。
班の中でも、16両の新幹線を食堂車を中心に、こだまはビュッフェ車を中心に博多寄りをA車、東京寄りをB車と分けて分担していました。基本、自由席のあるA車担当の方がきつかったです。立ち客が多くいる場合が多いので。ひかり組のときは、バイトの私は基本、A車担当でした。グリーン車を含むB車は正社員担当が多かったです。こだま組になったときは、A車もB車もまんべんなく担当しました。
一度は読売ジャイアンツの選手がグリーン車に乗っていたこともあった。私は芸能人とか有名人に疎かったが、王さんや長島さんくらいはわかった。私に声をかけて何か買ってくれたような記憶がある。なんか関係ないことまで話しかけられもされたのだが、よく覚えていない。なにしろ当時は、プロ野球にまったく興味がなかったから。だから別になんとも思いませんでした。
当時、弁当は起点駅での積込が原則だったが、うなぎ弁当だけは車内で調製していた。調製といっても、真空パックのうなぎをチンして暖かいごはんに載せて、弁当箱に詰めたものだったが。でも箸をつけて包み紙をかけたりといった作業があった。私は箸を付け忘れるというミスをやらかしたことがある。気がついたときは急いで、売った客のところへ記憶を頼りに届けにいったものだ。うなぎ弁当は車内でいくらでも調製できたので、(ご飯は炊いたものをたくさん積んでいた、なくなることはまずなかった)駅積み込みの幕の内弁当などすべて売り切れたときに、弁当を所望する乗客の要望で作ったのだ。でもうなぎは苦手、午前中から食べたくないみたいなことを言われて、「うなぎしか出来ないならいらない」と言われたことも結構あった。うなぎ弁当は真空パックのものだけど、味はたしかでしたよ。ちゃんとタレもかけて、、暖かいから冷たい積み込み弁当よりもはるかにおいしかったはずです。高かったけれど。
あと、ビールはその日その日で積み込む銘柄が異なっていたけれど、一時、バドワイザーを積み込んでいたこともあった。一度、ビールを所望する客にバドワイザーを出したら、「それしかないのか?」と言われ、これしかないと言うと、「じゃ、いらない」と言われたことがあった。そのときの私は、今と比べて、まったくプライベートでは酒を飲まず興味もなかった。今となっては、その客の気持ちがよ~くわかります。私も、車販でモルツやドライだと「いらない」と言いたくなるので。ビールはサッポロとキリン派です。でもバドワイザーは特殊ですよね。
終着駅が近づき、ひと段落しているときに、さきほどのうなぎ弁当用のご飯が大量に余っているときなどたまに、ご飯にうなぎのタレだけをかけて食べさせてもらったこともありました。それのうまかったこと、重労働のあとでもありまだ二十歳くらいの食べ盛りのこと、あんなにうまい食べ物は記憶にありません。
泊まり勤務では乗務のあと、さきほど書いた宿泊所に行きます。到着後は、好きな人は夜の街に繰り出す人もいました。
新大阪は駅から少し遠くて、送迎のワゴン車に乗って行きました。新大阪駅構内の職員専用通路を通って外へ出るのだけど、私が4年前の新幹線通勤で新大阪に通い始めて、いつも通る通路にその職員用通路入り口を見つけて、感慨にふけったものです。
岡山と博多はたしか、駅から歩ける距離でした。たまにはバイト仲間と缶ビールを飲みながら、宿泊所で語り合ったものです。もう名前も顔も覚えていないけれど。
特筆する出来事は、営業運転中の新幹線の運転室に入り、運転台から前方の景色を見たことです。当時は新幹線運転士へコーヒーをサービスするという決まりがありました。当時の新幹線は運転士は2人乗務でした。東京ー新大阪間の中間地点を走行中に運転を交替していました。だから運転士が二人、運転室にいました。それで、コーヒーを持って行って、運転室のドアをノックして、運転していない方がドアを開けて受け取ってくれました。運転室へは入ってはいけない決まりでした。一度だけ、ノックすると運転士が「入ってきていいよ」と言って、中に入れてくれました。そして、こっちに持ってきてって言いました。運転室に入り0系の運転台ははるか高い位置にあります。階段を上り運転席に近づきました。そして一瞬だけだけど運転室から見える前方の流れる景色に圧倒されました。在来線とは別次元の世界でした。感動でした。私は立場上冷静を装いながらも、そのときの人生で最高の出来事に感動で震えてしまいました。運転士からすれば、取りにいくのが面倒臭かっただけだったと思うけれど。
こんなこともありました。コーヒーは起点駅からポットに入れたものを何本も積み込んでいましたが、売れ行きが良いとなくなってしまいます。ビュッフェにはコーヒーメーカーもあって、なくなったらそれで作って補充していました。あるとき、コーヒーを作ろうとコーヒーメーカーの水の注ぎ口のフタを明けると、なんと、ゴキブリが大量に出てきたのです。これには他のスタッフもびっくり。さすがにこの日は、コーヒーの継続販売を断念しました。新幹線って、結構ゴキブリの巣窟だと、なんかテレビかなんかでやっていました。今は、供食スペースがないし、車内のゴミも乗客がきれいに持ち帰りゴミ箱に捨ててくれるから、そんなことはないと思います。
そういえば300系にも簡易な販売スペースがありましたね。
100系時代になり、食堂車のない車両も増えて、食堂車営業列車も徐々に減っていきました。
新幹線の車販は良い経験でした。私は鉄道マニアだから、高校生の頃から鉄道ばかり乗ってましたから、乗客の気持ちはよくわかっているつもりでした。車内をゆっくり歩き、買いたそうな客、迷っていそうな客、声をかけるタイミングを計っていそうな客、などなど、自分なりに目配りして工夫していました(マニュアルにも似たようなことが書いてあったけど)。自分で言うのもなんだけど、売り上げは決して悪くなかったと思います。
今となっては、新幹線に食堂車はおろか、こだま号からは車販すら撤退した新幹線はつまらないものです。
車販も乗務する人数も少なく、のぞみの自由席1号車にでも乗った日には、混んでいるときなど名古屋から乗って東京に向かっていて、車販が来るのは三島通過する頃にやっと初めてきて、それで終わりなんてことばかりです。通常でも2往復しか来ません。私が乗務していたときは、東京ー名古屋だけで4往復はしていました。ワゴンではないけれど。混んでいたから、土産を売った後は、次は弁当を抱えて、それが終わったらビールだけ持ってと、次から次へと売って、車内を往復していました。
それにしても、今の車販のお姉さんたちは、みんなきれいでスタイルが良い人ばかりですね。私が車販をしていた頃は・・・。でも今の車販のお姉さんたちよりも当時は逞しかったかなあ。格好というかユニフォームもぜんぜん違いますよね。
帝国ホテル列車食堂も、都ホテルも、ビュッフェとうきょうも、食堂車営業から撤退し、日本食堂も縮小してのちにJダイナーとかいう会社名になって、今はなんでしたっけ?
新幹線は車販のみで、新幹線パッセンジャーサービスとJダイナーの営業となり、時刻表にも営業会社が表記されていた時代もあったけれど、今は何も書いていません。現在、車販を営業している会社ってどこでしたっけ?
朝のサンドイッチとコーヒーの500円セットは重宝しています。車販のコーヒーも本当においしくなりました。
続きです
新幹線食堂車 帝国ホテル列車食堂
そういえばこだま号からは車販は撤退したんだよなと思いながら、不便なのかどうなのか考えていました。新幹線のホームからも以前と比べて売店、キオスクもかなり撤退しています。儲からないから、その一言につきるのだろうけれど、なんかなあと思ってました。
さて、新幹線から食堂車がなくなってからも久しいです。
いったい平成何年だったのだろうか、食堂車の廃止は。ネットで調べればすぐにわかるだろうけれど。
食堂車は博多開業に合わせて当時の国鉄が、長時間乗車に対処するため、旅客の食事を考慮して食堂車導入を決めた経緯がある。今のJRなら、採算絶対だからそんな配慮はしないだろうけれど。当時だって車販は現在に比べればずっと充実していたし、駅で弁当を買うこともいくらでもできた。だけど、国鉄は採算よりも旅客の利便性も重視したのだ。そういう経営効率よりも公共性を優先していたから赤字体質であった面も否めない。一部分の側面ではあるが・・・
当時、0系の食堂車が画期的だったのは、新幹線が1435mmの広い線路幅による車両の幅の広さを活かし、在来線の食堂車と違い通路を側面に設置して、通過する客が食堂車内を通らなくてもよい構造としたことだ。その構造は、2階建てとなった100系でも通過客は1階を通ることにより引き継がれた。
営業形態も、国鉄の食堂車営業を一手にやっていた日本食堂をはじめ、都ホテル、帝国ホテル列車食堂、ビュッフェとうきょうの4社で営業していた。
食堂車のメニューや雰囲気にも各社の個性があり、乗客の中にはどこそこが営業しているひかり号を選んで乗っていたなんて人も結構いました。
実は私、大学生のときにバイトで新幹線の車販をやったことがあります。大学の鉄道研究会の先輩の紹介で働くことができました。そこは帝国ホテル列車食堂です。食堂車の評判は一番良く、選んで乗ってくれるお客さんが一番多かったのも、帝国ホテルでした。
スタッフとしての新幹線の乗務は、当時の形態はひかり組とこだま組があり、基本はその組のメンバーで乗車していました。当然、食堂車を擁するひかり組が人数も多く職人気質のコックもいるので、華やかであり、厳しくもありました。対してこだま組はビュッフェはあるものの少人数で、なんとなく家庭的な雰囲気でした。私は最初はひかり組でした。たしか32組だったかな。初乗車のときもいきなり、安倍川餅とういろうを持たされて売りに行きました。当時は、今みたいにワゴンだけではなく、みやげものだけや、弁当だけを持ち歩いて売る形態がかなりありました。ワゴンは品数も多く、今みたいにバーコードを機械で読み取り精算するのではなく、手計算、記憶だけで販売していたから、ワゴン販売はベテランの正社員がやっていました。バイトでも経験長い人は任されていたけれど。
慣れないうちはみやげもの(特にういろうは重くてつらかった)を持って車内を何往復もしたあとは腕がぱんぱんになって、乗務後の食事も腕が震えてできなかったくらいだ。あれはコツがあって、腕を曲げて抱えると無駄に負担が増すが、腕をピンと伸ばして持てば良いということを自然に覚えた。
帝国ホテル列車食堂は、全然覚えていなかったけれど、東西線の茅場町にあったことをネットで確認しました。それで新大阪と岡山と博多にそれぞれ食堂車従業員用の滞在施設があった。だから帝国ホテルが担当するひかり号は、新大阪、岡山、博多どまりに限定されていた。要するに広島発着のひかり号は帝国ホテルが担当することはなかった。
博多ひかりの場合は基本、片道のみ仕事の泊まり、一泊二日勤務だった。新大阪は時間帯により日帰り往復勤務か夜遅い到着列車だと一泊二日勤務でした。
車販は重労働ですよ。私は当時、女性の仕事では、看護婦と車販が一番大変だと確信しました。
何しろ、新幹線の中を何往復も歩きっぱなしです。当時は混んでいることも多く、立ち客を掻き分けながらの販売は大変でした。お盆の大混雑のときは、ワゴン販売を断念し、各自手持ちで販売したこともありました。
班の中でも、16両の新幹線を食堂車を中心に、こだまはビュッフェ車を中心に博多寄りをA車、東京寄りをB車と分けて分担していました。基本、自由席のあるA車担当の方がきつかったです。立ち客が多くいる場合が多いので。ひかり組のときは、バイトの私は基本、A車担当でした。グリーン車を含むB車は正社員担当が多かったです。こだま組になったときは、A車もB車もまんべんなく担当しました。
一度は読売ジャイアンツの選手がグリーン車に乗っていたこともあった。私は芸能人とか有名人に疎かったが、王さんや長島さんくらいはわかった。私に声をかけて何か買ってくれたような記憶がある。なんか関係ないことまで話しかけられもされたのだが、よく覚えていない。なにしろ当時は、プロ野球にまったく興味がなかったから。だから別になんとも思いませんでした。
当時、弁当は起点駅での積込が原則だったが、うなぎ弁当だけは車内で調製していた。調製といっても、真空パックのうなぎをチンして暖かいごはんに載せて、弁当箱に詰めたものだったが。でも箸をつけて包み紙をかけたりといった作業があった。私は箸を付け忘れるというミスをやらかしたことがある。気がついたときは急いで、売った客のところへ記憶を頼りに届けにいったものだ。うなぎ弁当は車内でいくらでも調製できたので、(ご飯は炊いたものをたくさん積んでいた、なくなることはまずなかった)駅積み込みの幕の内弁当などすべて売り切れたときに、弁当を所望する乗客の要望で作ったのだ。でもうなぎは苦手、午前中から食べたくないみたいなことを言われて、「うなぎしか出来ないならいらない」と言われたことも結構あった。うなぎ弁当は真空パックのものだけど、味はたしかでしたよ。ちゃんとタレもかけて、、暖かいから冷たい積み込み弁当よりもはるかにおいしかったはずです。高かったけれど。
あと、ビールはその日その日で積み込む銘柄が異なっていたけれど、一時、バドワイザーを積み込んでいたこともあった。一度、ビールを所望する客にバドワイザーを出したら、「それしかないのか?」と言われ、これしかないと言うと、「じゃ、いらない」と言われたことがあった。そのときの私は、今と比べて、まったくプライベートでは酒を飲まず興味もなかった。今となっては、その客の気持ちがよ~くわかります。私も、車販でモルツやドライだと「いらない」と言いたくなるので。ビールはサッポロとキリン派です。でもバドワイザーは特殊ですよね。
終着駅が近づき、ひと段落しているときに、さきほどのうなぎ弁当用のご飯が大量に余っているときなどたまに、ご飯にうなぎのタレだけをかけて食べさせてもらったこともありました。それのうまかったこと、重労働のあとでもありまだ二十歳くらいの食べ盛りのこと、あんなにうまい食べ物は記憶にありません。
泊まり勤務では乗務のあと、さきほど書いた宿泊所に行きます。到着後は、好きな人は夜の街に繰り出す人もいました。
新大阪は駅から少し遠くて、送迎のワゴン車に乗って行きました。新大阪駅構内の職員専用通路を通って外へ出るのだけど、私が4年前の新幹線通勤で新大阪に通い始めて、いつも通る通路にその職員用通路入り口を見つけて、感慨にふけったものです。
岡山と博多はたしか、駅から歩ける距離でした。たまにはバイト仲間と缶ビールを飲みながら、宿泊所で語り合ったものです。もう名前も顔も覚えていないけれど。
特筆する出来事は、営業運転中の新幹線の運転室に入り、運転台から前方の景色を見たことです。当時は新幹線運転士へコーヒーをサービスするという決まりがありました。当時の新幹線は運転士は2人乗務でした。東京ー新大阪間の中間地点を走行中に運転を交替していました。だから運転士が二人、運転室にいました。それで、コーヒーを持って行って、運転室のドアをノックして、運転していない方がドアを開けて受け取ってくれました。運転室へは入ってはいけない決まりでした。一度だけ、ノックすると運転士が「入ってきていいよ」と言って、中に入れてくれました。そして、こっちに持ってきてって言いました。運転室に入り0系の運転台ははるか高い位置にあります。階段を上り運転席に近づきました。そして一瞬だけだけど運転室から見える前方の流れる景色に圧倒されました。在来線とは別次元の世界でした。感動でした。私は立場上冷静を装いながらも、そのときの人生で最高の出来事に感動で震えてしまいました。運転士からすれば、取りにいくのが面倒臭かっただけだったと思うけれど。
こんなこともありました。コーヒーは起点駅からポットに入れたものを何本も積み込んでいましたが、売れ行きが良いとなくなってしまいます。ビュッフェにはコーヒーメーカーもあって、なくなったらそれで作って補充していました。あるとき、コーヒーを作ろうとコーヒーメーカーの水の注ぎ口のフタを明けると、なんと、ゴキブリが大量に出てきたのです。これには他のスタッフもびっくり。さすがにこの日は、コーヒーの継続販売を断念しました。新幹線って、結構ゴキブリの巣窟だと、なんかテレビかなんかでやっていました。今は、供食スペースがないし、車内のゴミも乗客がきれいに持ち帰りゴミ箱に捨ててくれるから、そんなことはないと思います。
そういえば300系にも簡易な販売スペースがありましたね。
100系時代になり、食堂車のない車両も増えて、食堂車営業列車も徐々に減っていきました。
新幹線の車販は良い経験でした。私は鉄道マニアだから、高校生の頃から鉄道ばかり乗ってましたから、乗客の気持ちはよくわかっているつもりでした。車内をゆっくり歩き、買いたそうな客、迷っていそうな客、声をかけるタイミングを計っていそうな客、などなど、自分なりに目配りして工夫していました(マニュアルにも似たようなことが書いてあったけど)。自分で言うのもなんだけど、売り上げは決して悪くなかったと思います。
今となっては、新幹線に食堂車はおろか、こだま号からは車販すら撤退した新幹線はつまらないものです。
車販も乗務する人数も少なく、のぞみの自由席1号車にでも乗った日には、混んでいるときなど名古屋から乗って東京に向かっていて、車販が来るのは三島通過する頃にやっと初めてきて、それで終わりなんてことばかりです。通常でも2往復しか来ません。私が乗務していたときは、東京ー名古屋だけで4往復はしていました。ワゴンではないけれど。混んでいたから、土産を売った後は、次は弁当を抱えて、それが終わったらビールだけ持ってと、次から次へと売って、車内を往復していました。
それにしても、今の車販のお姉さんたちは、みんなきれいでスタイルが良い人ばかりですね。私が車販をしていた頃は・・・。でも今の車販のお姉さんたちよりも当時は逞しかったかなあ。格好というかユニフォームもぜんぜん違いますよね。
帝国ホテル列車食堂も、都ホテルも、ビュッフェとうきょうも、食堂車営業から撤退し、日本食堂も縮小してのちにJダイナーとかいう会社名になって、今はなんでしたっけ?
新幹線は車販のみで、新幹線パッセンジャーサービスとJダイナーの営業となり、時刻表にも営業会社が表記されていた時代もあったけれど、今は何も書いていません。現在、車販を営業している会社ってどこでしたっけ?
朝のサンドイッチとコーヒーの500円セットは重宝しています。車販のコーヒーも本当においしくなりました。
続きです
新幹線食堂車 帝国ホテル列車食堂
2013年06月02日
700系の屋根
この前、新幹線に乗るため名古屋駅でのぞみをぼーと見ていたら、700系やN700の先頭車両は屋根が低いことに気が付きました。こんなことに今まで気が付かなかったのかと、ちょっとへこみました。
1号車の最後部、2号車と続くところと、先頭部は見ると低くなってます。
2号車から1号車を見ると。
車内の天井高はどうなんだろうか。見た目では比較できません。
今日はこれから、N700のグリーン車に乗ります。こだま号ですが。EX早割でこだま号ならプラス約1000円でグリーン車に乗れるから、東京ー名古屋間では結構利用しています。名古屋ー新大阪だと自由席がガラガラで快適だからグリーン車なんてもったいないけれど。
1号車の最後部、2号車と続くところと、先頭部は見ると低くなってます。
2号車から1号車を見ると。
車内の天井高はどうなんだろうか。見た目では比較できません。
今日はこれから、N700のグリーン車に乗ります。こだま号ですが。EX早割でこだま号ならプラス約1000円でグリーン車に乗れるから、東京ー名古屋間では結構利用しています。名古屋ー新大阪だと自由席がガラガラで快適だからグリーン車なんてもったいないけれど。
2013年05月31日
0系の思い出
最近の700系などは、走行中のパンタグラフから火花がほとんど出ません。
0系は走行中、バチバチと火花を出しながら走っていました。夜間走行では、青白い火花が8個のパンタグラフから派手に出ていて、迫力と美しさがあったものです。
現在はパンタグラフの性能が上がったのか、架線の張力を増したのか、ほとんど火花は出ません。それに16両編成に
2つしかパンタグラフがないですし。0系は高圧引き通し線がなく、全電動車で1ユニット毎にパンタグラフが必要だからパンタグラフが8個必要でした。極端な話し、今の新幹線はパンタグラフ1個でも走れるんだろうけれど、トラブル時のために予備としても必要だし、ひとつだと電流の負荷も大きくなるから2個なんですかね。パンタグラフの数が少なければ架線の減りも遅くなるだろうし、いいことなんでしょう。火花がでるのは良くないことで、昔は架線やパンタグラフへの負担も大きかったのでしょう。
0系は走行中、バチバチと火花を出しながら走っていました。夜間走行では、青白い火花が8個のパンタグラフから派手に出ていて、迫力と美しさがあったものです。
現在はパンタグラフの性能が上がったのか、架線の張力を増したのか、ほとんど火花は出ません。それに16両編成に
2つしかパンタグラフがないですし。0系は高圧引き通し線がなく、全電動車で1ユニット毎にパンタグラフが必要だからパンタグラフが8個必要でした。極端な話し、今の新幹線はパンタグラフ1個でも走れるんだろうけれど、トラブル時のために予備としても必要だし、ひとつだと電流の負荷も大きくなるから2個なんですかね。パンタグラフの数が少なければ架線の減りも遅くなるだろうし、いいことなんでしょう。火花がでるのは良くないことで、昔は架線やパンタグラフへの負担も大きかったのでしょう。
2013年02月16日
2012年12月11日
新幹線 雪です
久々に大阪へ出張でした。新幹線通勤で毎日乗っていた名古屋-新大阪を久しぶり、通勤をやめて以来、初めての乗車でした。
で、12月というのに、見事な雪景色となりました。12月中に名古屋から積雪というのは、通勤していたときもありませんでした。
名古屋からすでに雪景色。線路にも積もっています。スプリンクラーのない区間は、設置区間よりも減速します。だいたい120キロくらいのスピードで羽島へ向かいます。
すぐに、だんだんと雪深くなっていきます。
岐阜羽島はこんな感じ。
大垣の杭瀬川を渡ると、スプリンクラー区間となります。少しは増速するかと思ったけれど、変わりなく120キロ程度で走行です。
関ヶ原付近です。
米原です。スプリンクラーフル稼働中。駅にスプリンクラーが設置されているのは、米原駅だけです。
米原を出て、東海道線と交差するところ。
彦根付近。まだこんなに積もっているのに、猛加速しはじめて、通常走行になりました。
おい、こんなに積もっていて大丈夫か。何を暴走しているんだと思っていたら、1~2分で見事雪は消えました。
近江八幡付近で晴れてきました。
新大阪には約18分ほど遅れて到着しました。
帰りのホームには、N700Aの試運転列車が止まっていました。
そういえば、行きに鳥飼基地を見たときには、N700Aの新車が1両ずつばらばらに搬入されている風景も見ることができました。写真は、あっと思ったときは手遅れでした。
毎日乗った区間の車窓は、懐かしかったです。
新大阪ではいつも利用していた構内の店で、たらふく飲んでから帰りました。
さらに帰りのこだま号は、二次会の居酒屋こだま号となり、ワンカップ2本で絶好調でした。
で、12月というのに、見事な雪景色となりました。12月中に名古屋から積雪というのは、通勤していたときもありませんでした。
名古屋からすでに雪景色。線路にも積もっています。スプリンクラーのない区間は、設置区間よりも減速します。だいたい120キロくらいのスピードで羽島へ向かいます。
すぐに、だんだんと雪深くなっていきます。
岐阜羽島はこんな感じ。
大垣の杭瀬川を渡ると、スプリンクラー区間となります。少しは増速するかと思ったけれど、変わりなく120キロ程度で走行です。
関ヶ原付近です。
米原です。スプリンクラーフル稼働中。駅にスプリンクラーが設置されているのは、米原駅だけです。
米原を出て、東海道線と交差するところ。
彦根付近。まだこんなに積もっているのに、猛加速しはじめて、通常走行になりました。
おい、こんなに積もっていて大丈夫か。何を暴走しているんだと思っていたら、1~2分で見事雪は消えました。
近江八幡付近で晴れてきました。
新大阪には約18分ほど遅れて到着しました。
帰りのホームには、N700Aの試運転列車が止まっていました。
そういえば、行きに鳥飼基地を見たときには、N700Aの新車が1両ずつばらばらに搬入されている風景も見ることができました。写真は、あっと思ったときは手遅れでした。
毎日乗った区間の車窓は、懐かしかったです。
新大阪ではいつも利用していた構内の店で、たらふく飲んでから帰りました。
さらに帰りのこだま号は、二次会の居酒屋こだま号となり、ワンカップ2本で絶好調でした。
2012年03月10日
2011年06月18日
2011年04月10日
懐かしの新幹線
0系のドクターイエローの写真が出てきました。
この頃は「ドクターイエロー」なんて言葉はなかったのではないかな。
総合軌道検測車でいいんでしたっけ?
ついでに、0系お召し新幹線の写真も。
昭和54年か55年頃、たまたま東京駅新幹線ホームで撮影していたら、鉄道マニアが増え始めてなんだろうと思っていたら、この新幹線が到着したのです。
車内には昭和天皇皇后両陛下がご乗車していました。
本当に偶然でした。
前照灯のところのラインが特徴です。
私はこの頃、高校生の頃は白黒フィルムで自分で現像、引き伸ばしをしていました。
この頃は「ドクターイエロー」なんて言葉はなかったのではないかな。
総合軌道検測車でいいんでしたっけ?
ついでに、0系お召し新幹線の写真も。
昭和54年か55年頃、たまたま東京駅新幹線ホームで撮影していたら、鉄道マニアが増え始めてなんだろうと思っていたら、この新幹線が到着したのです。
車内には昭和天皇皇后両陛下がご乗車していました。
本当に偶然でした。
前照灯のところのラインが特徴です。
私はこの頃、高校生の頃は白黒フィルムで自分で現像、引き伸ばしをしていました。
2011年03月30日
鳥飼基地
新幹線鳥飼基地へ毎朝、そこで働く職員の足として、新大阪を7時40分頃発車する鳥飼行きの回送を使用しています。
毎朝鳥飼横を通過するとき、その回送から人が一列になって降りていくのをちょうど見ています。
新大阪での乗車は16号車運転席後ろのドアに限定して、係員がいて、14、15、16号車に限定しているみたいです。背もたれも動かしてはいけないルールのようです。
毎朝鳥飼横を通過するとき、その回送から人が一列になって降りていくのをちょうど見ています。
新大阪での乗車は16号車運転席後ろのドアに限定して、係員がいて、14、15、16号車に限定しているみたいです。背もたれも動かしてはいけないルールのようです。
2010年12月21日
N700搬入
新幹線鳥飼基地には、隔週くらいでN700系の新車の搬入が行われています。
朝、早朝に陸送されてきた新車が2両くらいあって作業員がいろいろ作業をしています。
毎晩2、3両ずつくらい搬入するようで、一週間くらいかけて1編成分になるようです。
来年3月のダイヤ改正で、のぞみ号は全車N700になるようです。
のぞみ、ひかりの自由席は全部禁煙になるようで、よいことです。
今は700系のぞみだと3号車が喫煙のせいで2号車、1号車が混んで、3号車の方が空いている傾向があるので。N700編成だと全車禁煙なので、乗車率は3両均一化して座りやすいのです。
こだまはどうするのでしょうか。
共通運用だからこだまも3号車は禁煙になって、喫煙自由席は15号車だけになるのかな。
朝、早朝に陸送されてきた新車が2両くらいあって作業員がいろいろ作業をしています。
毎晩2、3両ずつくらい搬入するようで、一週間くらいかけて1編成分になるようです。
来年3月のダイヤ改正で、のぞみ号は全車N700になるようです。
のぞみ、ひかりの自由席は全部禁煙になるようで、よいことです。
今は700系のぞみだと3号車が喫煙のせいで2号車、1号車が混んで、3号車の方が空いている傾向があるので。N700編成だと全車禁煙なので、乗車率は3両均一化して座りやすいのです。
こだまはどうするのでしょうか。
共通運用だからこだまも3号車は禁煙になって、喫煙自由席は15号車だけになるのかな。